mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

学習会の案内 パートⅡ                (ゼミナールsirube 特別企画『能の世界への案内』)

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 ゼミナールsirubeでは、古代ギリシャから現代までの教育哲学・思想の歩みについて読書会を行っています。もうかれこれ何年になるでしょうか・・・。この読書会でご指導くださっている太田直道先生(宮城教育大学名誉教授)、実は哲学研究者の顔のほかに能楽師としての顔もお持ちです。7月に行われる「第36回市民能楽講座 能楽講演」にも能楽師として出られます。

 そんなことから今回は特別企画として、太田先生に『能の美学』というタイトルでお話いただくことになりました。ぜひ興味関心のある方はご参加ください。

(なお、ゼミナールsirubeに今回初めて参加するという方は、会場準備の関係もありますので、当研究センターまで事前にご連絡ください。)


ゼミナールsirube特別企画
『能の世界への案内』

  • 日 時 5月29日(月)13:30~16:00
  • 会 場 みやぎ教育文化研究センター
  • 参加費 無料

学習会の案内 パートⅠ(道徳の教科化について)

 昨日、帰りの車のなかでラジオに耳をかたむけると、来年度から小学校で本格実施となる「特別の教科 道徳」についてのやり取りが聞こえてきました。ラジオでは、道徳の教科化で、教科書が使われ一定の道徳的な枠組み(価値)が教えられることや、子どもたちの内面を評価をすることなどが話題となっていました。

 この「道徳」の教科化についての学習会が、今度の日曜日(5月28日 13:30~ フォレスト仙台2F  第7会議室)に行われます。講師は、子どもと教科書全国ネット21の常任運営委員の石山久男さんです。ラジオで話題となっていたような点も含め、今回の道徳の教科化のねらいや課題、問題点についてお話しして頂けることと思います。ぜひご参加ください。

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爽やかな、そして希望がみえた安田菜津紀講演

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 21日の安田菜津紀さんの講演会は、センター主催の行事では、あまり見かけることのない人たちの顔が会場のあちらこちらにみられた。前日まで連日のように問い合わせの電話がなったのも納得だった。新たなセンターとの出会いの場がつくれたことがうれしい。センターの今後の活動を考える上でも貴重な講演会となった。高校生の参加が多くあったこともうれしい限りだ。安田さんに感謝である。

 講演では、カンボジア陸前高田、シリアで、安田さんが出会った子どもたちの具体的な話を、それぞれ現地の情勢と重ねながらのお話。大変な思いをしている子どもたちを前に、自分は何も力になれないと打ちひしがれた時に「人にはそれぞれ役割分担があるのだから、安田さんはこの状況を世界に伝えて」と言われた言葉がとても心に響き、自分のできることを少しずつやればいいのだと元気をもらったと語りかけ、私たち参加者にも、それぞれが、今、自分ができることを考え、やり続けることの大切さを呼びかけました。

 それにしても、爽やかなやわらかい語り口で、テンポも心地よく、そして核心をつく問題の提起。サンデーモーニングでの的確なコメンテーターの姿そのまま。小川が流れるように、淀みなく時が流れ、あっという間の90分となった。講演後のサイン会でも参加者と会話を交えながら応じていただきました。

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高校生とか、若い人もいっぱい来るといいな

 昨日の夕方、用事を済ませてセンターに戻ってくると、ぷるるる~、ぷるるる~と電話が鳴っています。急いで机の電話に手を伸ばし受話器を取ったのですが、切れてしまいました。ここ数日の状況からすれば、これは安田さん講演会の問い合わせに違いない。すかさず着信履歴を確認し、意を決して電話をかけてみると受話器の向こうから「はい、〇〇高校ですが・・・」、??個人ではないんだ・・・おずおずと「先ほど、そちらから電話をいただいたようなのですが・・・」

