mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

所長の達郎さんは、なんと国際竹とんぼ協会会長!

 所長の達郎さん、就任早々コロナウイルスの感染拡大で思うように仕事もできず、やきもきしながらの船出でした。それでも6月からは徐々に取り組みができるようになり、仕事のリズムもつかめてきているようです。

 そんな達郎さん、実はセンター所長としての顔だけでなく、多彩な顔の持ち主。その一つが、国際竹とんぼ協会会長としての顔。センターの活動が軌道に乗らないなかでも、やりたいこと、やらなくてはならないことはいっぱいあって、暇なんてないよというのが達郎さんなのかもしれません。なんとなんといつの間にか、そんな国際竹とんぼ協会の会長としての取り組みと姿が、新聞(7月4日付、産経新聞)で紹介されているではありませんか。せっかくなのでDiaryにも載せることにしました。

 ちなみに仕事机の上には、お手製のかっこいい竹とんぼがすでに鎮座しています。一度見にきませんか? きっと竹とんぼのイメージが、がらっと変わりますよ。(キヨ)

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コロナ禍での学校を考えよう!~ オンライン学習会を開催 ~

 首都圏を中心にコロナウイルスの感染が再び拡大しつつありますが、「withコロナ」のなか、どのように文化的な企画や学習会を持つことができるのか、それぞれに模索が続いています。

 例年であれば、夏休みに入った7月最後の土日は、宮城県職員組合「明日の授業」のための教育講座が活発に行われるところですが、夏休みは8月に入ってからなどという学校の状況もあり、今年は残念ながらみんなが集まっての学習会は中止にしたそうです。そこで、それに代わる学習会の場を何とかしようと、オンラインでの学習会を持つことにしたとのこと。

 6月から始まった学校の授業や取り組みのなかで「これでいいのだろうか?」「ほかの学校はどうしてるの?」「これからはどうしたらいいだろう」など、多くの疑問や課題を感じつつも、なかなか職場を越えての交流や話し合いは持つことができてこなかったのが現状のように思います。
 多くの職場や先生方の疑問にも応えつつ、これから学校をどうして行ったらいいのかを考えるいい機会になると思います。
 研究センターの高橋所長も「コロナ禍での学校・子ども・授業」と題して話をします。ぜひズームインして、ご参加ください(誰でも参加できるそうです)。

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★コロナ禍での学校を考えよう!

  【日時】7月23日(木・祝)13時~15時

   (プログラム)
  ・宮教組委員長あいさつ(13:00)
  ・講座① 高橋達郎さん「コロナ禍での学校・子ども・授業」(13:15~)
  ・講座② 佐々木大介さん「安心とつながりのある学級づくり」(14:00~)

   オンラインでの学習会ですから、自宅からくつろぎながらの参加もよし、
  ZOOMの接続などが不安な方は友達と一緒の参加もよし、それぞれの状況に
  応じて参加ください。
       【問い合わせ・連絡先】宮城県職員組合(022-234-4161)

 【参加方法】
  ①下記の《申込みフォーム》をクリックし、必要事項を記入し送信する。
  ②宮教組本部から、登録いただいたアドレスに、参加のためのURLや、
   ミーティングID・パスワードが送信されます。
  ③当日、時間になったらURLをクリックすると参加できます。
  (※ IDとパスワードを求められたら、送られてきたものを入力ください。)

   《申込みフォーム》

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季節のたより55 ヤマユリ

 絶滅せずに生きる 野草で最大の美しい花

 ヤマユリの花は、ユリ科ユリ属の中では最も美しく芳香もある花です。おそらく日本の野草の中では最大の大きさの花でしょう。この花が、もし希少種であったなら、すでに絶滅している運命にあったでしょうが、その逞しい生命力で残された生息環境を求めて生き残り、夏が来るたびにその美しい花を見せてくれます。

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  ヤマユリの花。幕末に外国から来た園芸家たちは山野に咲いているのに
  驚いたそうです。

