夏休みですね。今日あたりから夏らしい暑さが戻ってくるとのことですが、天気に関係なく子どもたちにとって夏休みはうれしいものですよね。
しばらく前にDiaryに「名なしのごんべい」という文章を書きました。まわりの方からいろいろお声がけいただき、ありがとうございます。ご心配かけて申し訳ありません。また何らかお伝えできるようなことがありましたら、お知らせしたいと思います。
そんな中で、ある方から「谷川俊太郎の『除名』を読んで、石垣りんの『表札』を思い出した」との話をいただきました。
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。
病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。
旅館に泊っても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵に入ると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?
様も
殿も
付いてはいけない。
自分の住むところには
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
「様」も「殿」も、そもそも他人が相手に対して付ける敬称です。石垣さんは、そうして他人様から付けられる敬称が、人の精神のあり様や、はたまた行いを狂わすワナだというのでしょう。敬称に限らず「校長」や「教頭」、あるいは「社長」や「専務」など社会的地位をあらわす役職名なども同様ですね。端から見たら裸の王様なのに、勘違いして自分は「えらい」と思ってしまう輩があちこちにいます(もちろん、そうでない人もいますが)。自分の精神の在りかは自分できちんと見きわめ、見誤らないようにしたいですね。『表札』からは、石垣さんの凛とした自立の精神を強く感じます。(キヨ)