mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

何度も読み直す本、そして読み落としていたところ

 仕事に行き詰まったり、これでいいのかと自分を見つめ直すとき、時々書棚から取り出して読み直しをする本が何冊かある。その中に文庫本で村井実著の「もうひとつの教育」(小学館)がある。何年も何年も前、春さんがこの本を使って職場で輪読会をしていると紹介していただいた本である。その中に最近になって読み落としていた部分があることを発見した。
 年輩の方ならきっと誰もが口ずさんだことがある『村の鍛冶屋』という唱歌について記している部分である。1番から4番まである歌だが、ボクは1番だけを読み、ああ、あの歌だなと2番以下を読み落としていたのである。そのまま紹介する。

 

 1 しばしも休まず 槌打つ響き/飛び散る火の花 走る湯玉
        ふいごの風さえ 息をもつがず/日ごとに精出す 村の鍛冶屋
 2 あるじは名高き 一国おやじ/早起き早寝の 病知らず
        鉄より堅しと 誇れる腕に/まさりて固きは 彼が心
 3 刀は打たねど 大鎌小鎌/馬鍬に作鍬 鋤(すき)よ鉈(なた)よ
        平和の打ち物 休まず打ちて/日毎に戦う 懶惰(らんだ)の敵と
 4 稼ぐに追いつく 貧乏なくて/名物鍛冶屋は 日々に繁昌
   あたりに類なき 仕事のほまれ/槌打つ響きに まして高し

 

 村井氏は、肥後守(折りたたみ式のナイフで私たちが子どもの頃は男子ならほとんど持っていた)の産地である三木市の、ある鎮守の森の中でこの歌詞が石碑に刻まれているのを見つけた。その時、道案内をしてくれた教育委員会の方の話だと、昭和52年に文部省の意向で、この唱歌は教材としてふさわしくないという通達を受けたという。理由は今や日本中にこのような鍛冶屋がなくなったからだという。

 さて、ここでボクが読み落としていたのは、3番の歌詞である。そして昭和52年当時、この国ではどんなことがあった時期かを考えた。教育年表を繰ると、第五期の学習指導要領改訂の時期で、道徳教育の重視が書かれている。この後には国旗・国歌の指導が強化されていく。そのように考えたとき、3番の『平和』の文字がボクには光ってみえる。これこそが文部省がふさわしくないとして教材から外した真意ではないかと思うのだが。そして今、道徳が教科に位置づけられ、さらに教育勅語が国会で議論される。

 冒頭の春さんの輪読会の話からもう一つ思い出すことがる。当時は週6日で土曜日の午後はどの職場でも、昼食をはさんで職員室の一角でおしゃべりをしあうのが当たり前の光景だった。子どもの話、授業の話、政治の話、映画の話と、話題は尽きなかった。今の職員室にこのような時間と空間があれば、いじめをはじめとする今日的な問題のいくつかは解決できたのではないかと思うのだが、いかがなものか?

 ついでながらセンターで月1回開催中のゼミナール哲学sirubeは、6月からペスタロッチに入る。「もうひとつの教育」の中でも、村井氏はペスタロッチに多くのページを割いている。どんな太田ゼミになるか楽しみである。
 久しぶりの投稿で、ついつい欲張って書いてしまったようだ。<仁>

広辞苑「いじめ」見出しの登場と、教育の歩み

 「いじめ」という文字が新聞の見出しに頻繁に登場する。

 それが、中学生を自死にまで追い込むとすれば、他人事ですますことではないから新聞などに見られるのは当然のことであり、その根絶への取り組みは急務である。

 「いじめ」という言葉を耳にするようになったころ、なんとなく(これまで「いじめ」なんて言葉を聞いたことがなかったなあ)と思ったことが記憶にある。
 「いじめる」「いじめられる」など動詞ではそれまでもふだんの言葉として身の回りで使われていたし、自分でも使ったことがあるが、「いじめ」という名詞での使用の記憶は思い出せなかったのだ。それで、辞書をいろいろめくってみたことがある(もしかすると、以前この欄で触れたかもしれない)。

 すると、手元の「広辞苑」が私の疑問に応えてくれた(そう言い切っていいかどうかはわからないが・・)。
 1983年11月(昭58年)に出ている広辞苑第3版では、「いじめ」は見出し語としては出ていない。ちなみに、「いじめる」は出ていて「弱いものを苦しめる」と説明している。
 その後の広辞苑第4版は8年後の1991年11月(平3年)に出されているが、その第4版になって「いじめ」は初めて見出し語になって出ていたのだ。その説明は、「いじめること。特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛みつけること。」とある。「いじめる」もあり、その意は3版と同じであった。 

 広辞苑を絶対視するわけではないが、広辞苑は辞書と言ってもその時々の社会の動きに特に敏感に反応しているように思うことを考えると、この広辞苑の3版と4版の事実から言えば、3版の出た1983年11月までは、「いじめ」と言われる事実はあったにしても見出し語のひとつとして取り上げるほどではなかったととることができ、それが4版で取り上げざるを得ないようになったのは、80年代になってからのそれまでと違う動きからきていると言えそうだ。しかも、その意に「特に学校で」と使っていることから言うと、「いじめ」は今も学校の場に特有のものであることのようだ。(私は、そう言い切ることについては異論をもつし、「いじめ」があったかどうかの調査や議論で済ませられるものではないと思っており、過去の私の教室でのことでも、今も自分の中にオリのように沈んでいるものがある。これらは、また近いうちに触れたいと思う。)

