mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

6月2日

 昨日は外が気持ちよく、土いじりを楽しんだが、今日は朝からどんよりしている。今からでもいいからすっきりしてほしいと空を見上げる。

 「すっきり」と言えば、あまりにあっけらかんですっきりしすぎるのも困ったものと思う。

31日の朝日新聞を思い出し取り出す。その一面トップの見出しは、「成長戦略に『原発活用』 再稼働の推進明記」とある。「政府一丸となって最大限取り組む」「『アベノミクス』で目指す経済成長には原発が欠かせない」という。あまりの露骨さに言葉を失う。

新聞として伝えることはこれで十分かもしれないが、この日の社説など別の紙面ではこのことについて社としての意見は見当たらなかった。このようなとき、私は、社としての言葉がほしい。他社はどうか知らないが。

 こんな記事を読むと、どんよりとした空模様など忘れるほど憂鬱になる。2年が過ぎても福島原発は何も解決せず、今後の見通しもまるっきり見えていない、しかも、他の原発の安全性まで問題になっているときにだ。よくぞ、政権与党が、シャーシャーとこのようなことを言えるものだ。オレらをあまりにバカにしている。これは自国内の問題だけではなく、全世界に迷惑をかけた(かけている)ことも事実なのだ。

 加えて言えば、首相が外国に「原発商売」までしているというのだから、フクシマは眼中にないのだ。新聞・テレビメディアは「アベノミクス」と連日騒ぎ立てる。その「アベノミクス」に「原発が欠かせない」と明言しているというのに・・・。つまりはみんな再稼働に組みしているということにならないか。

 この新聞記事を読みながら、とっくにその内容は忘れていたが遠いムカシに読んだル―ス・ベネデクトの「菊と刀」を引っ張り出した。「恥の文化」を思い出したのだ。

ベネデクトは次のように書いていた。

  日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた善行の道標に従いえないこと、いろいろの義務の間の均衡をたもち、または起こりうべき偶然を予見することができないこと、それが恥辱である。恥は徳の根本である、と彼らは言う。恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。「恥を知る人」という言葉は、ある時は、「有徳の人」、ある時は「名誉を重んずる人」と訳される。

一部を抜くことは著者の意を正しく伝えないことになると思うが、政府の在り方にベネデクトの言う日本人論「恥の文化」をかぶせてみたかった。国民全体の安心・安全、他国に対する迷惑に少しも意を介さず経済成長一辺倒の安倍内閣の存在の意味はどこにあるのだろうか。それでいて、道徳教育をことさら強調、その教科化まで進めようとしている。少しも恥を覚えないから道徳を強調するのだろうか。

 何のため? 誰のため?

国民をバラバラにすることに腐心し、他への迷惑を意に介さないのは・・・。