 ヤマユリは東北地方や中部地方の山地、山野のまわりや草地に自生する日本固有種です。里山の半日かげの林のまわりや明るい林内、北や東向きの土手や路傍の、ときおり草刈りが行われるような草むらに生えています。

 ヤマユリは花が咲くと、遠くからでもよく見えます。しかも球根(鱗茎)を食べるととてもおいしいので、古くから知られていたとしても不思議はないでしょう。
 古事記にもすでに「基の河の辺に山由理草多に在りき」とあり、「山由理」(やまゆり)の名で現れています。万葉集には「草深百合」や「さ百合」の名で10首詠まれていますが、このユリはヤマユリか、西日本に分布するササユリのどちらかだろうといわれています。
 ヤマユリのほかに日本にはササユリ、オニユリ、ヒメユリなど数多くの野生のユリが自生しています。古代から、これらのユリは夏がくると華やかに花を咲かせて日本の山野を飾っていたと思われます。

 ユリ(百合)という場合、ヤマユリを指すこともありますが、普通はユリ科ユリ属の総称として使われます。ユリという名の由来は諸説ありますが、茎に比べて花が大きく、風にゆらゆら「ゆれ動く」ようすからきているという説が有力です。
 「ユリ」が「百合」と表記されたのは飛鳥時代の頃です。中国から渡来した「百合」という漢字に、日本の「ゆり」という呼び名(音声)が結びつき、そのまま日本語となったものです。
 漢方に「百合」(びゃくごう)という生薬がありますが、これはヤマユリオニユリなどの鱗茎を蒸して乾燥したものです。「百」は数が多くあることで、「合」はそれが合わさったという意味。地下のユリの球根が多数の鱗片の塊で出来ていることに由来する呼び名です。

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つぼみは下から上へと咲いていきます。 年数がたつほど、多くの花をつけます。

 ユリの花の仲間は、多雨と酸性土壌を好みます。日本列島の湿潤な気候と酸性の土壌は生育に適していて、国内には15種の野生のユリが自生し、そのうちの8種は日本の固有種です。
 現代、世界にはさまざまなユリの園芸品種がありますが、これらの多くは、日本の固有種のユリが輸出されて改良されたものです。園芸品種で人気のあるカサブランカヤマユリなどが原種です。ユリといえば西洋の花というイメージが強くありますが、多くの園芸品種のユリの故郷は日本なのです。

 日本のユリが欧州に紹介されたのは19世紀。たちまち評判になって、「なかでもジョン・ベイナが1862年に導入してロンドンのフラワーショーに出品したヤマユリは絶賛され、1873年オーストリア万国博で商談が進み、翌々年から球根の輸出が始まった。明治末にはその数が2000万球にも達し、外貨を稼いだ。」(「ニッポニカ」ヤマユリの文化史・湯浅浩史)とのこと。その当時山野に幾らでもあったヤマユリの球根は、次々と掘り出され、その数を急速に減らしていったということです。この時代にヤマユリはよく絶滅しなかったものと思います。

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 他の草より高い位置で花を咲かせるヤマユリ。風による種子の散布にも有利です。

 ヤマユリが生きのびられたのは、その逞しい生命力によるものでしょう。
 ヤマユリの種子が発芽してから花を咲かせるまでは5年以上かかります。それまで小さな葉を出して地下の球根に栄養を蓄えますが、開花できるまで育った球根が春に芽を出したあとは、その生長が驚くほど速いのです。
 地下の球根で蓄えられた栄養ですばやく根を広げ、養分を吸収して草丈を伸ばします。伸ばした茎に次々に葉をつけ光合成を行い、森でも草地でも常に他の草の高さを追い抜いて生長します。ヤマユリが芽を出してつぼみをつけるまで約 40 日。その間に他の草を圧倒して生長し、はるかに高い位置でつぼみをつけるのです。
 そのあとは、約2ケ月ほど、新しい葉を出すことも茎の生長も止めて、つぼみを充実させることにエネルギーを注ぎ、やがて大きな花を咲かせるのです。

