mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風14 ~私の遊歩手帖6~

  沖縄を歩く 2

 前回「沖縄を歩く1」で、僕は高橋和己の『堕落』について言及した。
 遊歩は奇しき連想と出会いとの往還を歩む歩行である。またしても。沖縄でも。

 『堕落』の主人公青木は、満州から命拾いするように(一時シベリヤ抑留も経験)日本に引き揚げることができ、しばらく中学校の教員を勤めたのち、敗戦直後の神戸に溢れる浮浪児と「進駐軍のとどまるところに次々と産みおとされては見捨てられる混血児」を「一カ所に収容し保護・教育する」福祉事業に、親から継いだ山林を売り払い挺身する人物として設定される。《廃墟に生き残らざるを得なかった者の眼差し》とは如何なるそれか?という高橋文学の運命的主題は、『堕落』においては、幼き遺棄者に身を寄せることを生涯の仕事に選ぶ青木を主人公として登場せしめる。
 ついでにいえば、高橋はこの小説の後書きでこの作品が彼の実体験に何ら根ざすものではなく、まったき想像の産物であることを断っている。満州経験という点でも、主人公の世代設定においても、そしておそらくは混血児保護施設という舞台設定においても。

 そしてこの舞台設定に関していえば、高橋の綿密な資料考証によると思われる『堕落』に次の記述がある。いわく、

連合軍司令部は五十パーセント以上のアメリカ人乃至は白人の血が流れていることを証明できなければ、その混血児のアメリカ移民も養子縁組みも、さらには出生の事実すら認めなかった。…〔略〕…関係した女性が、すでにアメリカ人との混血児であるか、白人たとえば白系ロシア人である例外的な場合を除いては、その子供は要するにアメリカ国家にとっては、保護すべき人間ではなかったのである。

 ところで、僕は沖縄に着いたその夜、学生時代の後輩のTを招き二人の友人とともに四人で飲んだ。彼とはほぼ五十年ぶりの再会であった。今、彼は沖縄の辺野古新軍事基地建設反対運動の中核を形作る諸団体の一つの要職を担っている。そのことは以前から知っていたので、貴重な再会を得ようと連絡を取ったのだ。

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  辺野古ゲート前にいちばん近い団結小屋。全国の市民団体からの訪問者が絶えない。

 「お前は、沖縄出身なんだっけ?」、これが再会を果たすや否や、僕の発した彼への質問だった。「いや、群馬なんだ。郷里は」。「そうだろ。沖縄だなんて、聴いたこと一度もないもんな! あの頃。で、そのお前がどういうわけで ?」
 その経緯は省略する。昔話と今話が入り乱れ、五十年ぶりに会ったとは思えない時空に互いに酔った。

 県知事に玉城デニー氏が選ばれたということがどのような意味で「沖縄のアイデンティティー」を象徴するか?
 話題がこのテーマに移ったとき、Tは、玉城氏の母が玉城氏に語った「忘れた」という言葉の担う逆説、それが沖縄のアイデンティティーを象徴するのではないか、と語った。
 その指摘に僕は心中唸った。
 その「忘れた」という言葉を確かめたくなり、Tと別れて数日後僕はネットの中にそれを見つけた。インタビューに答え、自分の生い立ちを語る玉城知事の言葉の中に。
 「生まれたのはどんな家庭で、デニーさんはどんな子どもでした?」という質問に彼はこう答えている。

とってもわんぱくな小僧でした。僕の本名は康裕ですけれど、最初、母は僕を「デニス」って名付けたんです。父親は当時基地に駐留していたアメリカ人で、僕がお腹にいる時に帰国命令が出てアメリカに帰りました。母は僕が生まれた頃にはまだ僕を連れて渡米するつもりだったそうですが、いろいろと考えて、僕が2歳の頃に、「沖縄でこの子を育てていく」と決意しました。渡米しても苦労も多いだろうという周囲の説得もあったみたいですね。…〔略〕…当時の沖縄でシングル・マザーとして僕を育てていく、というのは並々ならない決意ですから、その時に母は父の写真も手紙も、全部捨ててしまったそうです。だから僕は父の顔もどんな人なのかも全然知りません。物心ついてから母親に聞いても、「もう忘れた!」としか言わないんです(笑) 
僕も成人した後、一度父を探そうかと思ったこともありましたが、いつしか「生きていればそのうち会えるかな」という風になりましたね。世の中にはいろんな家族の物語があると思うけれど、それが僕の家族のストーリー。僕の原点です。

