mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

正さん 高野山から熊野本宮大社へ(その2)

【2日目】 4月8日(金)  (晴れ 22℃)
  熊野古道①「高野山~大股へ 16.8km」


 《2日目の全行程》 

どんなコースプランをとったか
 十津川村野迫川村役場のホームページで調べてみた。小辺路70kmを歩くプランがいくつかあった。2泊3日でも何とかなるかと思ったが、途中山小屋泊まりになるようだ。とすると、装備は完全に山縦走(炊事一式、シュラフ、マット、簡易ツェルト、水、食糧等)となる。あ、むりむり、こんなのしょって歩けるわけない。どちらの役場もおすすめしているのは、3泊4日プラン。1日歩けば、必ず宿泊施設にたどり着く。できるだけ荷物を軽くしたいおいらにとって、これしかないと決定。それでも歩けるかどうか不安は残る。

◇今日やらなければならないこと
 国土地理院発行の地図とコンパスは持ったが、これは道に迷ったときに使うことにし、役場発行の登山マップを使うことにする。そこには、ルート上のきつさや、上りか下りかなどの情報が細かく印されている。ありがたい。さらに、歩行時間とは別に、休憩を入れた所要時間も書いてある。

 問題はこれなのだ。標準的な時間には違いないのだが、どんな体力、脚力の持ち主なのか見当がつかない。明らかにおいらは標準以下だ。間違いない。だから、今日一日せっせと歩いてみて、この登山マップとの誤差を知る必要がある。それをやらないと、次の日歩くコースの、自分用の時間配分がたてられない。4日間を歩くのだから、行程全体の体力消耗を見ておかないといかん。熊が出たときに闘う?だけの余力は常に残しておきたいもんだ。べつに修行をしに来たわけではない。ちょっとは楽しみたい。それができるように、今日は誤差を確かめるのだ。

 
《日程前半 金剛三昧院~水が峰分岐》※図を左クリックすると大きくなります。

 

◇大滝口女人堂跡


ここが小辺路のはじまり。ひんやりした空気だが天気はいい。さあ、ここからだ。

◇薄峠


峠なのに眺望全くなし。

◇丁石に向かう中で

 
なぜこんなところに?
実は左側の斜面に、たくさんの松の木が延々と並んでいる。
「神聖なる高野山の山に入ってきて、マツタケ取るなよ!罰あたりめが!」
というもの。たくさん出るんだろうなあ・・・


気持ちのいい道が続く。

◇あんな所に、家が!

 
分かりづらいだろうが、谷を挟んだ向かいの山腹に家らしきものが見える。
いやいやどうやって生活しているのか。
そんなことを思っていたら、ぎゅうっと下って、ぎゅうっと登り、あそこの家の前にいた。古道、恐るべし。

■ 自撮りに苦しむ

 
ぎゅうっと下ったところに、赤い鉄橋があった。
休憩だ。
スマホのタイマーで写真を撮ろうとしたが、何遍もひっくり返って失敗。
やっと撮れたかと画像を見ていたら、人が来た。走ってきた。
声をかける暇もなく走り去っていった。また来た。今度は女性だ。
頭を下げて挨拶したが、はあはあしながら走り去った。
そうなんだ、トレイルランニングだ。
ちょっと待て、小辺路を走るってか?
信じられない。
元気が出たような、出ないような…
谷川の澄んだ水が、お前もがんばれって言った。


《日程後半 水が峰分岐~大股》※図を左クリックすると大きくなります。

◇水が峰分岐


龍神スカイラインを1.7kmほど歩いた。
所々に、「小辺路を歩く人に注意」という標識があった。
ありがたい。
バイクツーリングも多く、爽快だろうなと羨ましくなる。
ここから、また山道に入る。

■ 山また山

 
「北股・荒神岳が見える」と紹介されているが、どれがどれやら分からん。
でも、青空の下に広がる山々に疲れが引いていく。
残り3分の1だ。

◇平辻のあたり


だいぶ下ってきた。もう少しだろう。

民宿到着!(14:30)

《自転車重てえ~》
 山道から林道に出た。あ~やれやれ本日の歩きは終わりだ。真下に建物が見えたので後10分ほどだ。ところが急傾斜のためか、道がつづれ織りになっていて30分もかかった。汗だくだ。お宿に着くと、ご主人が「この先に温泉あるから自転車で行ってみたら? 送ってく?」動くのも嫌なぐらい疲れていたのだが、かっこつけて「あ、自転車でいいですよ。」と言ってしまった。

