mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

今は昔、電車のなかの過ごし方

 仁さんが、diaryに下校途中の子どもたちが、「手のひらを太陽に」を《僕らはみんな生きてるが、生きている気がしないんだ》と歌っていたことを「衝撃的な替え歌」と題して書いていた。替え歌には、コロナ禍をはじめとする現代社会の生きづらさが反映しているのだろう。この夏、私も時代が変われば変わるものと思ったことがあった。

 それは、震災の聞き取り調査のため仙石線に乗った時のこと。車窓から見える景色を眺めながら電車に乗るのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。それもそのはずで、通勤の地下鉄は、そもそも窓の向こうは真っ暗なのだから。電車は、仙台を出発したときにはそこそこ混んでいたが、いつの間にか乗客はまばらになって静かになっていた。

 ふと通路を挟んで斜め向かいのボックス席に目をやると、前髪におもちゃのメガネをちょこんとのせた就学前のおしゃまな女の子が、母親と二人並んで座っていることに気がついた。母親は外を見ながら物思いにふけっている。その横で女の子は、母親のスマホの画面を食い入るように眺めて楽しんでいる。ゲームか動画を見ているのだろう。
 その光景を見て、なるほど!今の子たちは、スマホがあるから電車で退屈することがないのかも? と思った。

 千葉で子ども時代を過ごした私は、よく週末に母親と祖母の家に遊びに出かけた。黄色い電車の総武線各駅電車で、祖母の家の最寄り駅まで1時間半ほどかかった。子どもにとってお出かけはうれしいが、電車に乗っての1時間半は、なかなかに退屈だ。その退屈な時間をやり過ごすために、私は窓を背にして座る横長のシート(ロングシート)に腰を下ろすと靴を脱ぎ、窓の方に体の向きを変えて正座し、走る電車の車窓から見える景色を眺めて過ごした。ただぼんやりと、電車の走る方向とは反対側に流れて消えていく景色を眺めた。それは楽しいということとは違うが、なんとも言えない充足した時間だったような気がする。周りには知らない乗客がたくさんいるのに、なぜか、そんなことは気にならなかった。電車の走るレールの音と、ただただ流れゆく景色に魅入っている時間があった。
 そんなことをスマホに夢中になっている女の子の姿を見ながら思い出した。と同時に、まあそれは子どもに限ったことではないな、今や私たち大人もみな、電車のなかでスマホに魅入っているのだから。(キヨ)