mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

終わらない授業 ~ 傷をめぐって ~

 宮地尚子さんの『傷を愛せるか』というタイトルを見て、即座に思い出したのは中学3年のときの道徳の授業。今思えば、その授業は校内研究の取り組みとして行われたものだろう。教室の後ろには、多くの先生たちが顔をそろえていた。授業は、一つの読み物教材をもとに進められた。その内容は父と娘の話で、おおよそ次のような内容だ。

 父親には、ちょっと変わった癖があった。それは、治りかけのカペカペになったカサブタを剥がす癖だ。自分のカサブタを剥がすなら、それは自業自得で構わないが、あるとき幼い娘が顔をけがしてカサブタができた。案の上、父親はそのカサブタを剥がしてしまう。剥がした跡はアザとなって残り、娘はそのことで心を痛めることになる。年頃になってもそのアザは消えず、思い悩んだ挙句に娘は手術をしてアザを消すことに心を決めるが、手術当日になって娘は思いとどまり、手術をやめる。

 授業は終盤、《なぜ娘は手術を取りやめたのか?》をめぐる話し合いとなった。生徒からは《手術をしたら、父親は自分の行為を一生後悔することになる》《父親は深く傷つく》など、主に父親がどう感じるか、思うかという観点からの発言が続いた。そして授業は、次第に、そんな父を思う娘のやさしさへと話は収斂し、終わりを迎えようとしていた。それは授業者である担任ノブちゃんの計画した授業プランどおりのものだっただろうし、また生徒である私たちも「道徳」という授業を慮っての授業のなりゆきだったように思う。そして、このまま授業が終わることを、このクラスにいる誰もが(教師のノブちゃんも生徒も、そして後ろに並ぶ多くの先生たちも)、なかば了解していた。これで終わりにしていいのだ、いつもの私なら。

 だけど、どうしてもこれで終わりにすることができなかった。まとめに入っているにもかかわらず手を上げた私を、ノブちゃんは何だろう?と戸惑いつつも指名してくれた。心にある如何ともしがたい思いを、この状況の中でどう言えばいいかあまり考えることなく、唐突に「自分でなくなるから」と言葉が口に出た。
 担任のノブちゃんは何を言い出すのかと拍子抜けしたような表情をし、生徒たちも《また授業の終わりに変な、わからんことを言って~、こまったやつだなあ》という薄い笑いが教室を包んだ。そして、あっけなく授業は終わった。うまく発言できなかったし、授業の終わりの状況を考えると理解されなくても、取り上げられなくても仕方ないか、そう思った。

 ところが、その日の放課後のことだった。陸上部の私がいつものように校庭を走っていると、校舎の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえる。声のする方を振り向くと、校舎近くの鉄棒のところに居たのは数学を担当しているタナカ先生だった。手招きをしているので、何だろうと思いながら走っていくと「今日の授業の発言、とてもよかったよ」とだけ言った。それだけだった。今思えば、何がよかったのかを聞けばよかった。でも、その時は、何も聞かなかった。何も聞かなくてもよかった。ただタナカ先生はわかってくれたのだという、その強い思いだけが確かに残った。あの時の私には、それで十分だったのだ。

 あの時、タナカ先生は何を受け止めてくれていたのだろう。実は、そんな思いが未だにうずいている。そして、あの時の話の続きを聞いてみたい、してみたいと、私のなかで一つの傷のように終わらないでいる。(キヨ)