 少し休んだ後、颯爽と自転車をこぎ出すと、あれ? 全然進まねえよ、切り替えはどこだ。ない。昔々のママチャリだった。足がつった。温泉に向かう傾斜はさほどでもないのに、途中から押していった。疲れが倍増した。でも、渓流沿いにある野迫川温泉はありがたや、ありがたやだった。

《大女将のもてなし》
 一人で夕食を取っていると、見かねたのか奥の方から80歳になるという大女将が現れて、向かいに座った。「ずいぶん遠くから来たねえ」から始まって、東日本大震災を気の毒がり、ロシア侵攻に憤り、1時間もつきあってくれた。中でも、ここでずっと暮らしてきた話が興味深かった。聞いていると、いかに自分が余計なものを身に着けて生きているか思い知らされた感じだった。誰とも会わずに黙々と歩いてきたので、このおしゃべりが最高のもてなしだった。あ、目の前の渓流で養殖している “ あまご ” こっちではヤマメ、絶品だった。

《さて、明日の計画だ》
 今日のコースは高低差の少ない一番楽な道だった。だから標準時間でたどり着くことができた。それで、余裕があったかというと、そんなことはない。暑さも手伝って、下りの2時間はとても長く感じた。
 最後まで歩けるかどうかは、明日の峠越えをしてみないと分からん。足のケアをして、さっさと寝るに限る。

『研究年報 第2号 2022』が完成しました!

 特集:GIGAスクール構想とどう向き合うか

 昨年春に刊行の『研究年報 創刊号』では、コロナ禍の学校現場の状況と教育・授業についてまとめました。
 この一年は、コロナ禍を口実に前倒しされ推進された国策のGIGAスクール構想をテーマに、子どもたちに一人一台支給され本格実施されたICT教育は、学校や教師たちにどのように受け止められ取り組まれてきたのか。また学校教育に何をもたらし、これまでの授業をどう変えようとしているのか、変えるのか。アンケート調査や学校現場の教員との意見交換、学習会などを通じて議論してきました。

 これらの取り組みを『研究年報 第2号2022』としてまとめました。年報にはアンケート調査とその分析、それらを踏まえての論稿や授業実践などが掲載されています。

 日々子どもたちと向き合い授業づくりに取り組んでいる先生方はもちろん、多くのみなさんに読んでいただき活用いただければと思っています。
 ご希望の方は、【こちら】 から研究センターまでご連絡ください。 

 

正さん 高野山から熊野本宮大社へ(その1)

  ~ 熊野古道小辺路」70kmをよれよれ歩く~

◆きっかけ

 2019年3月。残っていた「四国お遍路」香川県を6日ほど歩き、最後の88番札所にたどり着いた。

 残るは高野山で納経してもらうのみ。それで一応、四国遍路の上がりとなる。さっそく2020年3月に行こうと、あれやこれや計画を考えた。しかし、思わぬコロナの出現。じっと待つしかなかった。待っている間に、まてまて、遙か遠い高野山に行って納経してもらうだけか? 高野山全体を歩き回るか? いやいやどうかな。

 そんなとき、熊野古道という古の道が何本かあることを知った。少し調べてみた。すると、信仰心の厚い昔の人々が、高野山からさらに熊野大社へと続く最短ルートを開いたということだった。
 最短ではあるが、山や峠が連なる厳しい路であることは想像できた。もっと楽な「中辺路」や「伊勢路」もあるが、高野山に向かうおいらにとって、選択肢はない。小辺路の起点が高野山なのだ。
 ワクチン接種も3回受けたし、歩くのは山の中。老化も進んできた。決行は今しかない。いざ出発!

【1日目】 4月7日(木)    ~高野山 「奥の院」へ~ ( 晴れ、あつい)

 
                   早い安いピーチ最高!

 はじめは、新幹線を乗り継いで行くことを考えていたが、折しも地震の影響で新幹線が動かなくなってしまった。そこで、飛行機を調べると、おいらのためにあつらえたように仙台・関空便があった。連れて行ってあげますよ、と囁かれた。関空周辺は、桜が見事に咲き誇っていた。わくわくするねえ。

◆特急高野・・・じゃなかった!

