mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

年頭のご挨拶

 皆さま、新年、明けましておめでとうございます。

 昨年は、2月末から年末まで、学校教育はコロナ禍で大変翻弄されてきました。当研究センターでは、その「コロナと教育」の状況について、つうしん会員の皆さまはじめ、多くの県内教職員の皆さまのご協力の下、2度のアンケート調査を実施しました。

 1度目は、3ヶ月間の一斉休校から学校再開された6月初旬に、2度目は、学校再開後4ヶ月余り経過した10月初旬に、行ったものでした。どちらも、単純集計に基づく中間報告は行っていますが、まだ最終報告には至っていません。でも、中間報告から言えることは、このコロナ禍を期に、これまでの学校教育は大きく改変させられようとしていることです。今回の調査からも、子どもたちの健康や心身の発達上の気がかり、関係性や生活上の気がかり、学校教育の在り方が大きく変質しかねないことへの心配、等が出されています。

 ここでは、具体的に述べられませんが、日本の教育政策はコロナ問題を理由に大きく舵を取り、GIGA(Global and Innovation Gatway for All)スクール構想を推進する実現本部を設け、日本の全児童にタブレットを配布する予算を計上しました。経済産業省文科省を超えて、世界の経済競争に打ち勝つ戦略丸出しの人材養成機関としての学校論を打ち出したのです。文科省はその路線に乗りながらも、これまでの教育も全否定しませんよと唐突に「令和時代の日本型教育」なる中間まとめ(昨年10月)を打ち出しました。
 GIGAスクール構想による教育のICTの推進(個別最適化の教育)と日本型教育の奇妙な組み合わせによる教育政策が性急に推進されはじめられています。

 私たちみやぎ教育文化研究センターでは、新年早々からしっかりこの動向を見つめ、子どもたちにとって、また日本の行く末にとって望ましい方向なのかどうかをよく検討し、問題の共有をしていく必要があると思っています。

 皆さまの本年のご協力を切に願い、新年の挨拶とさせていただきます。

         (みやぎ教育文化研究センター 代表運営委員 数見隆生)

師走にて ヒロシマのうた 思うとき 走りゆくよ わが妄想列車

  前回のdiary のなかで、千葉さんは「ヒロシマのうた」の物語を根底で支え、突き動かしているのは、小さいミーちゃん(ヒロ子ちゃん)の命を必死に守ろうとして亡くなったお母さんではないかと語った。改めてその視点から作品を見なおすと、個々の表現の意味するところが鮮明にみえてくる気がした。さすが千葉さんだと思う一方で、待てよ待てよというアマノジャク的精神が私を呼び止める。本当にそうだろうか? そうして勝手気ままな、そして自由な私の妄想列車が走り出した。

 赤ん坊やこどもという存在は不思議だ。町なかに一人ポツンと立っていれば、「大丈夫、お母さんは?」などと声をかけたくなる。泣いていれば「どうしたの?」と声をかけ、場合によってはその子に寄り添ったりもする。赤ん坊や子どもは、そこにいるだけで人を惹きつける。それは、そもそも子どもが無力で、一人では生きていけないからなのかもしれない。でも、その無力が人を惹きつけるとしたら、それはまた一つの存在論的能力ではないだろうか。無力であるがゆえに《私を守れ、守ってくれ》と訴えかける存在として。子どもは守られるだけの受動的存在ではないのではないか。そんな想念が湧いてきて、「ヒロシマのうた」でのミーちゃん(ヒロ子ちゃん)とお母さんの関係が気になり始めた。

 作品は確かに、瀕死の重傷を負いながらも「ミーちゃん、ミーちゃん、あんた、ミ子ちゃんよねえ。」と声をかけ顔や頭を撫でながら、小さな命のミーちゃん(ヒロ子ちゃん)を必死に守ろうとする母親の姿が描かれている。でも、アマノジャク的精神でこの作品を眺めてみると、今までは気にもかけなかった次の箇所に目がとまった。

