mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「雨にも負けず」と「黒い雨」と「教科書改ざん」

 他界した親父が私のノートをみて議論になったことがある。それは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」をノートに書き写していた5年生の時のことである。

 雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/・・・・

 模写したノートを仕事から帰ってきた親父がのぞき、「玄米四合でなく玄米三合と書いてた教科書がある」と話してくれたことから始まった。終戦後の教科書では「三合」となっていたというのだ。そのときは、「えー、そうなんだ」と何の疑問を持たずに過ごしてきた。
 そのことを思いださせてくれたのは、教員になってからだ。それは作曲家の林光さんと、井伏鱒二の「黒い雨」との出会いだ。

 夏休みに開催された自主編成講座が福島で開催された1984年、講師の林光さんが宮澤賢治のこの詩を取り上げ、戦後一時改ざんされていたことを話してくれた。
 もう一つは、それと前後して、広島原爆のことを調べていたとき、井伏の「黒い雨」の中で、戦時中の出来事という設定で国家が国定教科書を作る際に、玄米四合を三合に書き換えたエピソードを含めて、「国家がそんな改ざんをすれば、いずれ子供たちは国の発言を信用しなくなる」と批判する女性と、「そのような流言蜚語は罪である」と咎める「その筋の人」を登場させていたのだ。
 『改ざん』という言葉が、ここ2,3年の中で頻繁に話題になるたび、この「雨ニモマケズ」と「黒い雨」を思い出すのだった。

 「雨ニモマケズ」の改ざんの経緯を調べると、太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)の文部省の国定教科書に当作品が掲載されている。「日本の食糧事情から贅沢と思われる」という理由からGHQの統制下にあった民間情報教育局 (CIE) の係官は一度掲載を却下したものの、その後「玄米四合」を「玄米三合」に変更することを条件として許可したとされている。国定教科書は賢治の遺族の了解をもって、三合に変更されたという。
 ついでながら、もう少し調べてみると、米飯が少なくなってきた現代日本人にとって四合は多すぎると思われる。しかし、戦前までの日本の労働者はわずかな副食物で大量の米飯を摂取する食習慣であった。ちなみに1873年の徴兵令では「白米六合」を食わせることになっていたという。しかし脚気の大量発生から改められたのだが、当時の日本陸軍の食事規定では一回の食事につき主食として3食とも麦飯2合、副食として朝食は汁物(味噌汁・澄まし汁など)と漬物、昼食および夕食は肉や魚を含んだ少量のおかず一品と漬物である。

 そしてもう一方の『黒い雨』だが、今日(7月29日)の午後、うれしいニュースが届いた。黒い雨を浴びた人たちが被爆者と認めるよう訴訟をおこしていたのだが、広島地裁がこの訴えを認めたという。大きな前進だ。広島原爆投下から、もうすぐ75年になる。

 改ざんといえば、過去のことだけではない。現安倍政権には、森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題がある。近畿財務局の赤木俊夫さんが自死したのは改ざんに加担させられたからだなどとして、赤木さんの妻雅子さんが国と佐川元同省理財局長に損害賠償を求めた訴訟が続いている。こちらも速やかに罪を認めて欲しいものだ。
 連想ゲームのように3つのことが思い起こされ、推敲もせず書き留めた次第である。<仁>