 なぜ80年代なのか。そして、80年代はどんなことがあったのだろうか、教育関係の動きを主にちょっと年表をのぞいてみる。

80年  教科書偏向攻撃再燃  教科書検定強化 「荒れる中学生」現象

81年  校則強化、管理主義教育強まる  教師の体罰急増

82年  教科書検定(侵略―進出問題)国際問題化  

84年  臨時教育審議会設置 「いじめ」・自殺の急増

85年  文部省「いじめ」問題指導充実について通知 「校内暴力」再燃

87年  臨時教育審議会最終答申

89年  初任者研修開始
     学習指導要領改訂(生活科設置、中学選択拡大、国旗・国歌強要)  

90年  (高校進学 95・1% 大学・短大進学 36・3%)

91年  第14期中教審答申(高校多様化、入学者選抜制度改革など)

92年  学習指導要領改訂(「新学力観」の画一的押しつけ)

93年  「いじめ」件数激減(文部省調べ)

 ちょっと並べてみただけの略年表の中に「いじめ」という言葉は84年に出ている。自分を振り返っても、80年代は、学校の変化の大きかった時のように思う。そのなかで「いじめ」が年表にも出てきて、今も変わりないどころか、仙台ではここ3年、生徒の自殺者まで出している。「いじめ」という言葉の陰湿な響きは、「学校」ともっとも相いれないものに思うが、それが、長年つづくということを、過去になった私らも他人事にせず、教育関係者は総がかりで真剣に考えなければならない。一片の通達ごときで解決するものではないことはまちがいないと思う。

( 春 )

学習会の案内 パートⅡ                (ゼミナールsirube 特別企画『能の世界への案内』)

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 ゼミナールsirubeでは、古代ギリシャから現代までの教育哲学・思想の歩みについて読書会を行っています。もうかれこれ何年になるでしょうか・・・。この読書会でご指導くださっている太田直道先生(宮城教育大学名誉教授)、実は哲学研究者の顔のほかに能楽師としての顔もお持ちです。7月に行われる「第36回市民能楽講座 能楽講演」にも能楽師として出られます。

 そんなことから今回は特別企画として、太田先生に『能の美学』というタイトルでお話いただくことになりました。ぜひ興味関心のある方はご参加ください。

(なお、ゼミナールsirubeに今回初めて参加するという方は、会場準備の関係もありますので、当研究センターまで事前にご連絡ください。)


ゼミナールsirube特別企画
『能の世界への案内』

  • 日 時 5月29日(月)13:30~16:00
  • 会 場 みやぎ教育文化研究センター
  • 参加費 無料

学習会の案内 パートⅠ(道徳の教科化について)

 昨日、帰りの車のなかでラジオに耳をかたむけると、来年度から小学校で本格実施となる「特別の教科 道徳」についてのやり取りが聞こえてきました。ラジオでは、道徳の教科化で、教科書が使われ一定の道徳的な枠組み(価値)が教えられることや、子どもたちの内面を評価をすることなどが話題となっていました。

 この「道徳」の教科化についての学習会が、今度の日曜日(5月28日 13:30~ フォレスト仙台2F  第7会議室)に行われます。講師は、子どもと教科書全国ネット21の常任運営委員の石山久男さんです。ラジオで話題となっていたような点も含め、今回の道徳の教科化のねらいや課題、問題点についてお話しして頂けることと思います。ぜひご参加ください。

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爽やかな、そして希望がみえた安田菜津紀講演

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 21日の安田菜津紀さんの講演会は、センター主催の行事では、あまり見かけることのない人たちの顔が会場のあちらこちらにみられた。前日まで連日のように問い合わせの電話がなったのも納得だった。新たなセンターとの出会いの場がつくれたことがうれしい。センターの今後の活動を考える上でも貴重な講演会となった。高校生の参加が多くあったこともうれしい限りだ。安田さんに感謝である。

 講演では、カンボジア陸前高田、シリアで、安田さんが出会った子どもたちの具体的な話を、それぞれ現地の情勢と重ねながらのお話。大変な思いをしている子どもたちを前に、自分は何も力になれないと打ちひしがれた時に「人にはそれぞれ役割分担があるのだから、安田さんはこの状況を世界に伝えて」と言われた言葉がとても心に響き、自分のできることを少しずつやればいいのだと元気をもらったと語りかけ、私たち参加者にも、それぞれが、今、自分ができることを考え、やり続けることの大切さを呼びかけました。

 それにしても、爽やかなやわらかい語り口で、テンポも心地よく、そして核心をつく問題の提起。サンデーモーニングでの的確なコメンテーターの姿そのまま。小川が流れるように、淀みなく時が流れ、あっという間の90分となった。講演後のサイン会でも参加者と会話を交えながら応じていただきました。

