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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

10月3日

 センターへの通いには片道50分近くバスに乗る。半分は居眠りの時間になっているのだが、バスという小さい空間も結構おもしろい人間模様が見られる。

 これは仙台に来ての間もなくのことだが、朝、満員のバスが仙台駅に近づいたとき、運転手さんが「お知らせなければ止めずに参ります」と言ったものだ。あわてた乗客がピンポーンとやり、バスは止まり乗客はぞろぞろと降りて行った。この言葉がやや意地悪に聞こえたのでバスの名札を見たら、かの運転手氏は、なんと教え子の父親だったので2度びっくりだったことがある。

 今は、さすが、運転手氏からこんな言葉が聞かれることはない。それどころか忍耐づよさに驚き感心することが多い。

 降車口に来てから、ポケットに手を突っ込み財布を出す乗客は結構見られる。それから両替をして運賃表を見て小銭をチャリンチャリンと入れる。他に客が乗っているという意識は相当薄いように感じる。運転手氏は黙って黙って待っている。

 バスの案内もまた親切なこと大だ。車内事故を起こさないためということはよくわかるが、このごろは、「お降りの際は、バスの扉が開いてから席をお立ちください」と繰り返される。ほとんどの人が守る。(すごい!)と私は思うが、あまりに固く守ると、(いいのかなあ)と思ってしまうことがある。すぐ停留所という手前の信号が赤になってもその間に降車口に移動する人はまずない。私は降車口に来てもいいのではないかと思うのだが。「動け」と言うわけにはいかないが・・・。

 降車口のすぐ近くに立っているのに、バスが止まってから両替する人も見られる。

 バス会社から言えば、事故が起こらないように万全の対処は当然である。車内のアナウンスもそれになる。

 でも、それが徹底されればされるほど、人は指示待ちになり、たくさんの人と一緒に乗っていることを意識しなくなるのではないか。これは決してほめられたものではない。この種のものは身の周りを見るとたくさんあるように思う。

 話は別だが、車内アナウンスの「バスの扉が開いてから」は始まったとき、「扉」は、たいへん新鮮に、そして重々しく響いた。なんでもカタカナになっていくときだからだろう。「ドア」であれば何も感じなかったろう。カタカナにしないですむものは、できるだけそうしないでほしい。「扉」は安心感さえもたせてくれる。