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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

10月10日

 最近、作家のKさんの講演要旨がA新聞に載った。その講演のなかで、Kさんは「震災があらわにしたもの」として三つをあげ、そのひとつめに「日常は暴力によって簡単に分断されてしまうということ。被災した我々には、自然も暴力だ。」と言ったと書いていた。

 「日常は暴力によって簡単に分断されてしまう」ことから考えると、3・11後の被災地の分断状態は2年半後になるも先が見えない。明らかな自然災害であるから「被災した我々には」という前提で「自然も暴力だ」と言ったことにまちがいはない。

しかし、それらの前置きがついていても、「自然も暴力だ」という表現には私はどうしても違和感を覚える。しかも、3・11があらわにしたもののひとつが「自然も暴力だ」と私たち人間が言いきっていいのだろうかとも思う。時として人力でいかんともしがたい暴れ方をする自然を「暴力」と見ることは自然と人間を考えるうえで間違いではないかと思うのだ。人間は自然に支えられて生きているとの私の思いこみが強すぎるせいかもしれないが・・・。

「水と緑と土」(富山和子著)のなかに、「フローレンス・クラックホーンは、ヨーロッパの文化が『人間は自然を征服すべきもの』としてはぐくまれたのに対し、『人間は自然に屈服すべきもの』としてはぐくまれた文化をメキシコの農民文化に求め、両者の中間的存在すなわち、自然と人間との調和に築かれた文化として日本の文化を位置づけている」と書いてある。その後で日本の国土の変化をとりあげて富山さんは、「いつかどこかで、日本人の伝統的な自然観を断絶させる根本的な変化が、この国土の土地利用の上で起こされていたにちがいなかった」と書く。

他がうらやむような自然と人間の関係をもつ日本の文化が、私たちの自然観の変化から歪んできていることを富山さんは心配して書いたのが「水と緑と土」だったと思う。

その自然観の変化と3・11とは直接的には関係はなくても、「自然は暴力だ」という言葉が強く印象づくことは決してよいことではないと思う。いま、私たちに必要なことは、自然を征服すべきものと思ったり、自然災害をどう克服するかではなく、クラックホーンが言ったという日本文化がどうして変化し歪んだのかを考え、かつての日本人の自然観にもどすことに力を尽くすことではないだろうかと私は思う。