mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風12(葦のそよぎ・心のある道)

 葦のそよぎー心のある道ー

——わしにとっては、心のある道を歩くことだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけが、ただひとつの価値のある証しなのだよ。その道を息もつかずに、目を見ひらいてわしは旅する。
          ※          ※

知者は行動を考えることによって生きるのでもなく、行動をおえた時考えるだろうことを考えることによって生きるものでもなく、行動そのものによって生きるのだ、ということをお前はもう知らねばならん。
   ※          ※

カスタネダはなぜ幽霊なのか? ドン・ヘロナが出会った人びとはなぜ幽霊なのか? それは魂がここにないからだ。彼らの魂はどこにあるのか? 道のかなたに、「目的地」にある。彼らは道を通ってはいるが、その道を歩いてはいない。
                                                     (真木悠介『気流の鳴る音』から)

 こんなことを打ち明けるのは、本当に気恥ずかしいことなのだが、今頃になってぼくは山歩きを始めたのだ。まるで密かな欲望にとりつかれた小学生がその欲望を満たそうといじらしくも自分のこづかいの一部をためこんだり、親の目をかすめて毎日のおつかいのつり銭を拾い集めたりするように、ぼくは妻の目を盗んでは山歩きの道具一式を買いそろえていった。ある日妻が靴箱をあけると、その片隅に見慣れない大きく重い登山靴が隠れるように置かれていたり、物置のようなぼくの部屋に捜し物に入ると目新しい紙袋のなかに登山ズボンが、机の下にはまるめられた真紅のナイロンザックが、という具合に。もちろんのことその都度ぼくは嘲笑され、呆れられた。というのも、子供の頃からおよそスポーツなどという身体の喜びからは無縁なぼくに登山道具はどうみても結びつかないからだし、また常日頃ぼくは結局は役立たずに終わる小物につい金を出すその浪費癖を非難され続けてきたからだ。

 こうして発覚と嘲笑の小事件をつみ重ねながら、しかし僕はある日曜日朝の四時に起きだして一人で郊外の山に出かけた。もちろん大した山ではないが、それでもぼくはその日ほぼ七時間近く山道を歩き続けた。帰ってきてぼくは妻にこれからは月に二回は山歩きにでかけるつもりだと宣言して、また呆れられた。

 最初は、ぼくは自分のことをこう考えていた。自分が山歩きを楽しもうとするのはいずれ息子を山に連れていくための練習なのだと。息子はまるっきりぼくそっくりの運動音痴で、しかもそれに加えて彼が生まれ育った東京の環境は昔の比ではなかった。一言でいえば自然などという言葉はそこでは死語に等しいのだ。父親らしくぼくは彼が少しでも身体と自然を享受しうる人間となるよう自分のなしうることをあれこれ思い描いてみたのだ。

 だが、実のところ、それは口実であった。というより、ぼくは息子のことを考えることを通してかつての自分の「少年の孤独」を自分のうちに賦活することを欲しているのだ。もともと大人の生活秩序に対しては外部の存在たる少年は享受に満ちた孤独というものをよく知っているものだ。そしてたとえそれがたいていの場合せいぜい街を一人でほっつき歩くぐらいのことで、いずれ元の場所に戻るしかないのだとしても、少年は自分を自分だけに与えるために家を離れ、学校から脱け出し、仲間からはずれることによって、自分の道を歩くことを呼吸するのだ。自分という自由を呼吸し、自分という道を歩くためにはある時離脱してしまわなければならない。いずれ必ずそこに戻らざるをえぬ深い絆が解きがたくぼくたちを生活というものに結びつけているにしろ、歩くという感覚を回復するためには歩くこと自体が目的となり、それ故それまで道を通うものとして意味づけていた諸目的が一瞬没し去るようなだからそこでは孤独であるほかない時空をもたねばならない。そしてその孤独はある享受に満ちたものだ。

 山歩きというものは奇妙なものだ。歩くことそれ自体という時空を現出させるためにぼくたちは「あの山頂に到る」という目的をひとまず自分にたててみせるのだ。急な登りにかかればたちまち疲労が湧出する。汗がふきだし、呼吸は乱れる。それを整え整え、一歩をまた一歩をと体をひきあげるようにして上がっていく以外に登るということはできないのだ。登りだしてしまえば登りきるほかなくなり、登ってしまえばたとえ足が棒になろうと降りるほかない。だがその疲労は樹木をまた自分の身体を呼吸するための疲労だ。こうして実は山頂に到るという目的は、目的のようにみえて実はひとつの仕掛け、歩くこと自体を現出させるための手段なのだ。