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  つぼみは緑色です。    緑色から白に変化します。   開き始めました。

 ヤマユリの花は、外側の花びら(もとはガク片)と内側の花びらが3枚ずつ、合わせて6枚の花びらがあって、外側にそるように開きます。めしべが1本。おしべが6本で、花の開き始めは、どちらもまっすぐですが、やがておしべの先の葯が動いてT字形になり、めしべは柱頭の表面を上方に曲げて、訪花昆虫を待ち受けます。

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  四方に開く6枚の花びら   朱色はおしべの葯です。 虫を待ち受けるめしべの姿

 ヤマユリの花によくやってくるのは、アゲハチョウの仲間です。
 アゲハチョウは体が大きく飛翔能力が高いので、うまくチョウの体に花粉をつけることができれば、大量の花粉を一度に遠くまで運んでもらえます。ところが困ったことに、アゲハチョウはストローのような長い口を伸ばして花から蜜を吸うので、体に花粉をつけることなく蜜だけを奪っていくことがとても上手なのです。

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  花びらの根元近くで蜜が分泌されます。   蜜を求めるアゲハチョウ

 ヤマユリはそのことを知っているかのように工夫をめぐらします。
 ヤマユリは糖度 65%といわれる甘さの蜜を準備し、濃厚な香りを漂わせます。花びらの赤い斑点はアゲハチョウの好きな色、中央を走る黄色い帯は蜜のありかを教える道しるべ。アゲハチョウをうまく誘いながらも、じつは、花は下向きに咲かせているのです。しかも花びらを後ろに反り返させて、おしべやめしべを長く突き出し簡単に蜜を吸えないようにしています。花に誘われやってきたチョウは、おしべやめしべを足場にしてぶら下がり、羽をばたつかせて必死に蜜を吸おうともがく結果になるのです。
 おしべの花粉の出る葯もうまくできています。T字形の先の葯は自在に動いて掃除モップの先のよう、どんな角度でもチョウの体にフィットします。葯から出る花粉は、衣服につくと簡単にはとれないほどの粘り気があるので、チョウの体にすぐ着きます。アゲハチョウがやっと蜜を吸えたとき、チョウの体は花粉だらけ。めしべの先も粘液にぬれていて、すばやく花粉がつき受粉できるようになっています。
 ヤマユリは一枚上手のようです。アゲハチョウには蜜を盗まれることなく、花粉の運び手の役割をしっかりさせているのですから。

 ところで、研究者によると、ヤマユリが花粉を運ばせているのは、アゲハチョウだけではないということがわかってきました。
 ヤマユリの強い香りは夕方以降に強くなって、夜には夜行性のスズメガを呼び寄せているというのです。花びらの白さは闇夜でも浮き上がって見えてくるので花のありかがわかります。スズメガは、ホバリングしながら蜜を求めて長い口吻を花の奥に差し入れると、頭部に花粉をつけられ、そのまま花粉の運び屋になるのです。

 スズメガは飛翔範囲がアゲハチョウより広いので、ヤマユリは日中近距離を飛び回るアゲハチョウを呼び寄せ、おもに自家受粉を行い、夜には遠くに咲くヤマユリの花との他家受粉を行っていると考えられます。
 確実に受粉して多様な遺伝子を持つ種子を準備し、いのちをつなごうとするヤマユリの知恵がここにも見られます。

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   受粉のあとの果実      熟した果実       果実の中の種子

 花の後にできる果実は蒴果(さくか)といって、乾燥すると裂けて種子を放出するしくみになっています。長さ6 cmほどの円筒形で、3室に分かれた部屋に種子が約300個ほど入っています。熟すと果実が3裂し、風に揺らされ、種子は新天地へ飛び出すのです。

