mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

授業における小森さんの愛について ~2~

 小森さんからの愛を小牛田農林の生徒たちがどう受けとめたかは、この間のdiaryで書いた。では、なぜ生徒たちは小森さんの愛を受けとめたのだろうか。そのわけを小森さんが東大の教授だからとか顔がいいからとか、そういう小森さんの属性や特性に求めることもできるかもしれない。あるいは説明が上手だ、話がおもしろいなどということに求めることもできるだろう。しかし、それらは実は些細なことなのかもしれない。
 彼らの感想の多くは、小森さんの授業の有り様について驚き、そのことに魅了されている。そこには、まさに愛とは何かということに関わる理由があるのではないだろうか。

 鷲田清一さんの著書『大事なものは見えにくい』のなかに、「届く言葉、届かない言葉」という話がある。鷲田さんは、子どもはちゃんと話を聞いてもいないのに何度も母親に絵本を読んでとせがんだりする、それはどうしてだろうと話を起こし、子どもは話の中身が重要なのではなくて、「話の中身以上に、母親の声がじぶんに向けられているということが大事なのではないか」という。また、子どもが本当に聞きたい声は、例えば《このぐらいわからなくちゃ、できなくちゃ》というような社会からの要請や要望を背負った声ではなくて、「誰かの存在そのものであるような声、もっぱらわたしのみを宛先としている声である。そういう声のやりとりのなかで、ひとはまぎれもない〈わたし〉になる。」と。

 今日、教師が生徒たちに向けて語る声は、どんな声だろう。いつ頃からか教育・子育てが〈ひと〉を〈人〉に育てることから〈ひと〉を〈人材〉に育てることへと、異和感を感じないようにつとめながら?一字加えられた。今日の文科省の答申文書などは、それらの言葉で埋め尽くされている。そのようななかに教師の声がまぎれもなくあるのだ。

 小牛田の生徒たちが小森さんから聴きとった声は、たぶんそういう声ではない。「どうしてそう思った?」「それはなぜ?」「その心は?」と生徒に問いかける小森さんの声は、「わたしのみを宛先とする声」だ。その宛先として小森さんの声を受け止める生徒は、生徒であること以前に「まぎれもない〈わたし〉」へと変貌しているのだ。生徒たちが、小森さんの授業を「変わった教え方」「新しい授業のやり方」「独特な授業」と言うのは、そのようなことをわれにもあらず語ってしまっているように感じる。そしてその声は、宛先としての生徒だけでなく、実はクラスの中に反響し広がっている。

 鷲田さんは、先の話の最後を次のように締めくくる。

〈わたし〉を気づかう声、〈わたし〉に思いをはせるまなざし、それにふれることで、わたしは〈わたし〉でいられる。気づかいあうこと、それは関心をもちあうことである。ちなみに関心(interest)の語源は、inter-esseインテル・エッセ)、「ともにある」「相互に存在する」というラテン語のフレーズである。

 まさに、ここにあるのは愛ではないか。(キヨ)