 この突然のぼくの山歩きをいぶかしんでぼくの友人が妻にその理由をたずねた。彼女は笑って「妻離れを起こしているのよ」と軽口をたたいたが、実際それは当たっている。これから自分の道を歩こうとする少年がそのために自分を呼吸しようとし、自分をただ自分だけに与えるための孤独を欲するように、今またぼくはそれを欲する。ぼくのなかにかつての少年の日の孤独を賦活させる必要があるのだ。要するにぼくは今それが必要となる年齢にさしかかったのだ。

 真木はこう書いている。

 「道のゆくさきは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ」と。

 ぼくの山歩きの欲求にこうした透明な生の理念が宿されているのかどうか、ぼくの欲求はそこまで到達しているのかどうか、それはわからぬ。ただぼくは享受に満ちた孤独を欲している。

 梅雨の山道を歩く。雨空の下暗く沈んだ深い森のなかを、青白くボッと音をたて発光する下草の重なりを、歩く。ただ歩く。(清眞人)

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 清さんからいただいたコピーから推察すると、この文章が書かれたのはしばらく前のことになる。今も歩いているのかどうかは、それはまた別の話。そのうち清さんから聞けるかもしれない。

 歩くことに目覚めるのは、なにか年齢的なことがあるのだろうか? 実は私のまわりの方々も歩くことに精力的だったりする。昨年から事務局に関わってくれているSさんは、ここしばらくまとまった休みが取れると、ひとり四国にお遍路に出かける。そういえば、春さんもその一人だった。かくいう私も、年齢的なことはさておき、震災時に交通機関がしばらく麻痺したのをきっかけに、台原森林公園を歩くようになった。今も毎日とはいかないものの歩くことを楽しんでいる。

 実は今朝も歩いてきた。清さんは文章の最後を「ただ歩く」と書いているが、私の場合は黙々ずんずんといった感じかな。黙々ずんずん歩いていると体の内燃機関が活発に動き出し内側から生きているぞという声が、叫びが湧き上がってくる。その雄たけびと相まって台原森林公園の草木の緑が目にビシバシと飛び込み、鳥のさえずりがそこかしこから聞こえてくる。実は生きているぞと叫んでいるのは私だけではないのだ、森林公園全体が生きているぞと叫んでいる。そうして歩いていると、えもいわれぬいい気分になってくる。
 と同時に、この時間がいろいろ考えるのにうってつけだ。いろんな妄想も含めたアイディアや考えが浮かんでは消え、消えては浮かび。それをメモすればいいのだが、メモをしないばかりに後であれはなんだったっけ?となること、しばしば。でも、その時間が自分の考えを巡らしたり気持ちを整えたりするのに、すごくいい時間になっている。

 なんだか清さんの話の内容からはどんどん離れて、下世話な話になっているような気がするので話はここらで終わりにしますが、この時期は、歩くのにとってもいい季節です。ぜひ皆さんも、ときには自然の散策にでも出かけてみてはいかがですか。(キヨ)

新聞に「一関の千葉さん」の文字を見つけて

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 5月13日の河北新報に、「1948年・アイオン台風で被災、生還 一関の千葉さんが体験記」という囲みの記事が載った。本文の一部を抜くと「~~7人家族だった千葉さんがアイオン台風に見舞われたのは8歳の時、堤防が決壊して氾濫した磐井川に流され、38キロ下流登米市中田町で川岸に打ち上げられた。母と兄弟3人が犠牲になった。~~」。
 見出しの一部「一関の千葉さん」の文字は、小中学生時代の自分に老いた私を一目で戻した。
 私の生家は、岩手県境で北上川沿い。川向いの高台に果樹園をもつ叔父が住んでおり、果樹園の裏手の岩壁にびしょ濡れでしがみついている子ども「一関の千葉さん」を見つけて世話したのがこの叔父一家だったのだ。記事は「磐井川の下流38キロ」とあるが、磐井川から北上川に流され、その下流38キロが正しいのだろう。
 
