mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

11月4日

 亘理被災地の学習支援をしている東北大学教育学部の学生たちの様子を見ようと29日の午後出かけた。

 大河原に住んでいるS君が車で駅に出迎えてくれた。好意にあまえ、しばらく来なかった南部の様子を見てみたいと、目的地に行く前に、中浜小まで沿岸部を走った。

沿岸部一帯、どこまで走ってもかつて人々の暮らしがあったとはとても思えない。目につくのはそちこちに散らばる重機の動き、そして列をなしてひっきりなしに行き来するダンプカー。そのナンバーはびっくりするほど全国各地のものが入り乱れる。点在する土砂の山の向うに白い防潮堤が長く伸びる。まだ完全につながっていないので、その間から海が時々見える。

 それにしても、以前に来た時とあまりに違っている様子にすっかり驚いてしまう。

 山下二小は完全に撤去されたとは聞いていたが、その跡地が容易に見つからない。家一軒、樹木一本、どこにもないのだ。あるのはダンプ街道だけ。

「どこだったろう?」「この辺ではなかったか・・・」と言っているうちに車は中浜小まで来ていた。中浜小は被災したままの姿で建っていたが、学校の周りには何もなく、ずいぶん離れた所に人家がぽつんぽつんと見えた。学校の壁面には今でも変わりなく津波の高さを示す海水の痕が残っていた。学校はこのまま残すのだろうか。

 山下二小を探してまたもどる。しばらく走って地図に照らし合わせるともう通り越している。探しようがない。仕方なく、工事の人に尋ねて、やっと二小跡に立つ。一か所に、校地内にあっただろう石碑類が重なり合うように置かれてあるだけで、その他はまったく何もない。すぐ近くで、何台もの重機が忙しく動く。ここに学校があり、周りに人家があっただろうなどと想像させるものは何一つない。作業員の方に、「あの動いている重機の、少し手前で・・・」とていねいに教えてもらえたのでたどりつけたのだ。

 被災場所によって事情がいろいろなので、私など云々することではないが、いまだに多くの人の仮設暮らしがつづく今、ダンプの列、重機の数、そちこちから運ばれたのであろう大量の土砂、白がやたら目立ち長く伸びる防潮堤を見ると、(復興の順序がまちがっていないのかなあ)と思ってしまう。

 それから亘理の学習支援所である「亘理いちごっこ」に行く。その報告は後日に。