 この一節を読みながら、僕は高橋の『堕落』の中の先のくだりを思い出していた。米軍占領時代が終わり、米国信託統治時代いわゆる琉球政府時代に入るや、前述の混血児への処遇規定がどうなったのか、まだ僕は知らない。しかし玉城知事の母の「忘れた」には、明らかにその規定が体現する《遺棄への意志》に対する彼女の拒絶の意志が木霊しているのではないか?

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    紺の制服と帽子の機動隊員に抗議・説得・問いかけを繰り返す、埋め立て阻止行動の人々。
       阻止行動は、あくまで言論による抗議・論争・説得と座り込に徹するという、非暴力が原則。

 沖縄はかの沖縄戦において「捨て石」として日本天皇制国家から遺棄された。そして沖縄戦が証明したことは、「ひめゆり学徒隊」がその象徴であるように、戦闘の中に遺棄されることは同時に隣人・仲間・家族を遺棄することの苦悩に遺棄されることだということであった。かの朝鮮人徴用工や慰安婦は、日本天皇制国家の植民地主義によってこの遺棄の二重化された苦悩をさらに輪を掛けた形で担わされた。

 沖縄のアイデンティティーの根はこの遺棄の二重化された苦悩にある。その苦悩が生む《遺棄されることも遺棄することも共に拒絶する意志》にある。くりかえしいえばかの「忘れた」はこの拒絶の意志の表明である。この《根》が如何なる芽を生み、茎と葉へと育ち、まだ世界のどこにも存在しない《如何なる遺棄も無い国》となって咲くか? その問いかけをかの「忘れた」は担う。そこには、「忘れない」ことによってこそ「忘れた」がうち開かれ、「忘れた」が示す未来への強い意志はただ「忘れない」意志だけが可能とするという逆説、これが波打っている。

 玉城知事は「玉城康裕」と名のらず「玉城デニス」の愛称「玉城デニー」を知事名として名のった。僕に言わせれば、かかる沖縄のアイデンティティーを体現するために。

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       【写真1】                 【写真2】
写真1:阻止行動の人々。ほとんどが70歳前後の男女、常時40人前後という。ガードマンも機動隊員
    も、自分たちの親や祖父母にあたる阻止行動者にうかつには手を出せない。
写真2:赤い阻止ネット向こうのヘルメットを被った男たちは民間警備会社のガードマン。「県の決
    定に違反する君たちガードマンと機動隊員こそが違法」という論理で頑張る、これが戦術。

 Tは言う。

「『腹八分』って言うよな。八分どころか九分さ!言いたくなる文句、批判、注文はお互いに。沖縄の平和運動の内情を打ち明けていえばさ。その九分を腹に閉まって、残り一分で絶対に団結する。絶対に。たった一分が決定打なんだ。この思想・気構え、たぶん沖縄にしかないと思う。」

 そういう「一分」があり得る。沖縄はかの《遺棄されるーするの二重苦》を生きた希有な土地であることによって。僕にはそう思えてきた。 

 二日目、僕たちは川満さんをガイドとして、まず沖縄でのハンセン病患者の苦闘を一身に戦前から担い続けてきたハンセン病療養所「沖縄愛楽園交流会館」を訪問し、沖縄探訪のスタートを切った。振り返れば、ここでも中核となるテーマは《人間による人間の隔離・遺棄に対する拒絶の意志》であった。

 次回はこの訪問から書き始めたい。(清眞人)

 ※ 写真は、辺野古ゲート前でのもの