「ミーちゃん、ミーちゃん。」
と呼ぶのをやめたかと思うと、お母さんは、こんこんとねむりこんでしまいました。、赤んぼうが泣き始めました。、また、お母さんが呼ぶ。お母さんは、だんだん気が遠くなっていくようでした。

 母親が眠り込む--赤んぼうが泣き始める。赤んぼうが泣き始める--母親が赤んぼうの名を呼ぶ。この親子の呼応関係をつなぐ「と」が。ここには、守られるべき存在としての「赤んぼう」だけではない、もう一つの赤んぼうの姿が見えてこないだろうか。瀕死の重傷を負い、すでに死の淵に立ち、死の世界へと引きずり込まれようとしている母親に、赤んぼうが母親にこの世界に留まれ、そして「私を守れ、守ってくれ」と呼びかけてやまない姿が。残念ながら母親は、その赤ん坊の望みに応えることができずに亡くなっていく。そして赤ん坊は、母親をこの共に生きる世界に引き留めることができなかったという無念さと、自らの存在そのものの無力さという、二重の思いのなかで《それまでにない大声で泣き続ける》のだった。そんなことを「ヒロシマのうた」の学習会を通して、ひとり想像した。
 一先ず、今年の妄想はこのへんで。続きは、年明けの学習会でと思っている。

 ちなみに年明けの学習会は、1月7日(木)18時半~ 研究センター です。
 もう「ヒロシマのうた」の授業は終わってしまったという人も遠慮せず、ぜひご参加ください。お待ちしております。
 みなさん、よいお年をお迎えください。そして来年もよろしくお願いします。(キヨ)

季節のたより66 ヒヨドリジョウゴ

  野鳥が運ぶ紅い実 都会の片隅にも育つ野草

 この野草の紅い実を見たのは、師走の仙台駅の東口。家電量販店の駐車場の片隅でした。わずかに土の残った空地に、野鳥が運んだ種子が育ったのでしょうか。そこで芽を出し、抜き取られずに育って、伸ばしたつるが近くの電柱に高くまきつき、その先にたくさんの紅い実をつけていました。
 小雪ちらつく街のなか、ふり向く人は誰もなく、紅い実はぬれてルビーのように光っていました。調べたら、ヒヨドリジョウゴという不思議な名の植物でした。

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          冬に目立つ  ヒヨドリジョウゴの紅い実

 奇妙な名前の「ヒヨドリジョウゴ」は、漢字で書くと「鵯上戸」。上戸とは、お酒に強い人のことで、酔っぱらうと出る癖のある人を「笑い上戸」「泣き上戸」とよくいいますが、ここでは、鳥の名前をつけて「鵯上戸」。その由来は赤く酔ったような赤い実を、ヒヨドリ(鵯)が好んで食べるからだそうです。多くの図鑑でそう説明されていて、出どころは「和漢三才図会」(1713年、寺島良安編)の記述がもとのようです。

 変わった名前なのですぐ覚えられ、とたんに同じ紅い実が急に目に入ってくるようになりました。住宅地の庭や垣根だったり、道端や野原だったり、丘陵帯の林縁部などの広い範囲に、ごく普通に見られることに気がつきました。
 ヒヨドリが好物だというのですが、そのヒヨドリが特別に群がる様子は見られませんでした。たくさんつけている紅い実は、食べつくされることはなく、冬遅くまで残っていました。

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       冬、遅くまで残る実         雪野原に落ちていることも。

 ヒヨドリは、かつて秋には朝鮮半島などから日本へ渡って越冬し、春に帰っていく「渡り鳥」でした。しかし近年は、日本の環境に適応したのか、1年をとおして国内で姿を見せる「留鳥」となっているようです。
 ヒヨドリは、カラスと似て雑食で、冬の時期は餌を求めて飛び回っています。サザンカやツバキ、ウメの花の蜜を求めてやってきます。ミカン、リンゴなどの果実も食べますが、野山での主な食べ物は、草や木の実です。ヒヨドリは実を丸のみし、消化されない種子をフンと一緒に排出するので、実をつける草木たちの分布を広げるのに役立っています。

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   冬の餌台にやってきたヒヨドリ        森ではイイギリの実を食べています。