 時間をこの時からもう少し前に戻す。
 私は、太平洋戦争開戦2年目の1942年、分校に入学した。分校には、なだらかな山坂を上り下りしての通学であり、私の人生で一番四季を満喫した時であった。
 春先、ランドセルを投げて、農業用の堤の枯草の上で寝転んで帰るのがいつの間にか習いとなっていた。秋は、山坂の途中でランドセルを道端に投げ、山に入る。少し踏み入るだけで、キノコが列をなして待っている。細い笹竹の枝を払い、キノコを串刺しにして意気揚々と帰る。母親への土産だ。秋はこんな日がしばらくつづく。冬、この坂道は竹スキー場になる。竹スキーは自作だ。坂道の頂上の木の陰に置いておく。行き帰りにすべるのだ。坂道の傍の家人は、道にもみ殻を蒔くので、滑る前の仕事は、このもみ殻払いだ。大人に叱られた記憶はない。いたちごっこだったのだ。
 夏は、プールなどはないので、もっぱら北上川が遊び場だった。

 いまもはっきりと記憶にあるのは、秋のキノコ採りが年々不作になっていき、道ばたで子どもが採れるということができなくなっていったことだ。山が荒れたためだ。なぜ山が荒れだしたのか。村の男衆が次々に戦地に駆り出され、山の手入れをする人がいなくなったことだと今でも私は思っている。
 それだけではない。敗戦が近づくにつれて、部落の女の人たちが総出で、「松根油をとる」ということで、毎日、松の木の根ほりに駆り出されたのだ。母親も、45年の8月15日の午前も行っていた。昼、「玉音放送」を聴くために、汗をふきふき帰ってきて、ラジオのある家に近所中が集まった。母の松の根掘りは午後なかった。私は4年生だった。

 戦後、どうしたわけか、毎年、これまでに出会ったことのない大型の台風に見舞われるようになった。台風は、なぜかアメリカの女性の名がつけられた。キャサリーン台風とかキティ台風とかと。この台風にも私は戦争で荒らしてしまった山が浮かんだ。
 北上川は、ふだんはゆったりと流れ、荷物を運ぶ平田船がポンポンポンと上り下りしており、堤防と並んで建っていた私の家には、こののどかな蒸気の音はよく聞こえ、そのたびに堤防に駆け上がり、見えなくなるまで眺めるのも私の日課であった。
 しかし、台風が来ると、この川は姿が一変した。川沿いの畑を一飲みにし、川幅は倍になり、濁った水が休みなくゴーゴーとうなりつづけ、水かさは、堤防の高さにまでせまってくるので、そのたびに私は震え上がった。

 対岸の堤防の端が切り立った岩壁と結びつき、その部分だけが川に突き出ているので、ふだんでも、ここだけは渦を巻いており、私たち子どもたちのあやつる舟は近づかないようにしていた。ここは洪水時には遠くからでも渦巻きは激しく狂い、深く高く速く、何でも引き寄せ、飲み込み、粉々にしてしまう。
 家がそっくりそのまま流れてくることが何度もあった。それらはすべて渦に引き寄せられ、バラバラにされて下流に流されていくのを何度見たことか。
 「一関の千葉さん」の家もそうだったのだ。家が壊され、渦巻きから吹き上げられたとき、8歳の千葉さんは岩壁のくぼみに投げおかれたのだろう。まさに奇跡だ。
 果樹の見まわりに行った叔父が、遠くから子どもの泣き声を聞きつけて、探し出したのだという。

 私は、叔父の家にはしばらく行っていないが、千葉さんは、以後何十年毎年欠かすことなく「挨拶に来ていた」と言っていた。
 それで(「一関の千葉さん」はあの人だ)とすぐわかった。助けたのは偶然ではあったが、以後、私は、このワンマンな叔父を、口には出したことはないが誇りに思うようになり、何十年も挨拶に来つづけた、会ったことのない千葉さんは私の忘れえない人のひとりになった。( 春 )

第1回めんこいゼミ・報告

 22日に開催された第1回の「1年生めんこいゼミ」、仙台市の多くの学校が25日に運動会という日の3日前です。練習の疲れがピークに達するだろう日の開催では誰も参加しないのでは?と危惧されましたが、なんと10名以上のみなさんに参加いただきました。