 ヤマユリは、球根(鱗茎)でも仲間を増やします。毎年栄養を蓄えた球根が大きくなると、一つだけでなく、いくつも芽を出します。寿命は7年から8年、中には20年以上のもあり、年数が多くなるほどたくさんの花をつけます。また、伸びた茎につく木子(きご)というむかごのような小さな鱗茎でも増えます。自然界で動物に食害されて、バラバラになって残った鱗片の一片からでも再生する力があるといいますからすごいものです。

 ヤマユリは「種子繁殖」だけでなく、自らの分身による「栄養繁殖」もするという、いのちのしくみを獲得し、どんな環境の変化があっても子孫を絶やすことなく野草の世界を生き抜いてきたのです。

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  無心に咲くヤマユリの花は、いのちの輝きを見せて、今を生きています。

 毎年夏に、田舎に帰省しようと、東北自動車道の南インターから北へ向かって走ると、高速道路ののり面に、たくさんのヤマユリの花が咲き続く光景が見られます。ヤマユリの花が咲く季節には、このような光景が栃木から岩手にかけての高速道路でも見られるそうです。(東日本高速道路㈱ 東北支社「技術報告・高速道路のり面のヤマユリの復元状況について」2012年)

 高速道路ののり面は、当初牧草などで緑化されていましたが、長い間に周囲から飛んできた種子で、まわりの山林に近い植生環境に遷移していき、走行の安全のため毎年草刈りも行なわれていたので、いつしか里山に似た半日かげの草むら環境になっていったといいます。(同「技術報告」)
 里山が荒れて、生育箇所を失いつつあったヤマユリの、その種子が絶好の生育環境に飛んできて、芽を出し花を咲かせて仲間を増やしていたのです。
 幾度か危機を乗り越えてきたヤマユリは、その生命力でこれからも生きのびていくにちがいありません。

 宮澤賢治は、嵐に抗して懸命に立つ百合の花を詠っています。

  いなびかりみなぎり来ればわが百合の花は動かずましろく怒れり
                     歌稿B最終敲(大正3年4月)

 この百合はヤマユリの花。賢治にとってヤマユリの花は特別の意味を象徴する存在でした。短編「ガドルフの百合」の一場面を想起させます。
 歌に詠まれたヤマユリは、その存在をかけて雷雨と対峙し、野に生きる花の強靭さと鮮烈な美しさを見せて魅了してくるようです。(千)

◇昨年7月の「季節のたより」紹介の草花

映画『ワンダーウォール』の彼方に

 コロナウイルス感染拡大後、ずっと映画を観に行ってなかった。思えば、最後に行ったのは2月の「さよならテレビ」。いつ行けるようになるだろうとずっと思っていたが、先日4カ月ぶりにやっと足を運ぶことができた。観てきたのは映画「ワンダーウォール」。

 タイトルをどこかで聞いたことある・・・と、思われた方もあるだろう。実は2018年にNHK・BSで単発のドラマとして放送され、その後話題を呼び、今回未公開カットなどを追加した劇場版として上映されることとなったのだ。
 物語の舞台は、京都の片隅にある大学学生寮・近衛寮。100年以上の歴史を持つこの寮に、老朽化による建て替えの話が持ち上がる。新たに建て替えを打ち出す大学側と、補修しながら現在の建物を残したい寮側の意見は対立し、両者の間に壁が立つ。そんな寮と大学を舞台に4人(マサラ、キューピー、志村、三船、トレッドなど)の個性豊かな寮生たちの姿を通して描かれる青春群像劇だ。

