mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

学校を、子どもの命はぐくむ場にするために

 先日の5月30日付け河北新報『持論時論』に、当研究センター代表・数見の投稿が掲載されました。すでにお読みになった方もいると思いますが、あらためて紹介します。 

  命を守る教員 学校の自由と余裕 大事

 宮城教育大は本年度、「いのちを守る教員」養成のための拠点研修機構を新設した。共感と期待を込めつつ、関連の私見を述べる。
 今日の子どもや学校を巡っては「いのち」に関わる課題が多発している。子ども間のいじめによる自死、庇護すべき親による虐待死、教員からの体罰や「指導死」などの問題だ。学校管理下での災害死も含め、最も安全であるべき学校での命に関わる問題の発生は極めて深刻な事態と言わざるを得ない。
 この現実の広がりは国会や地方議会の議論を動かす。だが、それは「いじめ防止対策推進法や条例の整備」とか「虐待防止法の整備」「親の体罰禁止の法制化」といった取り締まり・法規制の文言ばかりである。そうした対処策が学校現場では「実態調査」や子どもに対する「面接やチェック」などの監視的業務となり、教員本来の「子どもを育む仕事」の時間を奪う一層の多忙化を誘発している。
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 いじめ問題は、学校を越えた背景のもとで生じている面もあるとはいえ、学校本来の役割は、子どもの人格と関係性を育み、いじめなど発生しない環境づくりを追求することであるにもかかわらず、その本業の努力や模索の事実についてはほとんど聞こえてこない。
 学校現場が本来の教育、創造的な取り組みがしにくい状況になっている問題こそ語り合い、内外に表明できる雰囲気を広げなければならないのではないか。
 昨年末に100歳で亡くなった教育学者の大田堯氏は、50年余り前に、教育の語源に触れ「おしふ」は「愛(オ)しむ」に通じ、「そだつ」は「巣だつる」より移り、「養む」は「羽裏(ハクク)む」に由来すると述べた。つまり、教育とは子どもの命・生存を心底愛する気持ちに根差しながら、人間として一人前に巣立てていく営みであり、養護(ケア)は親鳥がヒナ鳥を大きな羽で温かく包み、厳しい環境や危害から守りつつ健やかな成長を促す様を意味する、と指摘した(雑誌『教育』)。
 当時、こうした教育の根源を問い直したのは、高度経済成長後の急激な生活・環境の変貌と受験教育中心の学校へのゆがみが、子どもの命や心身にさまざまな負の問題現象をもたらしていたからだった。今、その事態は一層深刻になっていると言えるのではないか。
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 学校を国は経済第一主義の「人材」養成の場、大人・親は進学と就職のステップ機関とみなす風潮が強い中で、「人間を育てる場」の喪失に陥ってはいないか。学力テストで子どもと学校を評価・格付けし、教育を画一化する体制の矛盾を再考すべきだろう。子どもの命・生存を保障し個性的な人格を育てるには「創造の教育」が不可欠で、それは教員集団と学校の自由・余裕によって可能と言える。
 学校を樹木に例えれば、命のもとである根っこ(安心、愛着、仲間)をしっかり整え、幹に当たる発達(自立と共生)の活動を十分に保障することで、その根幹上に花が咲き、実が膨らむ真の学力(人間らしく生きる諸能力)の育ちが可能になると考える。