mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

2月9日

 井上ひさしの古いエッセーに「パロデイ思案」というのがある。1972年に書いたものだ。「よく考えるとパロデイというコトバは『正確に』『歪んでいる』という正反対の考え方を同時に内包させていないと成り立たない」「鏡は、ものの形を、左右とりちがえてではあるが、正確に写し出す。ところがパロデイという名の鏡は、ものの形やこころを正確に捉えながら同時にものやこころの長所を誇張し、拡大し、ねじ曲げ、ふくらまし、つまり歪めて写し出すのである」

 ということを並べた後、井上の考えは「パロデイとは猿のことではないか。人間をいちばん見事にパロデイしてみせてくれるのは猿ではないか」に行きつく。

 その例としてボス猿と国会の宰相の動きをあげる。政治的中立を欠くと問題になることが怖いから断っておくが、40年以上前の文ゆえに現首相でないことは確かだ。なにしろ、大新聞の一面上段に3面抜きで「総務相、電波停止に言及」の見出しで、総務大臣放送法をもちだして「政治的中立」をのたまわれたと報じられたりすると、弱虫で心配性な私は震え上がっているのだから。

 前にもどってボス猿について井上がどう言っているかを少しつづける。

 わたしたちがボス猿の一挙手一投足を眺めて微笑するのは、むろんボス猿がボス的人間と、ただたんに似ているからではないだろう。ボス猿が、ボス的人間の持つ威厳やもっともらしさを、誇張し、拡大し、ねじ曲げ、ふくらまし、歪めて呈示してくれるから、わたしたちは微笑んで眺めるのだ。別の言い方をすれば、人間であればさしたる破綻もなく保持しつづけることが可能な威厳やもっともらしさが、人間より数段下等だとされている猿どもに保有されることによって、自らその値打ちを下げ、空虚さをまる出しにしてしまうので、わたしたちは微笑するのである。なにしろ、空虚な威厳(つまり空いばり)やもっともらしいもっともらしさほど、可笑しいものはないのだから、笑うなという方が無理なのである。~

 もう止めよう。抜き書きしているうちに、どうしたわけか、時間がつい最近に近づいてきているのだ。「早く質問しろよ」などという国会中継の言葉が浮かんできたりするようになったので。

 このようなことを井上ひさしに学んだうえは、できるだけ早いうちに八木山動物園に行き、「空虚な威厳やもっともらしいもっともらしさ」の表現には十分気をつけるように猿たちに教えてこなくちゃ・・・。

 でも、猿は、「それが出来なくちゃ寝ていたほうがいい」と、ゴロンと寝てしまうだろうなあ。( 春 )