 ひらがな指導の話に入る前に、それぞれのクラスや学校の様子について交流しましたが、1年生の子どもたちは小さなトラブルなどはありつつも、やっぱり「めんこい」とのこと。それでも入学からGWを挟んで学校生活もしばらく経ち、子どもたちもまわりの様子見の段階から、それぞれの個性が出始め、徐々にその頭角と本領と正体を現しつつあるようです。そういう意味では、これからが「めんこい」だけではいられないような様々な課題も出てくるのかもしれませんね。

 この日は、第1回ということや運動会目前ということもあって、ひらがな指導を含めじっくり話を聞いたり交流したりする時間をとることはできませんでした。
参加者の思いを聴き合いながら、会の内容や進め方を決めていったらよいと思っています。

 ちなみに、次回6月26日(水)18:30~ です。
 1回目で十分話し合えなかった内容も含め引き続き「ひらがなの指導」(一応、くっつきの助詞「は」「へ」「を」など)を交流・学習する予定です。

季節のたより28 ヒメシャガ

ガクも雌しべも花びらにして、雄しべを隠す花の知恵 

 5月後半に入って、若葉の緑がしだいに濃くなってきました。尾根筋に続く遊歩道を歩くと、木立の中を抜ける風が爽やかです。その風に運ばれてどこからか樹の花の香りがしてきます。足元には、四方に広がる細長い葉を伸ばして、薄紫色のほっそりとした花が咲き出しました。ヒメシャガの花です。
 ヒメシャガはアヤメ科の花で、カキツバタ、アヤメなどと同じ仲間です。仙台地方では、この花の咲く頃にカッコウが鳴き出すので、「カッコウバナ」ともよばれています。

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       山里の道の端に咲くヒメシャガの花

 ヒメシャガは、北海道南西部から本州、四国、九州北部までの、山地や湿り気のある林の中、岩の斜面などに群生します。県内では、里山の林縁や山道の端に咲いていて普通に見られる花です。点在する岩の上などに、好んで乗りたがるところもあって、根が岩の上に露出し、その先のわずかの根が岩の隙間に入り込んでいるのを見ることもあります。

 ヒメシャガの「ヒメ」には、「小さくて愛らしい」(広辞苑)という意味があって、シャガの花に似ていて、それより小さいのでこの名があります。
 シャガは漢字で「射干、著莪」と書きます。アヤメ科のヒオウギの根茎から得られる生薬を「射干(やかん)」といい、「射干」はヒオウギを指していました。
 ところが、シャガが、ヒオウギの扇形の葉のつきかたとよく似ていて、いつの間にか、シャガに「射干」の字をあて音読みし「シャガ」とよぶようになってしまったようです。「著莪」はシャガの発音をそのままあてたものと思われます。

 ヒメシャガやシャガのようなアヤメ科の花は、6枚の花びら(花被片)があって華やかに見えます。でも、内側の花びら(内花被片)3枚が本来の花びらで、外側の花びら(外花被片)3枚はガク片にあたるものです。ガク片を花びらのように変えることで、花全体を華やかに見せて虫たちをよんでいるのです。

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      ヒメシャガの花        シャガの花          アヤメの花

 外側の花びらは横向きに垂れ下がっています。これは、やってきた虫たちが止まる足場として最適です。内側の花びらが上を向いているのは、水平方向から飛んでくる虫に、花を目立たせ大きく見せる効果があります。特にアヤメの花はその姿がはっきりと分かります。どの花も、外側の花びらには青紫や橙、白色の模様や斑点がついています。これは、虫たちに蜜のありかを知らせる大切な道しるべになっています。

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   ヒメシャガの花。外側の花びらに青紫と黄色の模様がみられます。

 ある日のこと、教室にヒメシャガの花を持ってきた子がいました。その子に「雄しべと雌しべはどこにあるの?」と訪ねられ、困りました。花をよく見ても、雄しべも雌しべも見当たりません。花びらを1枚1枚めくってみたら、雄しべが花の中にかくれていました。でも、雌しべが見当たりません。あわてて、植物図鑑で調べたら、実は、中央にそそり立って、先端がひげ状になっているものが、雌しべだったのです。

 普通,雌しべの先には少しふくらんでべとべとした柱頭がついているのに、ヒメシャガにはそれがありません。子房から細い花柱が伸びて、その先が3つに分かれています。その先がさらに細かく避けて花びらのようになっています。柱頭はその細かに裂けた花びらの付け根にありました。ヒメシャガは、ガク片だけでなく雌しべも花びらのように姿を変えて、花をいっそう鮮やかに見せていたのでした。

