mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風15(葦のそよぎ・物語の消滅)

虚構の物語の方では、実際に作者は糸を操り、遊びを指導しているのである。虚構の物語は作者を明らかにする。それはちょうど、すべての芸術作品がだれかによってつくられたことをはっきりと示すのと同じである。このことは真実の物語の性格についてはいえず、ただそれが存在するに至るときの様式についてのみいえることである。真実の物語と虚構の物語の違いは、まさに後者が「作り上げられる」のにたいして、前者はけっして作られるのではないという点にある。私たちが生きている限り関与している真実の物語は、眼に見えるか見えないかにかかわらず、いかなる作者をももっていない。なぜなら、それは作られるものではないからである。この物語が暴露する「ある人」だけが主人公である。そして、他人と異なる唯一の「正体」(その人がだれであるか)は、もともと触知できないものであるが、活動と言論を通じてこれを事後的に触知できるものにすることが唯一の媒体、それが真の物語なのである。(ハンナ・アレント『人間の条件』より)

 アレントはあるところでこう書いている。
「すでに起こった事にたいしては期待できないようななにか新しいことが起こるというのが、『始まり』の本性である。この人を驚かす意外性という性格は、どんな『始まり』にも、どんな始源にもそなわっている」と。

 言葉は抜き難く人間中心的なものだ。それは事象のいわば「純粋」に客観的な記述の言葉にみえる場合にさえ、実はある人間的価値をおのずと反照させている。宇宙における地球の誕生、植物の、動物の、様々なる存在の誕生、つまりそれらの「始まり」について語りながら、結局ぼくたちはそれらの誕生が驚きであり意外だからであり、それらがひとつの「始まり」だからなのである。
 アレントが「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」と書く時、おのずと彼女は「始まり」という言葉をひとつの価値として、あるいはひとつの栄光として立てているのだ。
 しかしながら今、ぼくたちはこう問わねばならない。果たして我々は始まりという言葉をそのような人間的栄光として享受しうるだろうかと。そして、この不安、疑惑というものは、ぼくたちのもとには歴史という言葉が今なお許されているといいうるかという疑惑と一体となっているのである。

 英語で、あるいはドイツ語で、実際に自分で辞書を繰りながら本を読むことを始めるようになって、ぼくはヒストリーなりゲシヒテなりの言葉が〈歴史〉という意味とともに〈物語〉という意味をあわせ持つことにあらためて気づかされる。というのも、辞書にはこれら二つの言葉が単一の言葉の両義として併記されており、それ故にこれら二つの言葉が起源を同じくする事情がそこには端的に示されていたからである。
 ひとつの「出来事」が生じたということ、それは先にアレントがいった意味でひとつの始まりが生じたということである。そして始まりは終わりを生みだす。とはいえ、物語においてこの終わりは、その終局にいたってその始まりのなにであったかがはじめて告知され暴露されるところの終わりであり、物語を出発させる始まりとはそのような終局にいたってはじめて始まりたることの権利を確立する始まりである。この物語るという空間、あるいは現実へのかかわり方は、実は、そのような仕方で始まりと終わりとが結節しあう歴史の経験それ自身の内的構造をあらわす。つまり人間は歴史を経験した時自分の存在を物語ることを覚えたのであり、またその逆でもあったわけなのだ。こうして歴史と物語とは起源を一にする。
 この歴史の経験において、人間は、歴史が存在するのは自分たちの行為によってではあるが、しかし歴史を「作る」のは明らかに人間ではないということを経験する。というのも、人間は歴史という物語の渦中にあってそれを生きる登場人物たちではあっても、誰一人この物語の外にいてそれを「作る」物語作者の位置にはいないからである。また人間が物語作者の位置につく時には既に歴史は物語の対象たる成り終えた存在と化していて、そこには人間が行為者として関与する余地はもはやないからである。

 とはいえしかし、今ここで強調されねばならないのは、そうした歴史の経験が物語るに値する物語たりうるのは、あくまでそこで人間が行為する人間、冒険を開始する存在として登場していることによるということだ。アレントが「真実の物語」とは「けっして作られるのではない」という時、そこでいわんとするのは歴史の人間にとっての根源的な冒険性のことだ。物を製作するようにあらかじめの設計図に基づいて歴史を作ることは誰一人できはしない。だが、このことの承認は同時に物語作者の観点――その眼の下に置かれては歴史は本質的に死物(成り終えたもの)に化すしかない――を生ける人間の観点、具体的経験の観点としては拒否するという立場と一つになっていて、そのどちらが欠けても歴史はそのリアリティーを喪失するのだ。人間は製作者という意味での歴史の主体ではないが、冒険者という意味での、「始まり」を生じさせるものであるという意味での、歴史の「主人公」なのである。
 かかる主人公、アレントのいう「ともかくも自ら進んで活動し、語り、自身を世界の中に挿入し、自分の物語を始めるという自発性」が消えるならば、物語は消える。そして物語が消える時歴史もまた消えるのだ。今、果たしてぼくたちは物語への情熱、歴史への情熱を我身に感じることができるであろうか。(清眞人)