 

 高野山を歩くために少しでも早く着きたいと思ったので特急を使った。ところが橋本駅(まだ半分ぐらい)を過ぎると、自転車ぐらいにスピードダウン。
 どういうこと? きょろきょろしてみる。うお!窓の下は崖だった。急峻な山の斜面にレールの幅だけの線路がうねうねと続いている。こんなに怖い電車に乗ったのは初めてだ。終点駅名が「極楽橋」なのも頷ける。こわこわ。

真言宗の聖地高野山を歩く

    
     奥の院へ続く約2kmの参詣道入り口

   
         両脇に供養塔が延々と並ぶ     全体が杉の大樹に覆われている

 奥の院は残念ながら撮影禁止。未だに修行を続けていると言われる空海弘法大師御廟は奥の院のさらに奥にあった。その建物は山や木、草と一体化し、まさに自然の一部となっているように感じた。お参りはしたが,下手な願いごとなどしたら罰が当たるような気がした。宝くじが当たりますように・・・あ、うそです。

 
  四国遍路を締めくくる奥の院の納経(目的の1つ達成!)

◆本日のお宿は「金剛三昧院宿坊」

   

                
        精進料理をどうぞ(夕食)

 朝6時30分からの勤行に参加した。知っている般若心経ではなかったので唱えることもできず、目だけきょろきょろさせてお堂を眺めていた。
 ふと気がつくと、お師匠さまの左後ろで勤行していた3人の中の一人(尼さんではない若い女性)が正座したまま畳にうつぶせ状態になっていた。頭が畳にへばりついたまま身動き一つしない。あららら、貧血でも起こしたんじゃないかと心配しながらいたが、両脇の若い僧は何の言葉もかけない。気付いているはずなのに。そうか、彼女はいつもこういう姿になるんだ。読経が静かに流れる中で気がついた。仏様の前で自分の全てをさらし救いを求めているのだ。深い懺悔をしているように見えた。いわゆる、僧としての修行ではなく、苦しんでいる者全てを受け入れようとしているこの寺の慈悲を見たような気がした。

 もう一つ分かったことがある。おいら以外に泊まり客がいた。福島から来た年配のご夫婦で、「こんな風に拝ませてもらえるなんて、なんて有り難いことなんでしょう。」と興奮気味に話してくれた。相づちを打つしかなかった。奥様は、日本100名山を制覇するほどの山好きなのだが、足を悪くしてすたすたと歩けなくなったらしい。それでも、熊野古道や四国遍路をしてみたいとのこと。今回は,観光がてら車で周りながら、様子見に来たと教えてくれた。つい調子に乗って、自分のお遍路経験やこれからの歩きをべらべらしゃべってしまった。本当に歩き通せるかどうか、何も見えていないのに。ただ、自分と同じような目標を持ってる人っているもんだなあとうれしくなった。

季節のたより98 ラショウモンカズラ

  シソ科で最も大きい花  羅生門の鬼伝説が名の由来

 野原に緑が広がってきました。植物のなかには、花の名前はわからないけれど、何の仲間かわかりやすいものが、かなりあります。茎が四角形で、葉が向かい合ってついている(対生)なら、たいていシソ科です。その花が唇型をした筒状の花であるなら、間違いなくシソ科といっていいでしょう。
 春先の野原で青紫色の大型の唇形の花が咲くつる草に出会ったら、ラショウモンカズラです。背丈のわりにこんなに大きな花を咲かせるものはあまりなく、群生しているならなおさらで、一本でも存在感がありすぐ目にとびこんできます。


         草むらに咲き出したラショウモンカズラの花

 ラショウモンカズラはシソ科ラショウモンカズラ属の多年草。本州、四国及び九州に分布、やや明るく、多少湿気のある林内や林縁、渓流沿いなどに自生しています。4~5月に鮮やかな赤紫色から青紫色の大きな花を横向きに咲かせます。

 江戸時代の文献によると、古名はチョウが舞うような花の形から瑠璃蝶草(ルリチョウソウ)という名でもよばれていました。それ以前の記録はなく、古代より知られていた植物であるかどうかはわかっていません。
 ラショウモン(羅生門)の名が出てくるのは、江戸中期の百科事典「和漢三才図会」(1713年頃、寺島良安編)(下左図)です。同じく江戸時代の中期の大阪で活躍した狩野派の町絵師の橘 保国(たちばな やすくに)の「画本野山草」(1755)には「羅生門」という名で、絵(下中の図)が残されています。

   
 「和漢三才図絵」     「画本野山草」の絵       下から見上げた花の姿

 ところで、この「ラショウモンカズラ」という和名ですが、すごい名前をつけたものです。「花おりおり」(湯浅浩史・文・朝日新聞社)では、「現代人には思いも寄らない発想の命名平安時代の中頃、都の羅生門に棲む鬼を渡辺綱が退治。切り落とされて腕と、本種の毛が生えた太い花筒が結びつけられた。」と紹介しています。