 しばらくして受話器に出てきたのは、写真部の先生でした。今回の安田さんの講演を知って連絡をくれたのです。生徒のみなさんにも声をかけてくれているとのこと。そう、そう、高校生以下は無料なんです。この講演で、世界を舞台に活躍する安田さんと出会い、その話から多くの刺激を受けとってもらえればなあと思っています。高校の先生からのうれしい電話でした。(キヨ)

『教育』を読む会報告 です! ぜひ参加ください。 

 当研究センターでは、教育科学研究会が発行している月刊誌『教育』をテキストにした読書会を行っています。先日の5月例会には、小・中・高の教師や教育に関心のある保護者や市民、さらには大学の研究者などが集まりました。この会の特色は、教育や子育てにかかわる様々な方が参加していることです。ぜひ皆さんも参加ください。
 会の運営を中心的に担ってくださっている宮城教育大の本田さんが、5月の会の様子をまとめてくれました。みんなの言いたい放題、好き放題の発言や意見を、その趣旨を解釈し押さえながら、さらにテキストの文脈に位置づけてまとめてくれています。う~ん、やっぱり本田さんは研究者ですね。以下、その報告です。(キヨ)
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  今回は、4月号の特集1「『教育の良心』を引き継ぐ」から、山﨑隆夫論文「教師の仕事は『奇跡』の連続」と、福島裕敏論文「教師教育をとおして育て継承する『教育の良心』」を中心に読み合いました。
 「行為」としての教育に宿る良心(南出吉祥論考、45頁)とは、教育という営みに携わってきた人々に歴史的に継承され、今日的に追求されている「よりよい教育」をめぐる価値だと言えるでしょうか。

 山﨑論文からは、現在の学校において「教育の良心」を守ることとは、目の前の子どもたちをしっかりとみつめ、「学校的・形式的」枠組みではとらえきれない、子どもの深い人間的願いや葛藤に迫る対応や教育をしていくこと(8頁)であり、そのことは「子どもの権利条約の視点にも通じるものであることがわかります。
 いっぽうで、今日の学校現場に即して考えるとき、理想と現実には差があるという話も出ました。学校・教師には、子どもの命の保護について、いつの時代にもましてセンシティブな対応が求められています。しかし教師の多忙化や、「孤立化」⇒「無力化」⇒「透明化」というプロセスを辿る今日にいじめのみえにくさなどによって、子どもの命と権利にかかわる「教育の良心」を守ろうにも守り切れない現状も生じているようです。
 山﨑論文では、「教育の良心」にもとづく教育実践の前に立ちはだかる困難として、「競争的・能力主義的教育の押しつけ」と、生きづらさを抱え自他を認められず「攻撃的・非人間的ともいえる表現・表出をする子どもの存在に対し、彼らをどう受けとめ希望へとつないでいくか」(1112頁)を挙げています。なお、この二つと関連しつつ、もう少し別の要因もあるように思いました。学校・教師への社会的な信頼低下、にもかかわらず学校・教師に向け増え続ける要求、限度を超えた多忙化、学校教育を塾などの教育サーヴィスと同等にみる父母の存在・・・などなどです。

 福島論文には、現在進行している教師教育改革の動向が、「よりよい教育」とは何かという議論(55頁)を後景に退かせ、「職務遂行的教職観への再編」(52頁)を図るものだとあります。
 政策が掲げる「学び続ける教員像」とは、あくまで定められた職務を遂行する能力を高め続けるだけの教師の育成を目指すものだというということです。
 たとえば「アクティブ・ラーニング」については、国や県の教育委員会がたとえば「協働」的な授業実践例を出し、学校でもそれをやるべきこととして熱心に取り組む管理職が呼応して、どんどん学校・教師の自律性が損なわれていく。すでにそんな動きが出ていることも話題になりました。
 教員育成協議会と教員育成指標づくりの動きが本格化していけば、教師の養成・採用・研修はさらに画一化され、「教育の良心」を奪われた教師がつくられてしまう。大学での教員養成も変質していくでしょう。見逃せない動きです。(本田)