 ヒヨドリの集まる木や草を見ていると、ガマズミ、ナナカマド、イイギリ、ピラカンサ、ツルリンドウ、サルトリイバラなど、その種類は広範囲です。共通しているのは、紅い実が多いこと。もちろん、ヒヨドリジョウゴにも集まっていますが、ことさら、ヒヨドリジョウゴの実が大好きというようには見えないのです。

 「ヒヨドリジョウゴ」と名づけたその人は、たまたま、この紅い実にヒヨドリの群がる光景を見たのでしょう。とっさにひらめいたのが、このネーミング。この発想は、そう簡単には出てきません。きっと、おのれなのか、同僚なのか、かなりの上戸(吞兵衛)がいたのでしょうね。
ヒヨドリジョウゴ」の命名以来、その名は独り歩きをし、この紅い実はヒヨドリの特別好きな実という誤解を広げてしまったようです。
 こどもたちに名前を聞かれることがあったなら、「名前はそうだけど、自分の目で確かめて」と話した方がいいでしょう。

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   下の葉はアサガオの葉に似ている。   冬、葉と茎は枯れ、赤い実が目立つ。

 ヒヨドリジョウゴは、ナス科ナス属の多年草のつる植物です。日本のほぼ全域と朝鮮半島、中国大陸に分布しているそうです。
 どんな花を咲かせるのか、見たいと思っていました。夏の東北民教研で、花巻温泉を訪れたときでした。図鑑で見ていた花を見つけたのです。やはり駐車場わきの片隅でした。細い樹木に巻きついて花を咲かせていました。
 下の葉は、アサガオのような切れ込みがあって、上の葉になるにつれて切れ込みは少なくなっています。つるになった茎は、腺毛があってやや粘つき、樹木に寄りかかるように巻きついています。細長い茎はよく分枝し、その茎から花の茎が垂れ下がるように出て、2又から2又へと何段階か枝分かれしています。その先にいくつも下がっていたのが、直径が1cm程度の白い花でした。

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  ヒヨドリジョウゴの花姿    細い枝は分岐して、その先に花をつけます

 白い花は、5枚の花びらが根元で一つになっている合弁花です。ぐっと後ろにそり返っていて、追羽根に見えたり、バトミントンの羽に見えたりします。中心から突き出ているのが雌しべ。そのまわりを束になって、5本の雄しべがとり囲んでいます。
 白い花をさわやかに見せているのは、花の中心を囲んでいる緑色の斑点です。この斑点は、アケボノソウでは蜜を出す蜜腺でした。ヒヨドリジョウゴの花は、蜜を出さないので、白い花を目立たせる役目をしているのでしょうか。

 蜜の出さない花に昆虫たちがやってくるのかと心配になりますが、ハナアブ類は主に花粉食なのです。ナス属の花は、ハナアブ類を受粉のパートナーにしているので、蜜を必要としないのでしょう。
 ハナバチ類が花にやってきて、羽根を震わせると、ナス属の花は、その振動に雄しべが共振して震え、雄しべの葯の先から花粉が吹き出してくるのだそうです。ハナバチは花粉を得ると同時に、花粉まみれになって、そのまま別の花に花粉を運んでいきます。ヒヨドリジョウゴの花も同じしくみで受粉しているのでしょう。
 ハチの羽音に共振し、花粉が噴き出す瞬間を見たいものですが、まだ見ることができないでいます。

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   一株で、つぼみ、開いた花、受粉を終えた花が 同時に見られます。

 花の受粉が終わると、緑の清々しい感じの実が目立ってきます。秋が深まるにつれ、この実は真っ赤に熟してつやつやしてきます。透明感がありミニトマトにも似てとても美味そうですが、この実には、ジャガイモの芽と同じソラニンという毒性物質を含んでいます。食べるのは危険なので、口にしないでください。毒性は、実だけでなく、葉や茎、根も含まれていて、漢方の生薬として用いられています。

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    花の後にできる  緑色の実         熟した実は美味しそう、でも・・・

