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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

4月9日

 4月も9日だというに、今年のセンターのことをあれこれと考えつづけているが、未だごちゃごちゃのままだ。自分のなかにセンターが何をすべきかがきちんと収まっていないから毎年こうなのかもしれない。同じことを繰り返す自分にほとほと呆れながら少しも変わっていない。「失格じゃないか」と言われれば返す言葉はない。

 3年間つづけた「戦後教育実践書を読む」は「山びこ学校」を第1回に主として50年代の著書を13冊読んでピリオドを打つことにした。私は止めることを正直残念に思うのだが、何しろ現場からの参加者が極端に少ないから仕方がない。どうして参加する気になってもらえなかったのか・・・。「今すぐ役にたつもの!」と言われる。でも、これほど役にたつものはそんなにあるはずはない、と私は思い込んでいる。 たとえば、土田茂範さんの『村の一年生』について、この書の解説のなかで国分一太郎は次のようなことを書いている。

~その底には、せんれんされたことばにまとめられ、親たちへの呼びかけ=自分への呼びかけがある。 ★生まれてはじめて学校・学級へ来たこの子どもたちをどうみちびいていくのか。 ★どのような発達、自我の自覚へと、進歩と成長のためのレールをしいてやるのか。

★ひとりひとりの子どもを、ひとつの生命、ひとりの人間として大事にしつつ、これをどんな連帯のもとにつないでいくのか。

★未発達であるために起こる必要な指導者としてのとまどいを必要なものとして認めつつそれをどうきりぬけていくか。

★このきりぬけかたを、教師は、子どもの成長をねがう親の思いという地点にあわせて、どう発見していくのか。それを百姓を中心とする民衆のせつない願望にてらしてきりひらいていく。そのとき子どもらの父母たちは堅固な「信号機」であるのだと考えていく。~

    国分さんのまとめた5つは、教師であれば誰もが悩み苦しむ問題であろう。これらに対して初めて1年生を担任した25才の土田さんがどう真向かっていったかが『村の一年生』の報告であった。50年代だけの問題ではない。教育の、教師であればだれもが突き当たり七転八倒する問題である。  こんなことを現場の今を出し合ってもらいながら一緒に読みたかった。  これらへの反応がないと、私は何を考えればいいのか、まったくわからなくなるのだ。

話はいきなり跳ぶが、つうしん74号掲載・高校生公開授業について星さんが「作品世界に魅せられた私」のなかに紹介してくれた、一緒に参加した1年生の加藤さんとの話し合いの様子は、参加高校生のたったひとりであっても、私はうれしさで心が満たされた。  数だけでもないということになる。こんなことを思い出しながら、今年のセンターの1年間を考えつづけている。