 6月の例会は、次の通りです。ぜひ参加ください。

 ◆日 時 6月24日(土)10:00~
 ◆場 所 みやぎ教育文化研究センター
 ◆内 容 
  5月号 特集1 部活動の深い悩み
      特集2 検証・ブラックな学校
     6月号 特集1 相模原事件は問う
         特集2 実践記録 ~書いてみた・読み解いてみた2~

葬儀にも影落とす過疎化の現実

 叔父が急に亡くなって、田舎通いをした。

 私の生地は北上川北上山地に挟まれ、川上に目をやると岩手県との境が見える。私は車をもたないので、田舎への行き来はたいへんだ。東京に行くよりもたいへんだ。

 9日が葬儀だった。葬儀は10時からだが、その前に、出棺前の読経があり、8時30分からになっているので、それに間に合わなければならない。

 前日に2か所のタクシーを予約しておく。

 5時20分、タクシーに自宅に来てもらい、仙台駅に向かう。

 6時ちょうど発、東北本線普通一関行きに乗る。石越駅7時12分下車。ここにも前日頼んでいたタクシーが待っていてくれる。タクシーは、登米市石越駅から走り出し、途中岩手県に入る。岩手県北上川にかけた橋を通って川沿いを走って宮城県に南下、8時ごろ叔父の家に着く。自宅を出てから3時間弱。石越からのタクシー代は4700円。ともかく、なんとか時間前に着いてホッとする。

 ところが、ところが、家にはほとんど人影が見えず、ひっそりとしている。聞くと「出葬念誦」(私は初めて聞く言葉)は、別の場所にある葬儀屋で行うとのことで皆出発していたのだ。最後の出発になった親戚の車に乗せてもらい、寺と反対方向になるその場所に向かう。出葬の読経後、今度は菩提寺にもどって葬儀、と行ったり来たり。

 出棺前の読経が他所でもたれるというのは、田舎の葬儀では私は初めて。わけを聞いてみると、自宅で行うには、まかないなどの人手が足りないので、このようになっているとのこと。確かに、2日目の納棺のために行ったときも、台所の手伝いは家人の他に親戚2人だけだった。

 物語「ごんぎつね」で、「ごん」は、兵十の家の人の集まりの様子を目にして「村に何かあるな」と考えたが、私の田舎もごく最近まで「ごんぎつね」と同様だったのだ。叔母が亡くなって7年になるが、その時は昔の様子だった。

 辺地も変わらないではおれないのだ。そして、事があるたびに、確実にカネが出ていく。このような変化の中で、どのように生きていけばいいのか、辺地の課題はふくらんでいくばかりのように思う。

 ふだんは、叔父と息子夫婦の3人暮らしだったが、そちこちに散らばっている兄弟・孫・子が集まったわけだが、なんと、その数は18人とのこと。その数に驚く。しかし、今のところ、誰ひとり、この地にもどる予定はないようだ。

 ここしばらく過疎地のことを考えることが多くなっているが、ますますわからなくなってきている。でも、考えなければいけないという思いをますます強くして帰ってきた。( 春 )

安田菜津紀さん講演会、河北新報の記事に!

 河北新報が、5月21日(日)の安田菜津紀さん講演会を記事として取り上げてくれました。新聞に掲載されたのは6日(土)。ゴールデンウィークが終わった今週月曜からは早速問い合わせの電話が研究センターに寄せられています。

 新聞を取らない家庭もずいぶん増えていると聞きますが、やはり新聞による宣伝効果はすごいですね。

 問い合わせで多いのは、事前予約にかかわってのものです。特に事前予約は取っておりませんので、当日会場においでください。電話くださるみなさんの声からは、講演を楽しみにしていることが伝わってきます。ぜひご参加ください、お待ちしています。 

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