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先端が裂けて花びらのようなものが、ヒメシャガの雌しべです。

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花びらをとると、雌しべの下の花柱の陰に隠れた雄しべが見えます。

 雄しべは3つに分かれた花柱の陰にそれぞれ一本ずつ隠れるようについています。蜜を求めてやって来たハチが花の中にもぐりこむと、花びらと花柱に挟まれ毛深い背中に効率的に花粉がなすりつけられるしくみになっています。
 それに、梅雨の時期に花を咲かせるアヤメ科の花にとって、雨は大敵です。雄しべが花柱の陰にあると、ちょうど屋根をかけられたようになります。これは、花粉が雨で流されないための知恵と考えられないでしょうか。改めて自然のしくみの周到さに驚かされます。

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   ヒメシャガの群落。花は、朝に開花し夕方にしぼむ一日花です。

 福島県郡山市を訪れたとき、このヒメシャガの花が、「あさか山」で芭蕉が尋ね歩いた「花かつみ」の花ということにして、市の花として制定し、大切に守られていることを知りました。

 「はなかつみ」とは万葉集古今和歌集などに登場する大変優美な花です。古くから和歌などに多く詠まれた花でした。奥の細道の旅に立つ前、芭蕉が門人に送った手紙には、「塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみ」の名を挙げてみちのくへの思いが綴られています。芭蕉の花かつみへの深い思いと憧れが感じられます。

・・・・・・此のあたり沼多し、かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云うぞと、人々に尋侍れども、更知る人なし。沼を尋ね、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。
              芭蕉 おくのほそ道・あさか山 岩波文庫

 芭蕉が尋ねど探せど、花かつみを知る人もいなくて、発見もできなかったようです。和歌の世界であまりにも有名な花かつみですが、その花がどんな花なのか、本当は誰も知らなかったのでした。この花については、「マコモ」「ハナショウブ」「デンジソウ」、そして「ヒメシャガ」などの説があげられ、今も謎に包まれたままです。花かつみは、いにしえの詩歌の世界で花ひらく幻の花なのかもしれません。

 ところで、植物の葉には表と裏がありますが、ネギの葉は表か裏のどちらでしょうか。植物の葉の表裏は学問的には決められていて、茎の方を向いている側、つまり、新芽の葉が開くときの内側の部分で、葉が開き切ると上を向いている方を表といい、その反対側を裏というのだそうです。
 ネギの葉を調べてみると、見えている部分は全て裏側でした。ヒメシャガ、シャガなどのアヤメ科の葉も、ネギの葉をちょうど平たく押しつぶしたような感じで、見えている部分は全て裏側でした。全く表がないわけではなく、葉の元の方に、折りたたまれるようにして茎を抱いている内側の、表になる部分が少し見えます。この様に一面だけしか見えない葉を植物学では「単面葉」といっています。単面葉であることが、植物にとってどんな意味があるのかはまだ不明で、とても興味がわいてきます。

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   筒状のネギの葉は全て裏の葉      平たいヒメシャガの葉も全て裏の葉

 可憐に野に咲くヒメシャガの花ですが、雌しべや雄しべ、そして細長い葉の姿も、独特の形をしながらその役目をはたしていて、常識的な眼でものを見てはいけないことを気づかせてくれる貴重な植物でもあるようです。(千)

◆昨年5月「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

いっしょに『特別の教科 道徳』について考えませんか?

 昨年度からすでに小学校では『特別の教科 道徳』の授業が行われていますが、この4月からは中学校でも始まりました。

 小学校での導入が始まった時に聞かれたように中学校現場からもどう取り組んだらいいのだろうとの戸惑いの声が聞こえてきます。
 一方、小学校の先生からは「道徳なやんでるた~る」はやらないの? 今年もぜひやってほしいなどの声も・・・

 それらの声にどれだけ応えられるかはわかりませんが、大事なのは、まずはみんなで悩みや疑問・課題を共有し、考えていく場を持つことだと思います。そこで、以下のような学習会を企画しました。
 ぜひご参加ください。みんなで考え合いましょう。