 ヒヨドリジョウゴは、古い文献にその名はなく、文学に登場するのは昭和期になってからのこと。古人の興味をひく野草ではなかったようです。
 この花や実に特別の思い入れを持った文学者がいました。
 一人は歌人斎藤茂吉です。子規の33回忌に詠んだとされ、歌集「白桃(1942)」にのっている歌があります。

 ここに来て ひよどりじゃうごといふ花を われは愛でつと 人は知らなく

 もう一人は、明治末から昭和にかけて活躍した作家の佐藤春夫です。
 彼は、「慵斎雑話(ようさいざつわ)」という随筆集の、「秋新七種(ななくさ)」と題した文で、「ひとりの人間が一個の好みから、七様の変化と調和とを見せた好みに執した七草の選擇もあってよからうと思ふ」とし、山上憶良による万葉歌「秋の七種」にならい、「からすうり  ひよどり上戸  あかまんま かがり  つりがね  のぎく  みずひき」と自選の「秋の七種」を詠っています。 このなかの「ひよどり上戸」にふれて、次のように書いています。

 その実物を知って名称を知らぬ人や或いは名を知って実をしらぬ人も多からうか。花はごく微小な白花が仄かに群れて晩秋に咲く蔓草である。花が散ると直ぐ後から青い小さな実をつけやがてその実が赤くなって、雪の降る頃に紅い実になる。雪中で南天よりも美しい。        (「慵斎雑話」千歳書房・1943年)

 あまり知られることのなかったヒヨドリジョウゴを、茂吉は花に、春夫は紅い実に、その魅力を独自の感性で見出しているところに興味をひかれます。

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    冬遅くまで残り、小鳥に食べられず、地面に落ちてしまうものもあります。

 ヒヨドリジョウゴは、本来は山野に自生する野生植物です。ところが、出会った場所は、都会や温泉地の駐車場の片隅でした。意外な場所と思われますが、野生植物が都会のど真ん中で生きているということはそれほど珍しいことではないのです。
 かねてから、ツイッターで植物や種子の名前や豆知識などを教えてくれて人気の「やけに植物に詳しい悟空」さん。「中の人」(悟空を演じていた人)は、樹木医さんでした。彼の新刊書のプロローグの一節です。

 124。これ、なんの数字だと思いますか? これは僕が新宿駅南口から1時間ほど歩き回って見つけた、野生植物の数です。街路樹や花壇のお花のような人が植えたものを除き、勝手に生えてきた、いわゆる「雑草」と呼ばれるような植物だけを数えました。(略)コンクリートジャングルという言葉がふさわしい大都会にも、これだけの植物が生えています。もちろん、もっと広い範囲を念入りに探せば、新宿だけでも何百種類もの植物が見つかることでしょう。(瀬尾 一樹 著『やけに植物に詳しい僕の街のスキマ植物図鑑』大和書房 2020・12)

 人間は自然を制覇したかのように、文明を築き、コンクリートのジャングルを形成して暮らしていますが、その住処を巧みに利用して適応しながら野生植物たちは生きているようです。そのように生きられるのは、いのちを生かし次の世代に引き継ごうとする「いのち」の論理に徹しているからでしょう。植物にかぎらず、自然の生きものたちはみな同じです。どうも、「いのち」より「経済」の論理を優先させているのは、人間だけのようです。この地上に最後まで生き残れるのはどちらでしょうね。(千)

◇昨年12月の「季節のたより」紹介の草花 

『ヒロシマのうた』の学習会を振り返って思う

 11月末の「こくご講座」、続く「国語なやんでるた~る」では3回にわたり、ずっと「ヒロシマのうた」についての学習会が行われてきた。それでも、まだ終わりそうにない。年明け後も何回かは、「ヒロシマのうた」についての学習会が続きそうだ。決して参加人数が多いわけではない。ごく少数の物好きな連中なのだと言われれば、そうかもしれないとも思う。でも、それ以上に「ヒロシマのうた」という作品が持つ力が、そうさせていると感じる。