 羅生門は、もとは「羅城門」(らじょうもん、らせいもん)といい、雀大路にある平安京の正門として設けられた門です。いつ建造されたかは不明で、文献では建造後の弘仁7(816)年に大風で倒壊、その後再建されたものの、天元3(980)年にまた暴風雨で倒壊するなど、2度の災害に見舞われています。以降、再建されることはなくやがて荒廃、芥川龍之介の「羅生門」に描かれているように、楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられ、様々な鬼や妖怪が出る場所となったとされています。

 
   上からながめる花の姿          横から見た花の姿

 ラショウモンカズラの名の由来となる羅生門の鬼退治の話は、鎌倉時代に記された軍記「平家物語」(剣の巻)の「一条戻橋」の鬼の話がもとになっています。いろいろな話が形を変えて語り伝えられていますが、そのなかで室町時代謡曲羅生門」での話は次のようなものです。

 平安時代の後半。大江山の鬼退治を終えた武将・源頼光がその家来である藤原保昌渡辺綱らを招いて酒宴を張っていた。宴もたけなわになったときだった。
 頼光は一同に向って、近頃都で面白い話はないかと尋ねると、保昌が何気なく「羅城門に鬼がいる」と言い出す。これに対して「王城に近い羅生門に鬼が住むはずがない」と渡辺綱が反論して口論となった。
 ならば「確かめよ」との言葉に、綱は頼光から証拠の札を賜り、一人羅生門に向かった。雨風凄まじく、羅生門の石段にあがって 札を置いて帰ろうとする刹那、鬼が現れ、綱はその腕をバサリと切り落とす。鬼は「時節を待ちて又取るべし」の一言を残して、黒雲に隠れ去っていった。 (宝生流謡曲羅生門」より)

 謡曲羅生門」は、ここで話が終わりですが、その後日談が、歌舞伎「茨木」(河竹黙阿弥作)で次のように展開されていきます。(歌舞伎では、鬼の名は大江山の鬼の頭領である酒呑童子の手下の茨木童子ということになっています。)

 羅生門で鬼の片腕を切り落とした渡辺綱は、陰陽師の占いにより鬼は必ず腕(かいな)を取り返しに来るというので、鬼の腕は唐櫃にしっかりとしまい込み、7日間は物忌のために館にこもって誰とも会わずに過ごした。
 その最後の夜に、綱の叔母と称する老婆が訪ねて来て、鬼の腕を見せてくれるように懇願する。育ての親のような叔母の頼みに、綱もつい心が緩み、鬼の腕を箱から取り出して見せると、突如老婆が鬼の姿になってそれをつかみ、「これは吾が手なれば取るぞよ」と叫んで、虚空へ飛び去っていった。(歌舞伎舞踊「茨木」)

 この話は小さい頃、少年雑誌のこども向けの文章でドキドキしながら読んだことを覚えています。調べてみると、「日本童話宝玉集・日本の英雄伝説講談社学術文庫」におさめられている「羅生門」の話でした。作者は、編集者、児童文学者で、主に大正から昭和の戦後初期にかけて活動した楠山正雄(くすやま まさお)です。現在、電子図書館青空文庫」で読むことができます。

 ラショウモンカズラは、青紫色の太い筒状の花を突き出すように咲かせます。派手な模様や毛のはえた花筒を、即座に切り取られた鬼の腕に見たてて想像できた人は、よほど謡曲や歌舞伎に心覚えのある人だったのでしょう。

 
     鬼の腕を連想させる横向きの花      羅生門の鬼の図・鳥山石燕
                           「今昔鬼拾遺」(1781年)より 

 鬼の腕を連想させたこの花の姿ですが、花の形、向き、大きさは、花粉の運び手であるマルハナバチに合わせて共進化したものといわれています。

 ラショウモンカズラの花は、正面から見ると上下の花びらが唇のような形をしているので、唇形花(しんけいか)と呼ばれています。鮮やかな青紫色をした上唇の部分をよく見ると、先端が二つにさけた雌しべが1本と、雄しべが4本、隠れるようについています。下唇側の部分は、白地に紫色の斑点があって、その奥にあご髭のような長い毛がついています。花は大きく口を開いて虫たちを誘っています。

 
  口を開いて虫を待ちます。   上唇側に雌しべ1本、雄しべ4本、見えます。

 マルハナバチがやって来ると、下唇はプラットフォームのような着地場所になります。長い毛は足のすべり止めで、斑点は奥にある蜜のありかを知らせているのでしょう。マルハナバチが蜜を求めて花の奥にもぐりこむと、上唇にある雄しべが下りてきて、長い毛の生えたハチの体中に花粉をつけるしくみになっています。
 筒状の花はマルハナバチがすっぽり入るサイズです。マルハナバチの口(中舌)は蜜を取り出しやすいようにストロー状で、普段飛んでいるときなどはあごの下に収めていますが、花を訪れるときは突き出すようにして花の奥に差し入れ蜜を吸います。蜜を得て飛び出すときは、花粉まみれで、その体で別の花を訪れては、ラショウモンカズラの受粉の手助けをするのです。

