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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

4月29日

2015年4月28日

 時間があったので、22日の新聞に載っていた全国学力調査の国語の問題を眺めてみた。元教師でありながら、これまでこの種の問題を読んでみたことは一度もなかった。読む時間がとれなかったというよりも、もともとのテスト嫌いが見ることを無意識に避けていたというのが正しいかもしれない。

 今日、教育会館に行ったら、ホールでは教員採用試験のための模擬試験が行われているとのことだった。どこもかしこもテストだらけだ。

 いつの間にこんなにテストが好き(?)になってしまったのだろう(誰が?)。

 ずいぶん前になるが、「4年間、教員採用試験のための教育をする」を呼び込み文句にして首都圏にB私立大学が設立されたことがあった。それを耳にして、(大学が、よくぞ、このようなことを平気で言えるものだ)と呆れたことを思い出したが、この大学は時代の先を読んでいたということになるようだ。このB大学出身の県内教師の数はまちがいなく増えている。

 ところで、全国学力調査の問題を読みつづけることは私にとってたいへん苦痛だった。国語だけであっても、最後まで一気にいくことはとてもできなかった。少しも楽しくないのが最大の理由。「楽しいテスト! 冗談じゃない!」と叱られそうだが・・・。私が引きつけられた問題文は残念ながら一つもなかった。子どもたちも同じだったろうと思うが。テストと言えども、当り外れの前に子どもたちの興味を引くものでありたいものだ。

 次に浮かんだのは、これに点をつけ、最後には平均を越えた越えないと教育関係者がみんなで大いに騒ぐことだ。それにどんな意味があるのだろう。騒ぎのいろいろを思い出すと背筋が寒くなる。

 「私の学校では」国語ではこんな力をつけたいので、このようなことを大事にしておりますので・・と開き直るところはないものか。「学校で」ということになることが難しければ、「私は」という教師でもいいから出て来ないものかと思う。

 そうでないと、テスト至上主義がますますエスカレートして、学校の存在理由がふっとんでしまうのではないか。テストをしなくても「Aの国語の力は~」と担任は詳しく説明できるだろうし、一片のテストよりもその方が子どもにとってどれほどいいことか。