 6年生教材の「ヒロシマのうた」は、子どもたちにとってかなりの分量ある読み物教材だ。しかも物語は、広島の原爆投下後の被爆地から始まる。決して明るい楽しい物語とは言えない。死にゆく母の腕にひしと抱かれた赤ん坊の命を引き受ける水兵、戦禍のなかでその赤ん坊を預かる夫婦(育ての母)、その人たちを中心に一人の少女の成長と自立が、彼女をやさしく見守り育む人たちの姿とともに描かれていく。この間の学習会の報告とは到底言えないが、参加してきた一人として何を感じ考え、思ったのかについてちょっと書いておく。

 11月の「こくご講座」のときのことだった。この作品の主題と展開をどうとらえたらいいのかということに関わって、千葉さんが次のようなことを語った。

 作品をとらえる時に、私である稲毛さんを突き動かしたものは何か。義理の育てのお母さんは、ヒロ子ちゃんを一度手放そうとしたとき、ヒロ子ちゃんを必死に守ろうとした実の母の話を聞いて思いとどまった。私はヒロ子を絶対に育てますと言っている。そしてヒロ子ちゃん自身は、戦禍の中でのお母さんの話を私から聞いて、私お母さんに似ていますかと言っている。そうしてみてくると、亡くなってここにはいないお母さんが、実はみんなを突き動かしているということが見えてくるような気がする。戦争はすべてを破壊してしまうが、その中でわずかに生き残った小さな命、その命を必死に守り抜こうとしたお母さんの思いが、私(稲毛さん)の心を動かし、義理の育てのお母さんを動かし、そしてヒロ子ちゃんの心も動かしながら、ずっとこの物語の中に流れているのではないか、と。

 その観点から作品を改めてみて見ると、いろいろなことが気になってくる。例えば、水兵の私(稲毛さん)が、亡くなったお母さんの腕から赤ちゃん(ミーちゃん、ミ子ちゃん、ヒロ子ちゃん)を「だき取る」場面には、その行為の表現として「うばい取る」「もぎ取る」という表現も出てくる。その表現は、どんな稲毛さんの心情なり思いを表わしていると言えるだろうか。あるいは、同じ箇所に「固くだきしめた冷たいお母さんの手の力、わたしは今もまざまざと思い出すことができます」との表現も出てくる。「冷たいお母さんの手」とは、すなわちすでにお母さんは死んでいることを示している。だとしたら、死んでいるにもかかわらず「手の力」とは何か、何を意味しているのか。そんなことも気になり始めた。お母さんと稲毛さんの思いが、この場面のなかで強烈に語られている。

 そうしているうちに、一つの詩を思い出した。ああ、この詩は「ヒロシマのうた」に似ている、根底で共鳴していると。それは、栗原貞子さんの「生ましめんかな」だ。

生ましめんかな
  -原子爆弾秘話-

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。

マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

 「生ましめんかな」は、戦後すぐ(1946年)の作である。副題に「原子爆弾秘話」と付されたこの詩は、被爆地広島で実際にあった話がもとになっている。中国新聞の記事によると、近所の人からこの話を聞いた作者の栗原貞子さんは、「地下室の出来事がまるで宗教画のように感じられ、一息にこの詩を書きつけた」そうだ。「ヒロシマのうた」の作者の今西祐行さんと栗原さん、お二人の間に接点や交流はなかったのだろうか、そんなこともふと考えたくなってしまう。話はどんどん広がって、自分の中であれやこれやと想像してしまいそうだ。

 最後に報告を一つ。実は、この一連の学習会の流れは、年明けの新春講演会にもつながっていく予定だった。新春講演会では、長崎で被爆され、ここ宮城で被爆者援護と核兵器禁止の活動を長らくされてきた日本被団協の田中煕巳さんを講師にお招きし、あの日きのこ雲の下で何が起きたのか、そして今回の禁止条約の意義などをご自身の体験も交えながら話してもらい、核兵器のない世界への展望についてともに考え合いたいと思っていた。しかし、この年末のコロナ感染拡大の状況を考えると、今回の開催は難しいと判断し、延期することにした。大変残念だが、コロナの感染が終息した際に改めて機会をつくりたいと思っている。(キヨ)

