mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

短歌や俳句の自由な表現を ~土岐善麿の短歌から~

 最近読んだ本のなかに土岐善麿の次のような短歌があった。

  あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

 これは、鶴見俊輔大岡信との対談の中で、鶴見がとりあげていたもの。この短歌について鶴見は、

 これは、土岐善麿の20歳くらいからの歌の中の絶唱と私は思っています。台所で、乏しい材料で食事をきりもりしていた妻には、必勝だ、必ず神国日本は勝つ、というのとは違う感想が、戦争の毎日にあったのでしょう。いま、戦争に負けて、指導者の列から降りて、ひとり善麿は妻の立場からみることを学んだのです。~~

と話している。
 日常の一時を切り取り、難しい言葉はまったく使っていない。しかし、話し手のあふれる感情はもちろん、表情までも浮かんでくる。また、話し手だけでなく、その言葉をかけられた聞き手の様子も鮮やかに見えてくる。
 鶴見は「絶唱」と言っているが、素人の私も同じように思いながら、生意気にも(オレでもつくれそうだ)なんて思ってしまう。しかし、繰り返しゆっくりと読むうちに、その生意気さは消えていき、(とても、とても)と言葉を失ってしまう。
 日本が古くからもっている短歌という表現形式は、なんとすばらしいものだろうと感心し、誇らかな気持ちになる。
 このような歌に接すると、学校でも、あまり面倒なことを言わずに、短歌や俳句の自由な表現を子どもたちのものにしていったらどうだろうと思う。( 春 )