◇道徳と教育を考える会
 新年度に入って1回目の会となります。今回から宮城・仙台で使用されている東京書籍の中学校 道徳教科書の検討を、各学年ごとに行っていく予定でいます。
 また宮城・仙台でその取り組みが広まってきていると聞く、P4Cについても扱う予定です。

日 時 5月26日(日)10時~12時
会 場 みやぎ教育文化研究センター案内地図
内 容 ・東京書籍『新しい道徳1』の教科書検討
    ・P4Cについて


◇道徳なやんでるた~る
 先ず小学校からは、この1年間、道徳の授業をどんなふうに取り組み感じてきたのか、中学校からはこの4月から授業が始まってどんな現状や悩みを抱えているのかなどの情報交換・交流を行いたいと思っています。

 また後半は、少し具体的に小学校3年生の教科書教材をみんなで読み合いながら、この教材だったらこんな授業ができるのでは・・・という授業づくりについても考えていきたいと思います。

 なお話題提供者に、昨年「道徳なやんでるた~る」の学習会で中心的に授業づくりを担ってくださった佐々木久美さんをお願いしています。

日 時 6月4日(火)18:30~
会 場 みやぎ教育文化研究センター案内地図

内 容 情報交換・交流
     小学校・・・1年間取り組んでの状況や感じたこと・悩み、評価など
     中学校・・・取り組むにあたっての学校の現状と悩みなど

     小3の教科書教材をもとにした教材検討

   〈話題提供〉佐々木久美さん

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西からの風11 ~教室から6~

 黒澤作品『生きる』と学生たち

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 私はこの「教室にて」のコーナーに、昨年度の大学での自分の授業体験をとおして感じ考えたことを書き綴ってきた。その締めくくりにぜひ取り上げようと思った事が一つあった。ところが、忙しさにかまけてできないでいた。それを書き残しておきたい。

 「社会倫理学」の授業で私は次の課題を締めくくりのレポート課題として出した。黒澤明の傑作『生きる』をレンタルして家で観て、その感想をレポートせよ、との。書いておきたいのは、その提出されたレポート群の束を読んで、あらためて痛感した事についてだ。

 この授業の教科書には、拙著『創造の生へ——小さいけれど別な空間を創る』(はるか書房)を使った。その第Ⅱ部「応答の倫理学」の最終章(第6章)は、かの『夜と霧』の著者として名高い実存的精神分析の思想家フランクルを取り上げたもので、そのタイトルは「《生きる意味》についての問いのコペルニクス的転回」である。その章の最後に私は補注を一つ付けている。まさに黒澤の『生きる』についての注である。私はこう書きだしている。——「そこに波打っている思想は、僕には、人生の意味を問う際に問いの立て方の『コペルニクス的転換』を主張したフランクルの思想と驚くほど重なってくる」と。そしてこの作品の簡単な紹介をおこなっている。
 ここでいう「コペルニクス的転回」とは、フランクルの次の問題提起を指す。私はそれをまるまる引いて、そこに私なりの解説をほどこし、この章としたのだ。

 私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つ
 まり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し
 私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私
 たちは、人生がたえずそのときそのとき出す問い、『人生の問い』に答えなけれ
 ばならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われ
 ていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなり
 ません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです」。
            (『それでも人生にイエスと言う』春秋社、27~28頁)

 そして、こう繫げた。——「或る市役所のうらぶれた定年間近の課長渡辺(志村喬の驚くべき演技!)は偶然自分が癌の末期にあり余命が半年に過ぎないことを知る。彼は自分の人生を顧みて自分がまだ一度も『生きる』という実感を味わったことがないという絶望に打ちのめされ、一度でもいいからそれを味わってみたいと焦燥する。その渦中で、或る時、彼はかつて市役所の部下であり今はおもちゃ工場に働く一人の若い女性の一言に、突然目が覚めるような衝撃を受け、今までの焦燥を振り切った別な感情と意識のなかへと没入してゆく。彼は、人生の意味をめぐるこれまでの煩悶を突破する或る種の回心を遂げるのだ。フランクルのいわんとするところを理解するうえで、この黒澤作品の鑑賞を僕は強く奨めたい。」

 学生のレポートの束には紹介したい言葉が溢れている。彼らはこの補注を真正面から受け止めてくれたのである! 紙面の関係でそれができないことが残念だ。ほんのそのごく一部だけだが、紹介したい。