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時の流れ ~ コロナ禍の中で考える

 以前、私が不思議に思っていたことの一つに、見知らぬ土地へドライブなどしたとき、行きと帰りを同じ道を運転すると、復路の方がはるかに時間が短く感じることでした。そして最近では、年齢を重ねるごとに、時の経つのがとても早くなるような気がしてくること。あるいは子どもの頃は時間はゆっくり流れ、大人になると時間はたちまち経過する。そのような経験を誰もが感じているのではないでしょうか。

    そんな疑問を抱えながら、今から20年以上前のことになりますが、長女が大学受験のとき、試験が終わり東京から帰宅するやいなや、真っ先に報告したのが、英語の長文読解の問題が、冒頭の「見知らぬ土地へドライブ・・・」のことについて書かれた研究者の文章だったというのでした。そして、立て続けに、なぜだかわかる?と、得意気に質問されたのでした。私にとっても、それはなるほどと、長年の疑問が解けた日になったのは、いうまでもありません。

 そして、今回、コロナ禍の中で、部屋の整理をしていたら、過去の新聞切り抜き帳や読書メモがみつかり、読み直すと、信州大学の学長が入学式で引用した脳科学者の言葉が書かれている6年前のノート記録がありました。当時の「天声人語」の記事です。

『周りの世界が見慣れたものになってくると、時間が速く過ぎ去っていくように感じられる』のだと。見るものすべてが新鮮な子どもと、大人との違いは明らかです。
 そして同学長は新入学生に話を続け、自力で時の流れを遅くすることを勧めていました。その方法は、『新しいことを学び続ける。新しい場所を訪れる。新しい人に会う。すると脳の取り込む情報量が多くなり、時間はゆったりしてくる。それが創造的な思考を育てることにつながる』のだと。

 コロナ禍で大学へ入学はしたものの、一度もキャンパスで対面授業を受けていない、従って新しい友人もいない学生の話が報道されている。彼らはどんな時の流れを感じているのだろうか。
 これは決して人ごとではない。私の2020年はどうだったか。新しい場所、新しい人との出会いは、ほぼなかった。新しいことを学び続ける機会が少しあっただけといえる。

 新しい人との出会いの一つが、高校生公開授業でお世話になった京都大学の山極総長になる。その山極さんは、前述の信州大学学長の入学式と期を同じくして京都大学の入学式で「世界は答えのまだない課題に満ちあふれている。失敗や批判に楽観的であれ。『異色な考え』を取り入れよ」と呼びかけていました。
 今はただ、一日も早いコロナの終息を願って、今年最後の投稿にしたい。<仁>

第4回『国語なやんでるた~る』のご案内

 参加者とともにつくっていく学習会のおもしろさや難しさは、こちらが当初計画していなかった、考えていなかったことが起こるということ。

 今回は3回の学習会で終わりにしよう、そう思っていたのですが・・・。急遽、第4回の学習会を持つことになりました。話し合いをするなかで物語から見えてくる発見や気づき、それはまた新たな疑問や課題になっても行きます。そして、それを考えることは楽しいことでもあります。

 今回の学習会が、今年最後の学習会になるのかどうか・・・、それは今はわかりません。そんなことに悩んでいる “ なやんでるた~る ” からのご案内で~す。

 17日は雪がひどく参加できなかった人もいたので、急遽22日(火)18:30~
改めて実施することになりました。よろしくお願いします。

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季節のたより65 サザンカ

 「冬の華」として育てられた  暖地の寒がりの花

 野山の樹木も葉を落とし、庭や道端の草花も枯れて、冬の眠りにつき始めています。花のない寂しくなったこの季節に咲き出すのがサザンカの花です。

f:id:mkbkc:20201219162234j:plain         寒さに向って咲き出す  サザンカの花

 「かきねの かきねの まがりかど」「さざんか、さざんか、咲いた道」のことばとメロディーを耳にしたことがあるでしょう。これは童謡「たきび」(巽 聖歌作)のなかの歌詞です。
 童謡といえば、漱石が俳体詩という形式で「童謡」という詩を作っています。この詩にもサザンカが登場します。

