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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

10月7日

 2日、県教委は全国学力調査で県内の小中学生の平均正答率が全国平均を下回ったことを受けて緊急会議を開いたと、4日の朝日新聞県内版が伝えていた。

 その記事の中で、学力向上の具体策について、A教授が「国語や言葉の力を育てることが、すべての教科の学力向上に必要」と述べ、O町教委は、「読書に励むよう勧めており、それが国語の読解力の向上につながっている」と報告したとも書いてあった。

 A教授の言うこともO町教委の報告に特別の異議をもつものではないが、「学力向上」と言っているとき、それぞれの人たちはどんなイメージをもってしゃべっているかが気になるし、学力テストの平均点による位置が柱となっている議論は宮城の教育をまともに考えることになれるのだろうかという疑問が浮かんでくる。

 「国語や言葉の力を育てれば」という時、どのようにすればその力を育てられるのか、そのための授業を創ることはそう楽な仕事ではないはず。また、さまざまな環境に育っている子どもたちを考えれば、「~方式」などという一律の指導法がどこでも通用するわけでもないだろう。同じ学校のクラスが違っただけでも通用しない場合だってあるだろう。ということを考えると、教師に授業を創る時間の保障が何よりも大事になってくるのではないか。「創る」仕事をするためには、授業を考える時間の他にも必要な種々のものが浮かんでくる。他の教師の授業を直接目にすることも欠かせないことのひとつだろう。

 私は教師2年目のとき、K郡の支部教研の講演で、「蒸散作用を教えるのに、教科書は小枝の先に袋をかぶせるようになっているが、私は、大きな袋を探してきて枝全体にかぶせてやった」と言う講師Hさんの話を聞いて、非常に驚いた。大きい袋の方がよくわかるはずだ、教科書よりよい方法はないかを探すのは重要な教師の仕事なのだとその時初めて思った。この日私は教師としての一歩を歩んだと言えるかもしれない。

 それから数年後、身銭を切って群馬に授業を見に行った。4年生の国語。教師と子どもの読みについてのやり取りの激しいこと、自分の考えを述べる子どもは、まるで血だらけになって教師に真向かっているような1時間だった。私の授業のイメージにまったくなかった光景を目にしてただ呆然とした。

 ずいぶん遠くまでの「授業見て歩き」はしばらくつづいた。まねることすらひとつもできなかったが、それでもいつまでも澱のように沈んで私をつつき通した。

 県教委の出した5つの提言なるものを見た。繰り返しになるが、学力テスト結果に云々するところからまず抜けないと宮城の教育を考える議論を深めることにはなりにくいのではないかと思うので気になり一言あるのだが、それについては後日ふれたいと思う。