mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

意味が通じればいいのだろうか

 夏のこくご講座で、助詞の「と」と「でも」をめぐり楽しい議論が交わされたことは、8月30日のdiaryに書きました。

 その後、こくご講座の世話人でもある千葉さんは、小学校の国語教科書のなかで助詞がどのように使われているのかを調べ、その内容を文章にまとめ退職教職員の方々でつくる会の会報「おーい!」に載せました。
 その中で述べられていることは、夏のこくご講座がめざした「 文法から広がる読みの世界!」に通じるもの。ということで、ご本人に許可をいただき、diaryに転載させてもらうことにしました。何気なく使っている「助詞」ですが奥が深~いです。ぜひ、お読みください。(キヨ)
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  くっつき(助詞)の「へ」と「に」のはたらき

 教育文化研究センター主催の今年の「こくご講座」の第1回目は「文法から広がる読みの世界」というテーマの学習会でした。齋藤章夫さんが「一つの花」を題材に、文法に着目すると読みがどのように深まるかを提案してくれました。コロナ禍もあって少人数でしたが、校内の研修会では語られることのない学びあいができたのではないかと思います。

 大野晋著『日本語の教室』(岩波新書)は、日本語の文法やことばの意味をこんな見方で解き明かすのかと大変おもしろく読んだ本です。冒頭にこんな話が書かれています。
《ある日勤め先から東急の電車に乗って帰る途中、私は阿川弘之さんと乗り合わせました。・・・・・・・話を交わしていると、「僕は今日は朝から『東京へ行く』とするか、『東京に行く』とするかで、ずっと迷っていたんですよ」とのこと。確かに「へ」と「に」は同じように使うことがあります。私は以前「へ」と「に」の使い方の違いを調べてみたことがありました。そこで私は知っていることをかいつまんで言葉にしました。》

 そう述べて、大野さんは「万葉集」の和歌で使用されている例をあげて古来「へ」と「に」がどう使われていたか、その違いを述べています。

 具体的な例は著書で見てもらうことにして、結論からいうとこういうことです。
  「球を庭へ投げる」というと、「球を庭の方へ向かってなげる」こと。
  「球を庭に投げる」といえば、「球が庭に落ちて着く場所が庭」ということ。

 どちらも「へ」といっても「に」といっても通じることは通じるのですが、
  ・移動・移行の方向のときは「へ」
  ・動作の帰着をきちんと示したいときには「に」

として使い分けると聞き手も事態をはっきりと受け取ることができるというのです。

 これは文学作品の読みを深める場合にもあてはめて考えられると思いました。そこで、現在使用されている国語の教科書(東京書籍)のなかから、文学作品の文章における「へ」と「に」の使われ方について見てみました。

「うち帰る」と「家帰る」の例

「おらので わりいが、こらえて くだされ。」
じいさまは、自分の つぎはぎの 手ぬぐいをとると、いちばん しまいの じぞうさまに かぶせました。
「これで ええ、これで ええ。」
そこで、やっと 安心して、うち 帰りました。   
                     (「かさこじぞう」国語2下) 

 「うちに」の「に」は帰着点。じいさまの帰り着いたところが「うち」です。ばあさまの待つわが家を心に思いながら帰路に着いたことが想像できます。
同じ「帰る」の動作をあつかいながら、「へ」が使われているのが次の文章です。

「ぼく、もう  帰らなくちゃ、がまくん。しなくちゃ いけないことが あるんだ。」
かえるくんは、大いそぎで  帰りました。  (「お手紙」国語2下)

 かえるくんが、急に「家へ 帰らなくちゃ」と言い出したのは、一度もお手紙をもらったことのない友だちのがまくんのために、いい計画を思いついたからです。かえるくんは、大急ぎでわが家へもどり、えんぴつと紙を見つけて「がまがえるくんへ」と手紙を書き、知り合いのかたつむりくんにがまくんの家のゆうびんうけに入れてくれるようにたのみました。
 この「家へ帰る」の「へ」は、移動の方向です。家に帰るのが目的ではなく、がまくんへ手紙を書くために戻ったのです。「に」ではなく「へ」を使用することで、いい計画を思いついて我が家に向かうかえるくんの意気込みが伝わってきます。

「火のなか飛びこむ」と「海飛びこむ」の例

「中に子どもがいるぞ。たすけろ。」
と、だれかがどなった。
「だめだ。中へは、もう入れやしない。」
それを聞いたライオンのじんざは、ぱっと火のなかとびこんだ。

                  (「サーカスのライオン」国語3上)

 老いぼれて気力を失っていたじんざを励ましてくれた男の子のアパートが火事になりました。じんざは、おりをぶちこわして、アフリカの草原を走ったときのようにすばやくかけつけ、そのまま「火のなかへ」飛びこみます。もし「火の中に」としたら、そこは帰着するところ、焼身自殺ともとられかねないでしょう。じんざは少年を助けるために火の中へ向かったのです。
「へ」は移動する方向を示しながら、文脈によっては、何らかの目的や行動のために移動していると読み深めることもできそうです。
 同じ「飛びこむ」の動作で「に」が使われているのが次の文章です。

 いかりを下ろし、飛びこんだ。はだに水の感しょくがここちよい。海中に棒になって差しこんだ光が、波の動きにつれ、かがやきながら交差する。耳には何も聞こえなかったが、太一はそう大な音楽を聞いているような気分になった。とうとう父の海にやってきたのだ。   (「海のいのち」国語6年)

 太一にとっての海は、おとうと一緒に住んできた海。与吉じいさの弟子になり、一人前の漁師になった海。太七はいつも海と一つでした。当然、飛びこむ海は、単なる「移動の方向」を示す「海へ」ではなく、動作の帰着するところの海。つまりいつも太七を抱くように受け止めてくれるその「海に」飛びこんだのです。太七を海は、美しく、優しく、そう大な音楽を奏でるように迎えてくれました。「とうとう父の海にやってきたのだ。」の「海に」も同じおもいがこめられ、「父の海に」となると、やがて父を破った瀬の主との出会いを予感させます。

 たかが「へ」と「に」じゃないか、意味が通じればいいじゃないかと言われればそうですが、万葉人などの私たちの祖先は、聞き手に事態をはっきりとうけとってもらうために「へ」と「に」を使い分け、他者に向き合う姿勢もことばにこめられ、今に伝えられてきています。
 「へ」にするか「に」にするか、助詞一つに朝から頭を悩ませ、適切な表現に精神を傾けているのが作家と呼ばれる人たちです。すぐれた作品は、こうした作家によって選び抜かれたことばででできています。教師のしごとは、授業をとおしてそれらのことばをこどもたちに伝え、こどもたちのものにしていくことのように思います。(千)