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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月28日

 今日、組合の書庫にあったという、昭和35年7月20日発行、志津川中学校生徒会文芸部編集「文集志津川 チリ津波特集号」を見せてもらった。

 文集最初の作文の初めの部分を次にそのまま紹介する。

 恐ろしかった津波   1年 佐藤好子

 昭和35年5月24日、私達の町志津川は、一瞬のうちにチリ津波で押し寄せた波にすっかりのまれてしまいました。

 その朝4時20分頃、まだ眠っていた私は母に揺り動かされた。「津波だから早く恵子を連れて山に逃げろ」母のいつもと違ったゴツゴツした声におどろき、急いで教科書だけをカバンにつめて、妹と2人で裏山へ走りました。山の登り口の所まで来た時、サイレンがなり、ぞくぞくと町の人達が体だけで逃げてきます。父や母もその人達とまじって息を切らしながら登ってきました。父が「大津波が来るぞ、みんなもっと高い所へあがれ」とみんなに叫んだ。

 近所の人達がほとんど逃げて山に登ってきた頃またサイレンや鐘が激しく鳴り、海の方を見ていると、ものすごい早さで真っ黒い高い波が、志津川湾から町の方へおしよせてきた。町に水が入ってきたとみるや、たちまちのうちに私達の町の方まで水がきてしまった。波と一緒に海岸のこわされた家や舟などが流されてきて、私の家に勢いよく当たった。バリバリという音が波の音と一緒になって聞こえたら、もう私の家は跡もなく波にのまれていました。母はじっとくちびるをかみしめて涙を流していた。でも私は泣きませんでした。泣いたところでもう私の家は二度ともとの所にそのままのこるはずはないと思ったからです。(以下略)

 佐藤さんの文に日時などがなければ3・11の作文と言っても誰も疑わないかもしれない。

三陸の聞き取りで、「チリ津波の時は2歳だったのでそのときのことはわかりませんが、小さい時から『地震のときは高台に逃げろ』と言われて育ったので、高台以外のことは考えられませんでした」と、子どもたちと高台をめざして逃げた話をしてくれS先生の話が、この文集を読むことでより理解できた。

教師になりたての私はラジオと新聞でしかチリ津波は知らない。新聞で写真も見たはずだが、佐藤さんの文のイメージはまったくもっていない。

 事実をいろんな形で残して伝えることの大事さをつくづく思う。