 まず、目を惹くのは寮という空間のリアリティーさ。近衛寮は自治寮、それも寮の形式としては、もっとも古い形式のものだ。映画は冒頭、寮という異世界に迷い込んだ人間が、まるでその空間をなめまわし眺めるかのような映像が映し出される。それは寮という世界がもつ、独特の時間の流れや息づかいを私たちに伝える。
 寮の玄関を入るや目に飛び込んでくるのは、こたつの置かれた空間だ。すでにこたつには寮生が陣取りたむろしている。きっと、そこは来訪者を出迎える客間であるとともに、門限なし24時間出入り自由の寮にとって、いわば防犯の機能も兼ね備えた関所のような役割も果たしているにちがいない。
 玄関を少し入った廊下からはスチール製の事務机や本棚が雑然と置かれた部屋が見えてくる。寮生活のあらゆる問題や相談が持ち込まれ、そして徹底的に話し合われる、そこは寮自治の心臓部だ。寮生たちのくつろいだ映像に寄り添うようにニワトリの鳴き声やインベーダーゲームの懐かしいゲーム音などが聞こえてくる。それから戸口に腰を下ろし、すでに寮の主と思しき猫が私たちを出迎え、映画(寮)の世界へと誘ってくれる。

 寮という世界で人生のひとときを過ごし堪能した者たちは、この冒頭の映像のなかに自分の姿を見出し、また魅入られていくことだろう。同時に、その懐かしさとともに寮が、まさに大人へとなりゆく年代の若者たちを迎え・送り出す場として、どのような役割を担ってきたのか、いるのか。そのことをも改めて考えさせてくれる。

 では寮とは何だろう、何であったろうか? それを考えるとき、まずは生活の場だということ。でも、それだけなら寮である必要は必ずしもない。アパートでもマンションでも、シェアールームだっていいだろう。では、改めて寮の独自性とは? 映画の中では、大学1年のマサラが、次のように端的に語っている。

《寮は入ってみたら本当に変人だらけだった。好きな格好をし、好きな場所で寝、好きなものを買い、好きなものを食べていた。一見無秩序のようでありながら、ここには案外細かいルールが敷かれている。人はサル並みにマウンティングが好きな動物だけど、近衛寮では我慢しなくてはならない。退屈だったら、その代わり仲良くするしかない。でも、それは実は楽しいこと》

 かしこまった言い方をすれば、それは「自由と自治」、そして民主主義といったところだろう。そして、映画にはそんな言葉は一切登場しないが、全編を通しそのことの可笑しさと楽しさ、そして難しさを語っている。
 マサラの言葉に、アナーキスト革命家・大杉栄の言葉が反響して聞こえてくる。

僕等は今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りその者、犬その者が厭なんだ。そしていっさいそんなものはなしにみんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。
それにはやはり、なによりもまず、いつでもまたどこでも、みんなが勝手に踊るけいこをしなくちゃならない。むづかしく言えば、自由発意と、自由合意とのけいこだ。
この発意と合意との自由のない所になんの自由がある。なんの正義がある。

 マサラ曰く《好きな格好をし、好きな場所で寝、好きなものを買い、好きなものを食べていた。一見無秩序のようでありながら、ここには案外細かいルールが敷かれている》寮という場は、まさに自由発意と自由合意に基づく自治の場であり、そこでのルールは強制として誰かに与えられ強いられたものではなく、議論を通じて見出し、自分たちが自由に生きるために獲得したもの。だからそれは楽しいし、だからときには我慢しなくてはならない。

 映画は、大学と寮との間の話し合いを通じて一旦は補修による寮の存続という合意に至るかにみえるが、一転大学側は一方的に話し合いを打ち切り寮の建て替えへと進んでいく。それは曲がりなりにも学生とともに歩み築いてきた大学《自治》を大学が放棄したことを意味している。実は、それは映画の世界だけのことではない。多くの日本の大学が、すでに大学自治を放棄している。大学自治という言葉は、すでに死語だろう。映画は、その現実を映し出し、伝えている。というのも、この「ワンダーウォール」そのものが京都大学吉田寮廃寮問題を取材し、そこから多くの着想を得てつくられているのだから。すなわち映画「ワンダーウォール」は寮の世界を描きながら、実は現在の大学のあり方をも問うている映画と言える。

