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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

7月4日

 過日の自民党若手議員の勉強会で語られたという報道には、ありうることとは思っていても、それが現実になると言葉を失ってしまう。

 「政治」とか「政治家」とはと、自分を静めるためにあらためて辞書などをいくつか眺めてみた。明解国語辞典(4版)は、「政治 ― 住みやすい社会を作るために、当局者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民の生活を指導したり取り締まったりすること。」とある。どうも、私にはよく通じない。

 そこで、これも私がよく使う「定義集」(ちくま哲学の森別巻)から2つを抜いてみる。

 1つはマックス・ウエバーのことば、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら,堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。」

 もう1つは埴谷雄高のことば、「政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない。一瞬の死が百年の生を脅かしうる秘密を知って以来、数千年にわたって、かつて一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手放したことはない。」

 国を代表しているわけではないが、イギリスと日本の違いも大きい。私が一番(わかる)と思うのは残念ながら埴谷のことば。

 さて、関連することでもう一つ。このことについて特別委員会での首相の「沖縄県民の気持ちも傷つけたとすれば申しわけない」「党本部で行われた勉強会で、最終的には私に責任がある」という答弁について。

 私の気になるのは「傷つけたとすれば」という部分。手元の辞典を引いてみる。「とすれば - あなたの言ったことが正しいと仮定すればといった意味を表し、仮に相手の言った客観的事実らしい事例を信じた上での、疑いのまじる結論を導く、~~」とある。

 「沖縄県民の気持ちを傷つけた」と自分は真に思ってはいないが、という気持ちがあっての答弁としか私には思えず、やりとりは、とうてい、そこで終わってはならなかったのではないか。同じことは「最終的には私に責任がある」にも言える。だからどうなのか、「責任」という言葉は、そこで終わることができない言葉ではないか。その時のやり取りのすべては知らないからだが、「責任がある」のあとのことを私は知りたいのだ。

やっぱり、それもこれも埴谷の言葉のなかにすっぽり入るということか。( 春 )