 私は打たれた。文字通り学生全員がこのモノクロの、ほぼ70年前の、音声も悪い、「昔の映画」に即座に見入ってしまったこと、そのことに驚いているのだ。例えば、こうある。「まず、白黒映画ということで、正直見ずらいし、あんまりおもしろくないだろうなぁと思った。しかし、白黒映画なのにそれを忘れるぐらいの没入感がそこにはあった」。
 この「没入感」をなにより物語るのは、彼らが、この映画に出て来るいわば「決め台詞」を実によく記憶し、それをレポートに書き記していることだ。それらは彼らの脳裏に刻まれた言葉となったのだ。
 主人公の渡辺を語る最初のナレーションがたちまち学生の心を捕らえる。「それって、俺のこと、私のことじゃん!」という小さな叫びが彼らの心から立ち上がるのだ。こうある。「冒頭の『彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである』『だめだ!これでは死骸も同然だ』というナレーションが、私にはかなり衝撃的なものであった」。「グサリと来た。自分のことを言われてるなと思ったからである」。「主人公が飲み屋で知り合った男に『いや人間は軽薄なもんですな。生命がどんなにか美しいものかということを死に直面した時、初めて知る。しかし、それだけの人間がなかなかいません。ひどいやつは死ぬまで人生の何たるかを知りません』といわれるシーンは特に胸に響いた」。「とても響いたセリフがある。『わしは人をにくんでなんかいられない。そんな暇はない』というセリフだ」。「『おもちゃを作っていると、日本中の赤ん坊と仲良くなった気がするの、課長さんも何か作ってみたら・・・』という女性の一言も、主人公が目を覚ましたように私自身もハッとさせられた」。

 また目立ったのは、この映画の二段構成(癌宣告を受けた渡辺の苦悩と変貌を描く前半と、彼の葬式の場面に急転し、そこで職場の同僚が彼らの目に映った変貌した渡辺の様子を回想する後半部との)の斬新さ・現代性に驚嘆し、高く評価する学生たちの声であった。
 「中盤まさか主人公がここで死んでしまうとは考えてもいなかったので驚いたが、その後回想で進んでいくというこの映画の構成があまりに新鮮で、黒澤明の技術に圧倒された」。「後半の、特に主人公の葬式がとりおこなわれながら、役所の人たちが回想するシーンが圧巻で、映画のタイトル『生きる』が題名にふさわしいと思わせるほどの名シーンであった」。「葬式内で市役所の職員たちが後日談のように渡辺の行っていったことを語りだす手法のほうが見応えがあったように思う」。
 映画の方法論の問題まで感じとり、かつ論じる、そこまでこの映画につきあってくれたことが私には嬉しかった。また、そこまで彼らにつきあわせる力をこの映画が今彼らにもっているという事実に、私は目を見張った。

 中にこういうレポートもあった。彼はこの映画を観るのは二度目だと書いている。3年前にたまたま或る映画祭で偶然に観た。だが、そのときは「非常に退屈だった」。今度課題に出され二度目に観たわけだが、「前回観たときとはまるで別物のように思えた。・・・〔略〕・・・前回退屈と感じられたシーンが非常に見ごたえのあるシーンに思えた」。彼は、今回はこの映画の幾つものシーンを自分に引きつけ重ね合わせ自問自答の波間を泳ぎながら観ることができたと書いている。渡辺は僕になった、と。そのことを、彼は「今回は、心に余裕を持ちながら観ることができたので、様々なことを考えながら観ることができた」と振り返っている。そして次の言葉でレポートを結んでいる。「言ってしまえば、この映画は難しすぎる。私が考えすぎなのかもしれないが、これほど心身を疲労しながら観る映画を、私は知らない」と。私は笑ってしまった。なぜ、余裕が疲労なんだ!?と。だが、思い直した。はたと気づいた。彼には「余裕」と「考えすぎる」ことがもたらす「疲労」とは一つのものなのであり、そういう「余裕」=「疲労」こそがかけがえのない青春の証なのだ。かつての自分の青春を顧みてもそうであったではないか、と。
 私は、私の授業が、第6章が、補注が、この彼の「余裕」=「疲労」に貢献できたと考え、秘かに自己満足に浸る。