    童謡                  夏目 漱石

源兵衛が 練馬村から / 大根を 馬の背につけ / 御歳暮に 持て来てくれた   
源兵衛が 手拭でもて / 股引の 埃をはたき / 台どこに 腰をおろしてる
源兵衛が 烟草をふかす / 遠慮なく 臭いのをふかす / すぱすぱと 平気でふかす 
源兵衛に どうだと聞いたら / さうでがす 相変らずで / こん年も 寒いと言った
源兵衛が 烟草のむまに / 源兵衛の 馬が垣根の / 白と赤の 山茶花を食った
源兵衛の 烟草あ臭いが / 源兵衛は 好きなぢゝいだ / 源兵衛の 馬は悪馬だ
          (岩波書店漱石全集」第12巻 初期の文章及詩歌俳句)

 人の好さそうな百姓の源兵衛さん、馬を垣根につないで一服していたら、垣根に咲くサザンカの花をパクリと食ったという、なんだか、芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」(野ざらし紀行)の句を連想させるユーモラスな詩です。

 「童謡」は、1905年(明治38年)「ホトトギス」の1月号に「吾輩は猫である」と共に掲載されたものです。「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)の解説では、1918年(大正7年)に鈴木三重吉が興した「赤い鳥」運動以前に創られた童謡らしき創作の最初の作品としています。
 
 童謡「たきび」で歌われたサザンカも、漱石の「童謡」のサザンカも、「垣根」に咲くサザンカの花です。明治、大正の頃から、サザンカは一般の家庭の生け垣に植えられ、晩秋から冬にかけての風物詩となっていたことがわかります。

f:id:mkbkc:20201219162312j:plain          白花の八重のサザンカも見られます。

 サザンカは、日本原産の樹木です。学名は、「Camellia sasanqua Thunb.」で、小種名が日本名のサザンカ(山茶花)の名称をそのまま使って、「sasanqua」となっています。

 サザンカと似ているのがツバキです。ツバキも古く自生している日本原産の樹木です。サザンカとツバキは同じように見えますが、見分けるのはそれほど難しくはありません。(多くの園芸種も出ているので、例外は見られます。)
 ツバキの花は、花が十分に開いても花びらは開かず筒状のままです。一方、サザンカの花は、開花すると、花びらを平らに広げて開きます。これは、ツバキの花が花びらと雄しべがつながり筒状になっているのに対して、サザンカは花びらと雄しべが分かれていることによるものです。花の散り際をみると、その違いは、はっきりわかるでしょう。

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  ツバキの花は、筒状に開きます。   サザンカの花は、平らに開きます。

 ツバキの花は、ガクと雌しべだけ残して、花首一輪がポトリと落ちます。首が落ちるというので、武士には嫌われていました。入院のお見舞いにふさわしくない花とされているのもそのためでしょう。
 サザンカの花は、ツバキと違って、花びらがハラハラと散ります。山茶花を 雀のこぼす 日和かな」(正岡子規の句は、風のない穏やかな日に、小雀が止まるわずかな枝のゆれにも反応し、散ってゆくサザンカの花の特徴が描かれています。

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ツバキの花は、花ごとポトリと落ちます。 サザンカの花びらは、はらはら散ります。

 ツバキとサザンカは、一見すると、葉も花姿もよく似ているので、昔の人もずっと同じもののように考えていたようです。
 というのは、日本では、ツバキという名前は、すでに「日本書紀」(720)に「海石榴」という文字で登場し、「万葉集」(759)でも、いくつかの万葉仮名(海石榴・都婆技・都婆吉・椿)で、和歌に詠まれています。
 ところが、サザンカ山茶花)の名前が出てくるのは、室町時代になってからです。一条兼良(1402-81)の著と伝わる「尺素往来(せきそおうらい)」が初めてで、和歌にいたっては、江戸時代以前は一首のみ。田安宗武(徳川8代将軍吉宗の次男)が、毛虫による「ヒメツバキ」(サザンカの別名)の食害を嘆いたものだけなのです。 
 もしかすると、万葉集で詠まれているツバキには、サザンカも含まれていたということも考えられないでしょうか。