 
  下唇はプラットフォーム    花の奥に潜り込もうとしているマルハナバチ

 ホトケノザ(季節のたより50)ヒメオドリコソウ(季節のたより69)の受粉のときも同じようなしくみでした。シソ科の花の唇形花は、細長い筒状の花に潜り込んだハチの背中にうまく花粉をつけてしまうしくみになっています。

 ラショウモンカズラはどんな種子ができるのか、枯れた花殻のなかを探して見たのですが、うまく確認できませんでした。図鑑類を調べても種子の情報があまりなく、種子で増える姿を記録したものは見つかりません。
 増え方を見ていると、花を咲かせる茎とは別の茎が伸びていて、花が終わると地面に這うように勢いよく伸びて増えていくようです。

   
ツルの茎(左)と花の茎(右)  ツルの先     ツルから新しい株ができます。

 フウセンカズラスイカズラテイカカズラなど、名前に「カズラ」のついた植物は数多くありますが、「カズラ」はつる植物の総称を意味しています。その語源をたどると「上代つる草を髪に結んだり、巻きつけたりして頭の飾りとし、これを 鬘(かずら)といった。そのためつる草を〈かずら〉と称するようになったという。」(平凡社『世界大百科事典』)とありました。
 多くのつる植物のツルは、自らの茎や幹で体を支えられないので、他の樹木やものにまきつき、光を求めてより高いところへ茎を伸ばす役目をしていますが、ラショウモンカズラのツルは、違う役目をしています。
 ラショウモンカズラのツルになる茎は、走出枝(そうしゅつし)といい、ランナーとも呼ばれるものです。巻きつくことはせずに、横に地を這うように伸びていき、地面に着くと、そこから芽が出て新たな株をつくります。ラショウモンカズラのツルはランナーとなって親から離れたところで根と芽を出し、栄養繁殖で仲間を増やす役目をしているのです。同じようにランナーをのばして仲間を増やしている植物は、ヘビイチゴシロツメクサカタバミユキノシタなど野にたくさん見られます。

 ラショウモンカズラは、冬になると葉はすべて枯れてしまいます。根は地下に残っていて休眠し、春になると再び芽吹いて成長し花を咲かせます。

 
 階段状につぼみをつけます。    つぼみは握りこぶしのようです。


           ラショウモンカズラの群落地の花

 シソ科の植物は花だけでなく全体に香りを持っています。植物の花の匂いは虫たちを誘い、茎や葉などの匂いは虫や動物たちの食害から身を守る役目をしています。シソ科の花はどちらの役目もしているようです。
 シソ科の植物のなかで、特にシソはその香りの良さで、葉だけでなく、穂、実などが料理に利用されています。春の野に咲くシソ科の仲間で、ホトケノザはシソに似た香りがします。ヒメオドリコソウはちょっと青臭く苦手な人もいるでしょう。カキドオシは揉むとシソのようなミントのような香りで、和ハーブとしても料理に利用されています。
 さて、ラショウモンカズラはどうでしょうか。その名から毒草のように警戒する人もいますが、全く毒性はありません。その匂いはといえば、意外や意外、レモンに近い爽やかな香りなのです。もし、ラショウモンカズラの命名の前に、この香りに着目する命名者がいたなら、別のユニークな名がついていたかもしれませんね。(千)

◇昨年4月の「季節のたより」紹介の草花

《 山本由美さん講演会 》開催のお知らせ

 民主教育をすすめる宮城の会が、ゴールデンウイーク初日の4月29日(金・祝)に総会と記念講演を行います。
 今回の記念講演は、教育行政学、教育制度を専門としている和光大学の山本由美さんにおいでいただきます。学力テスト体制のもとでの教育課程の押し付けや英語や道徳の教科化、GIGAスクール構想によるICT教育の推進、さらには地域の学校が学校統廃合されるなど、これまでの教育や学校のあり方が大きく変わろうとしています。原点に立ち返って子どもや地域にとって学校、そして教育とは何かを考えます。
 コロナ禍で不自由な生活は続きますが、みんなで考えましょう。ぜひご参加ください。