 私は、今、二つの事を考える。
 「温故知新」という古い言葉がある。古いが、文化の営みの本質を端的に指摘する言葉である。文化の営みとは、一言でいえば「温故知新」である。しかしながら、この「温故知新」の絆が今日の日本ほどに脅かされだしている場所も無いのではないかという不安がよぎる。
 教育者の若者に対する重大な責務の一つは、若者を導いて彼ら自身に「温故知新」の感動を体験させることである。いったん、一つでも、「温故知新」という絆が存在するということを経験させ感動させるなら、あとは彼ら自身が勝手に探し出す。「温故知新」の絆を。あのかけがえのない感動を何度も味わいたくなる。

 このことが一つ。もう一つは、実はもう言ったことだ。
 教師の重大な責務の一つは、「出会い」を若者に贈ることである。もちろん、なかにはその教師そのものが生徒・学生にとって「出会い」そのものとなる、優れた教師もいるに違いない。だが、それは稀有な運命のプレゼントと考えるべきだろう。教師の誰もがそんな教師になれるわけもない。しかし、どんな教師も担うべき、また担うことのできる責務が一つある。それは何かに、あるいは誰かに、若者を「出会わせる」機会を自分の授業のなかで作ることである。
 今回、少なくとも一回、授業のなかで私は教師としてこの責務を果たした。黒澤の『生きる』に私の「社会倫理学」の受講生を「出会わせる」ことができた。私の秘かな誇りであり自己満足である。

「私は今、21才であり、今までの人生を振り返った時に必死になったり、時間に対して真剣に向き合ったことがない。それは自分の人生に対して失礼なのではないか」。「この映画は戦後すぐに公開されたのだが、半世紀たったいまでも変わらずに観た人に活気を与え続け、これからもずっと『生きる』というメッセージをどの時代の人にもどの世代の人にも届けることができる映画だと思った」。「昔の映画を観ることに抵抗があった私は正直なところ観るのが億劫であった。しかし観終わったときにはこの映画を若い間に観る機会があって心の底から良かったと感じた」。(清眞人)

岩川直樹さん講演会・報告

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 11日に行われた岩川直樹さんの講演会「30㎝の向こう側へ」は、とてもよい講演会になりました。残念だったのは、参加者が思っていたより少なかったことです。学校によっては、この日が運動会というところもあったようですし、その他にもいろんな催し物もあったようです。それらの影響もあったかもしれませんが、とてもよい内容だっただけに、もっと多くのみなさんに聞いていただきたかったなあと思いました。

 ただ参加して下さったみなさんは、日ごろの自分と子どもとの関係、あるいは保護者や職場の関係などを思い起こしながら岩川さんの話に引き込まれ、聞き入っている姿が見られました。感想からもみなさんそれぞれに満足してくださった様子が伺えました。
 センターの企画としては終わりましたが、岩川さんの話を聞く機会が、さらにそれぞれの参加者から広がっていくのもいいなあと勝手に思ったりしました。

 講演の前半は、教育という営み全体を「他者への関心」という視点から考えようということで「ケアの三角形」と「モノサシの三角形」という話をされました。今日の学校だけでなく、社会全体も含めた人と人との関係の有り様を考えるうえでとてもよい話でした。後半は、具体的な教育実践の話をとおして教育とは何か、いま教育・子育てで何を大切にしていかなければいけないのかをそれぞれに考え・問いなおす話となりました。
 講演内容は、今後のセンターつうしんで報告する予定です。

(参加者の感想より)

 講師の人選がすばらしいと思います。岩川先生の話を聞いて、子どもにもう一歩近づき、向かい合っていきたいという勇気をもらいました。また、ケアしケアされる職場づくりもしていきたいと改めて思いました。(AH)

 「30㎝の向こう側へ」~子どもに応える教育~というこの演題に心をひかれて参加しました。演題のとおり、人と人との関係性を築くことの大切さ、その築き方について考え、感じることのできたよい時間でした。学校の中だけではなく、社会の中で生きていく中で、不可欠なことであり、“ケアの三角形”のよいサイクルをイメージしながら仕事をし、生活していきたいと思います。(TI)

 30㎝を超えることで見えてくる本当の子どもの姿。全くちがった教室が創造される。二人の子どもの話から、それが事実として受け止めることができた。
「されど30㎝」とおっしゃった。モノサシがそれを許さない。モノサシを捨てさせる、あるいは忘れさせるものは何だろう。それぞれの教師が、モノサシを忘れるきっかけと出会えることを強く願います。(MS)

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