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高校生とか、若い人もいっぱい来るといいな

 昨日の夕方、用事を済ませてセンターに戻ってくると、ぷるるる~、ぷるるる~と電話が鳴っています。急いで机の電話に手を伸ばし受話器を取ったのですが、切れてしまいました。ここ数日の状況からすれば、これは安田さん講演会の問い合わせに違いない。すかさず着信履歴を確認し、意を決して電話をかけてみると受話器の向こうから「はい、〇〇高校ですが・・・」、??個人ではないんだ・・・おずおずと「先ほど、そちらから電話をいただいたようなのですが・・・」

 しばらくして受話器に出てきたのは、写真部の先生でした。今回の安田さんの講演を知って連絡をくれたのです。生徒のみなさんにも声をかけてくれているとのこと。そう、そう、高校生以下は無料なんです。この講演で、世界を舞台に活躍する安田さんと出会い、その話から多くの刺激を受けとってもらえればなあと思っています。高校の先生からのうれしい電話でした。(キヨ)

『教育』を読む会報告 です! ぜひ参加ください。 

 当研究センターでは、教育科学研究会が発行している月刊誌『教育』をテキストにした読書会を行っています。先日の5月例会には、小・中・高の教師や教育に関心のある保護者や市民、さらには大学の研究者などが集まりました。この会の特色は、教育や子育てにかかわる様々な方が参加していることです。ぜひ皆さんも参加ください。
 会の運営を中心的に担ってくださっている宮城教育大の本田さんが、5月の会の様子をまとめてくれました。みんなの言いたい放題、好き放題の発言や意見を、その趣旨を解釈し押さえながら、さらにテキストの文脈に位置づけてまとめてくれています。う~ん、やっぱり本田さんは研究者ですね。以下、その報告です。(キヨ)
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  今回は、4月号の特集1「『教育の良心』を引き継ぐ」から、山﨑隆夫論文「教師の仕事は『奇跡』の連続」と、福島裕敏論文「教師教育をとおして育て継承する『教育の良心』」を中心に読み合いました。
 「行為」としての教育に宿る良心(南出吉祥論考、45頁)とは、教育という営みに携わってきた人々に歴史的に継承され、今日的に追求されている「よりよい教育」をめぐる価値だと言えるでしょうか。

 山﨑論文からは、現在の学校において「教育の良心」を守ることとは、目の前の子どもたちをしっかりとみつめ、「学校的・形式的」枠組みではとらえきれない、子どもの深い人間的願いや葛藤に迫る対応や教育をしていくこと(8頁)であり、そのことは「子どもの権利条約の視点にも通じるものであることがわかります。
 いっぽうで、今日の学校現場に即して考えるとき、理想と現実には差があるという話も出ました。学校・教師には、子どもの命の保護について、いつの時代にもましてセンシティブな対応が求められています。しかし教師の多忙化や、「孤立化」⇒「無力化」⇒「透明化」というプロセスを辿る今日にいじめのみえにくさなどによって、子どもの命と権利にかかわる「教育の良心」を守ろうにも守り切れない現状も生じているようです。
 山﨑論文では、「教育の良心」にもとづく教育実践の前に立ちはだかる困難として、「競争的・能力主義的教育の押しつけ」と、生きづらさを抱え自他を認められず「攻撃的・非人間的ともいえる表現・表出をする子どもの存在に対し、彼らをどう受けとめ希望へとつないでいくか」(1112頁)を挙げています。なお、この二つと関連しつつ、もう少し別の要因もあるように思いました。学校・教師への社会的な信頼低下、にもかかわらず学校・教師に向け増え続ける要求、限度を超えた多忙化、学校教育を塾などの教育サーヴィスと同等にみる父母の存在・・・などなどです。

 福島論文には、現在進行している教師教育改革の動向が、「よりよい教育」とは何かという議論(55頁)を後景に退かせ、「職務遂行的教職観への再編」(52頁)を図るものだとあります。
 政策が掲げる「学び続ける教員像」とは、あくまで定められた職務を遂行する能力を高め続けるだけの教師の育成を目指すものだというということです。
 たとえば「アクティブ・ラーニング」については、国や県の教育委員会がたとえば「協働」的な授業実践例を出し、学校でもそれをやるべきこととして熱心に取り組む管理職が呼応して、どんどん学校・教師の自律性が損なわれていく。すでにそんな動きが出ていることも話題になりました。
 教員育成協議会と教員育成指標づくりの動きが本格化していけば、教師の養成・採用・研修はさらに画一化され、「教育の良心」を奪われた教師がつくられてしまう。大学での教員養成も変質していくでしょう。見逃せない動きです。(本田)

 6月の例会は、次の通りです。ぜひ参加ください。

 ◆日 時 6月24日(土)10:00~
 ◆場 所 みやぎ教育文化研究センター
 ◆内 容 
  5月号 特集1 部活動の深い悩み
      特集2 検証・ブラックな学校
     6月号 特集1 相模原事件は問う
         特集2 実践記録 ~書いてみた・読み解いてみた2~