【記念講演】
 今、子ども、地域にとって学校とは?
   ~教育課程押し付け、学力テスト、学校統廃合でよいの?~

  ◆日 時:2022年4月29日(金・祝)14:00~
  ◆場 所:フォレスト仙台2F 第7会議室

  ◆講 師:山本由美さん和光大学 教授)

 ※ 参加方法は、会場参加とオンライン参加の併用となります。
   オンライン(ZOOM)参加を希望される方は、下記までご連絡ください。
    ☎ 022-234-4161(民主教育をすすめる宮城の会)     

   

プーチンのウクライナ侵略と日本、そして教育は何をすべきか

 いつ収束するか未だにわからないコロナ禍。収束どころかウイルスの方はどんどん進化している。ウイルスは変化しているのに、最初のウイルスのために作ったワクチンを接種することへの疑問もわき上がる。そのような鬱積した毎日に、さらに拍車をかけるかのようなニュースが飛び込んできたのは、2ヶ月前になろうとする2月24日のニュース。
 ロシアのプーチンが一方的にウクライナを侵略したという報道である。
 以後、今もウクライナ各地の空港や軍本部が攻撃され、続いて戦車や部隊が侵攻し、一般市民も殺される毎日が続いている。プーチンはこの攻撃を「戦争」とも「侵攻」とも呼ぼうとしない。大統領による正当化の理屈は、ほとんどが事実と異なるか、非合理といってもいいものだ。

 連日のニュースをテレビ・新聞でみながら、私は、あの頃の日本と同じだと思った。あの頃というのは、私が生まれる前の日本。つまり満州事変から日中戦争、太平洋戦争、第2次世界大戦へ突き進んだ日本だ。私は戦後派だから、それを学び知ったのは、今は亡き父母・祖母からの話、そしてもちろん『教育』によるものだ。ロシアの国営テレビは連日のようなプロパガンダで、これも当時の日本の大本営発表とまったく同じである。
 そんなロシアの国営テレビで3月14日、『事件』が起きた。夜の生放送のニュース番組中に「戦争をやめて。プロパガンダ(政治宣伝)を信じないで」との紙を掲げた女性が登場し、画面が切り替えられる放送事故があった。女性は、キャスターがニュースを読み上げている最中に画面に登場し、反戦を訴える紙を掲げ、「戦争をやめて」と叫んだ。キャスターも驚くこともなく、淡々と放送を続けていた。恐らくこのような行動をすることを知っていたのだろう。

 この場面をみて、私は長年続けている新聞のあるスクラップを探した。それは2017年8月15日付の河北新報の社説だ。見出しは『8月15日』。そして社説の中央に大きな文字で『言論の大切さを訴えたい』とある。「『手前みそだ』との批判を覚悟して紹介したいことがある」ではじまる以下、その一部を抜いて書き写す。

 終戦が迫った1945年(昭和20)年8月11、13日に、河北新報は「偽龍を愛し真龍を恐る」「戦争目的の真諦」と題する社説を掲げた。<中略>「戦争目的…」では、「最後まで戦ふ」ということを論じた後、「(勝つという意味の中には)相手から物をとる事にばかりあるのではなく、自ら多くの物を失ふことにもある。要は人類文化をそれを通じて、より高め、より聖めることにある」と結ぶ。戦争の早期終結を訴えたものだ。<中略>社と論説陣が「決意と覚悟」のもとに論陣を張ったものだったろう。  社説を執筆した編集局長寺田利和は軍部の圧力にもかかわらず、筆を曲げることなく辞表を提出。社は慰留したが、以来出社しなかったとされる。<略>
     戦争が始まると、言論が真っ先に統制されるのは歴史が示している。
     言論の自由は、与えられるものではなく、勝ち取っていくものだろう。言論を日々訓練し、非戦の力を蓄積しておくことは、平和なときこそ重要だ。きょうの日を、一人一人が非戦を深化させる日にしたい。 

 そして、3月14日のあの女性スタッフのあと、「決意と覚悟」をもったジャーナリストがロシアから出現することを願っている。『ペンは剣よりも強し』だ。今、ロシアのプーチンがもっとも恐れているのは、ロシア国内世論に違いない。
 一方、これはロシアに限ったことではない。ウクライナ報道の中に紛れ込むように、そして今がチャンスとばかりに、日本でも、やれ「敵基地攻撃だ」、やれ「核の共有が必要だ」、やれ「憲法改正だ」と声を張り上げている勢力がいる。その上に反戦デモや反戦報道を敵視するという防衛省資料がでてきた。これを止めるのも、日本の国民世論が最大の力になる。