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   サザンカの花は、古来、ツバキの花と同じように見られていたようです。

 日本ではサザンカを「山茶花」と書きますが、中国では、「山茶花」はツバキ類のことを指していました。ツバキも、葉が飲用になるので、チャノキに対して、「山に生える茶」という意味で「山茶」(さんちゃ)といい、その花なので、「山茶花」としたのです。ツバキは、すでに万葉仮名で使われていた「椿」の文字があてられ、サザンカを表す文字は、中国のツバキ類を表す「山茶花」が、そのままあてはめられていったようです。

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   サザンカは、品種改良され、全国で300種ほどあるといわれています。

 さて、サザンカとツバキの区別は何とかつくのですが、悩ましいのは、カンツバキ(寒椿)です。サザンカより少し遅れて咲くカンツバキは、サザンカとツバキの交配種といわれ、ツバキの名を持ちますが、ツバキではなく、サザンカに分類されるサザンカそっくりの花なのです。花の散り方もサザンカと同じです。
 カンツバキは、花びらがなめらかで14枚以上あり、サザンカは、花びらがシワシワで、その数が5~10枚ほどと、見分けるポイントもあるのですが、専門家でも見分けるのが難しいといわれるほどなので、悩んでもしかたがないようです。

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カンツバキは、枝が横に伸び、整いやすく、生け垣として    雄しべが、花びら化して
よく利用されています。                いるのが見られます。 

 ツバキ科の植物は北半球の熱帯から亜熱帯に自生する植物群です。そのなかでツバキ、サザンカ、チャノキは、温帯に自生する植物で、日本でも自生しています。
 これらのなかで、比較的寒さに強いのはツバキでしょう。自生地の北限は、ヤブツバキ青森県夏泊半島、ユキツバキは秋田県の県南地方になっています。
 チャノキも寒さに弱いのですが、北日本でも栽培されるようになり、県内でも約400年前から石巻で栽培されて、「桃生茶」としてその名が知られています。

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 ヤブツバキの花は、4月頃に盛んに咲き出します。   チャノキ(茶ノ木)の花

 寒さにもっとも弱いのがサザンカでしょう。サザンカの野生の自生種は、沖縄、九州で見ることができますが、本州では、山口県萩市が北限とされています。

 もともと暖かい地方の一部で自生するサザンカなのに、本州の各地で見られるようになったのは、どうしてなのでしょうか。
 ツバキは、冬のさなかに咲き出しますが、本格的に花を咲かせるのは春です。ところが、サザンカは晩秋から冬に向って花を咲かせます。他の花が少なくなる季節に、人々がサザンカの花に心ひかれるのは、今も昔も変わりなかったようです。
 江戸時代の初期の頃から、野生種から品種改良も行われ、庭や庭園の生け垣に植えられていきました。原種となる野生種は、一重咲きの白花ですが、赤やピンクが生まれ、5枚だった花びらの数も7枚以上に増えて華やかになり、少しの寒さにも耐えられるほどになって、「冬の華」として親しまれていきました。

f:id:mkbkc:20201219162345j:plain        サザンカの花は、冬の華として育てられてきました。

 サザンカが、寒い地方に適応できるようになっても、花の姿は暖地に咲く花のままです。冬の冷たい風に当たると花は弱り、−5℃より気温が下がると防寒が必要になってきます。当然、山野に自生することはできません。
 サザンカが本来自生できない地方でも、その地に根をおろしていけたのは、冬場になると、敷き藁を敷いたり冬囲いをしたりする植木職人、園芸技能士さんなどの働きがあったからです。サザンカは北国では人に保護され育てられた樹木なのです。
 漱石の「童謡」ではないけれど、馬にパクリと食われる危険はもうないものの、気候だけは変えられません。
 北国に咲く赤や白や桃色のサザンカたちは、
 「相変わらずで、こん年も 寒いね」
 「ああ、寒いね」
と言いながら、花を咲かせているに違いありません。(千)

◇昨年12月の「季節のたより」紹介の草花