 今朝(4/22)の報道によると、「敵基地攻撃能力」が国民の受けが良くないと感じたのか、「反撃能力」と改称した提言書にしたらしい。内容も、「ミサイル基地に限定されるものではなく、相手国の指揮統制機能等も含む」というのだから恐ろしい。  

 大きく話はそれるが、第2次世界大戦後の1950年、我が国で一冊の教育雑誌(月刊)が刊行された。『教師の友』である。今、私の手元にあるのはその復刻版だが、その創刊号の巻頭論文を、私たちの、このセンターでも大変お世話になった太田堯さんが『平和のための教師の仕事』のタイトルで寄稿している。こちらも冒頭と結びの部分を紹介したい。

 平和は私たち大人、それに子どもたちの日々の生き方にかかっている。
 教師が毎日とり組んでいるしごとは、そのことごとくが子どもたちをどう生かすかという問題である。どんな小さいことがらであっても、教師のしごとは、この子どもたちの生かし方への工夫と配慮をめぐって実践され処理することをたてまえとする。<略> こうした生きることのむずかしさは、現代社会のしくみそのものの中に不可分一体のものとしてくいこんでいる。経済恐慌、たえまなき戦争への直面によって、その頂点に達する。<中略>
    戦争の危機は、いまひしひしと私たちのまわりに迫ってきている。教師は団結して平和を国民に訴えるとともに、日々のしごとを平和と結びつけるための建設的な作業として、地味に一歩一歩つみ上げることが急務である。戦争は空気のように私たちのまわりにあるのだから。

※ この文は4月20日に書いたものだが、「敵基地攻撃能力」を巡って新しい情報
 が入り、22日に加筆し直したものです。<仁>                    

松下竜一さんに出会って ~ オレは幸せ者5 ~

 手元にある『豆腐屋の四季―ある青春の記録』(松下竜一著)は文庫本なので、私が読んだのは1983年ということになるのだろうか、もっと前に読んだように思っていたが。著者年譜によると、31歳の1968年に自費出版、翌年講談社より公刊とあるので、私は世に出てから15年後に読んだことになる。朝日歌壇などに投稿した短歌を中心にしたエッセー集。この中に、「運動会」と題する見開き2ページの文がある。

 寝る前のひと時、とこに座って妻が折る紙鶴の音が、夜ごとひそやかに聞こえる。千羽を越えてなお続ける。一羽一羽に妻はどんな願いを折りこめているのか。ねえお前、生まれてくる子がどうか人並みに走れる子でありますようにと祈りつつ今夜の鶴を折ってくれよと、私は妻に言う。
 ひどく運動神経のにぶい私は、殊に徒競走が異常なほどのろかった。そんな私にとって秋晴れの運動会がどんなに辛かったことか。前夜、いつも私は神様に雨をお願いして眠れぬ床にもぐりこんだ。願いもむなしくカラリと晴れた朝、私は暗い暗い気持ちで登校するのだった。全校の児童、父母の見守るなかで、私は必死に走るのだったが、いつもただひとり運動場を半周もとり残された。歯を食いしばって走りつつ、ゴールは果てしなく遠い思いだった。(中略)
 四年生の日、私はとうとう団体競技を前に裏門から逃げ出した。ひとりでズンズンと海辺まで行くつもりだった。「竜一ちゃん」とうしろから呼ぶ声がした。ふりむくと母だ。母は私の小さな胸うちの秘めた悩みを見抜いて、たぶん私から目を離さなかったのだろう。私はワッと悲しみを爆発させて母に泣きついた。あの日、あの畦道の熟れた稲の香を今も忘れぬ。私は母に慰められて競技に戻っていった。私の組は私ゆえに負け、私は級友からさんざんにののしられた。だが、あのとき私を追ってきた母ゆえに、とうとう小学校の六年間、私は運動会から逃げ出す卑怯をせずにすんだ。(後略)

 読む私の中で、運動会でいつも後方を走る数人のクラスの子どもたちがすぐ頭に浮かび、過去の子どもたちの同様の姿も次々に浮かんできた。どの子たちも、竜一少年と同じような思いをしつづけたのだろう。そして、その子たちの母親たちも、会場から出る竜一少年をすぐ追いかけるような気配りをしながら毎年運動会に参加していたのだろうことを思い、長い間、そこまで思うことなくワーワーと騒いできた自分を恥じた。

 かつて、中学3年を担任していた時、隣の組の女子数人が運動会の近づいた時、「徒競走反対」と書いたビラを校内のそちこちに貼ったことがあった。それを目にした私は、「なかなかやるじゃない!」と彼女らに言ったことがあったが、そう言った私と彼女たちとの間に相当な距離があったこともこの時思った。
 竜一少年と母親の「運動会」を知ってから私は、運動会の種目を職員全体で考えることは容易にできそうにないが、せめて今のクラスの子どもたち全員に、「オレは走ったぞ!」と思わせることはできないかを考え始めた。とは言いながら、そう簡単にアイデアは浮かばなかった。

 それから数年後になるだろうか、4年生担任のとき、徒競走ではなく、私のクラスだけのグループ対抗リレーをやってみることにした。教室でのグループ〈班〉は時々変えるが、男女混合でいつも私の一存で決めていた。
 ある体育の時間、私は、「今日はグループ対抗のリレーをやる。2人で校庭1周、グループ6人だから3周のリレーになる。特別のきまりを一つだけつくる。それは、ひとりは4分の1周以上は必ず走り、ひとりは最大4分の3周まで走っていい。力はいろいろ違うから、どうするかをグループ内で十分話し合うように。距離が違えば、バトンタッチの場所もいろいろ違ってくるだろうから、図を書いてそれぞれの場所と順番をよく確かめたほうがいい。」と言った。

 どのグループも私の予想以上に熱心に話し合い、話し合いが終わるとどの子も張り切って自分のスタートする場に移動した。見事にバラバラだった。
 3周のリレーはあっという間に終わった。すると、いくつかのグループから「もう1回やりたい」と言ってきたのだ。その中には、なんと足の速くない A や B も入っていて、「もう一回!」「もう一回!」と言っている。どのグループも前よりいっそう真剣に話し合った。その様子を私は内心うれしく眺めていた。
 その後にあった学校全体の授業参観日に、このリレーを母親たちに見てもらおうと思い、その日の親の集合場所を校庭とし、残りの時間は教室でという不規則な時間設定の案内をした。リレーについての感想をとくに話してもらうことはしなかったが、私にとっては十分満足な参観日になった。

 その後の体育の時間の準備運動は、グループごとにランニングを自由にさせるようにした。毎時間、先頭を交代制にし、どこをどう走ってもいいが、必ずグループの先頭者の走るように一列で走ることにした。その案もしだいに見ていておもしろくなってきた。遊具などもコースに入り、できない仲間がいると手伝って、出発時の並びでもどってきた。ただグランドを1周するだけで帰ってきていたグループもコースを様々に変えるようになっていった。私は、何も言わずにそれぞれの様子を眺めて喜んでいた。

 松下さんの『豆腐屋の四季』によって、私の体育の授業観を変えていただいたと思っているが、体育だけでなく、九州の松下さんに一度もお会いすることはなかったが、私の生き方にまで大きな刺激をあたえていただいたと思っている。

 松下さんは、33歳のとき豆腐屋を廃業、同時に作歌もやめ、以後地域の運動にかかわっていく。私は、松下さんの発行する豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会の機関誌、「環境権確立に向けて」とサブタイトルをつけた「草の根通信」〈月刊〉の読者になった。
 松下さんからは、年会費を送金するたびに、礼状をいただいた。会員全員に松下さんひとりで書いたようだ。
 今、手元に残るもっとも古いハガキには、「御送金、ありがとうございました。伊藤ルイさんが亡くなられて,慌ただしい数日をすごしました。寂しさは、これからおいおい迫ってくるものでしょう。」と書かれてあった。伊藤ルイさんは大杉栄伊藤野枝さんの娘さんである。松下さんによって『ルイズー父に貰いし名は』の書名でその半生の記が出版されている。
 いただいた礼状は、次回からは封書になった。以下はその一例である。

 お 礼

 「草の根通信」へのご送金5000円をいただきました。ありがとうございます。不況の風 吹き荒れる中からの御送金だと思うと、感ひとしおです。
 今年は久々に喀血入院をしましたが、それでも通信発行がとだえなかったことはさいわいでした。ひょっとしたら毎月発行しなければならないという緊張感が、私の身体をかろうじて支えているのかもしれません。
 いまも咳に悩まされていますし、右肺の炎症感が消えることもありません。(二十日ほど前、痰に薄く血が混じり始めて、又喀血の予兆かとギクリとしたのですが、さいわい二日で消えました)
 裁判などで福岡市へ行くことが多いのですが、地下鉄の階段を登り終えるところでしゃがみこみたくなるほどの呼吸困難に襲われます。
 それでもまだ動き回れることに、感謝しなければならないのでしょう。(以下略)

 「草の根通信」は30年間つづき、2004年、松下さんの死によって380号で終刊になった。最後の方の通信編集は病院のベットの上が多くなっていったようだ・・・。