 映画の最後は、暁の茶事の場面で終わる。寮の存続に尽力してきた4回生の三船は、大学との交渉が行き詰まり暗礁に乗り上げてしまった今の心境を《こんなおんぼろ寮一つに何をそこまで騒ぐ必要があるのか。むしろ俺が教えてほしい、一体、俺は何故これほどまでに悩まずにいられないのか。言葉にならなくて苦しい。まるで恋のように》とつぶやき、エンディングへと向かう。

 三船の言葉は、映画の始まりで《その時、恋が始まった、のかと思った。けど勘違いだった。それでも、これはラブストーリーだ》というキューピーの語りと対になっている。きっと三船(たち)は、寮での生活を通じて単なる衣食住を満たす以上のものを見つけ、それに魅入られ、また恋してしまったのだろう。

 映画は、このあと寮がどうなったのかについては描いていない。三船たち寮生が、寮を守ることができたのかはわからない。ただ言えることは、たとえ寮生たちが寮を失うことになったとしても、そのことによって寮生たちはまさにすでに生きた一つの世界(自由)が失われることで、その失われた世界が、まさに今度は一つのユートピアとして寮生たちに生きられることになるだろうということだ。
 またそれは一人の若者が、一人の大人になるということでもあるかもしれない。

 最後に、余談になるが三船のつぶやきを聞いたとき、一つの言葉を思い出した。それは「憧れを知る者のみ、我が悩みを知らめ」というゲーテの言葉だ。この言葉は、同じ学生寮を舞台に、戦後最後となる旧制高校生たちの世界を描いた映画「ダウンタウン・ヒーローズ」のなかで語られる言葉でもある。2つの映画は、戦後民主主義の始まりと終わり(になってほしくはないが)を、寮という舞台を通じて描いた2つの映画と言えるかもしれない。
 ぜひ機会があれば、どちらの映画もご覧ください。おすすめです。

 それにしても3密はダメ、「新しい生活様式」が当然のごとく喧伝されるこの時期に、映画は典型的な3密世界である寮を舞台に、その世界を(自由を生き、自由を求める)世界として描き切ってしまった。何という皮肉、何という大胆さ。そして私たちは未来に何を求めるのだろうか。(キヨ)

「現在(いま)とは、まだ過ぎ去っていない過去ともうすでにやってきている未来とのたたかいの場だ」

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『達ちゃん先生』からの応援歌 ~ 子どもにとって発問は? ~

 学校が再開して2か月。授業づくりは、様々な困難があるでしょう。3~5月分の授業の遅れを取り戻しながら、新年度の授業を進めなければいけない苦労。しかし、焦らず、子どもの様子をよく見て、声を聴いて、気持ちを考えて、授業を進めていきたいものです。そこで、今回は授業における「発問」の問題を考えてみたいと思います。

 私は、角田小で3年間「読み取りを深める発問の研究」に取り組みました。その研究の上に2年間白石市の研究委員として「児童の『代理問』としての発問の研究」を行いました。私は、研究の責任者として、当時出版されていた発問に関する文献にはほぼ目を通しました。

 発問中心の授業に対する研究者の問題点の指摘をまとめると次のようになります。
 児童生徒を「発問待ち」にし、受け身にする。児童の思考を枠づけし、児童生徒を引き回す学習になりやすい。発問なしでは読めず、ひとり読みの力、読解力を育てない。

 そして、発問の在り方についての意見をまとめると次のようになります。
 発問は、児童生徒の「問いの先取り」「問いのモデル」「自問自答を導くもの」「問うことの力を育て鍛えるもの」「自己学習能力を育てるもの」として用意されなければならない。
 みなさんは、これらのことを意識して、発問を考え準備していますか?

 41年間小学校教師をしてきた私が思う発問の問題点は、「子どもにとって、発問は、テストである。」ということです。児童生徒からみれば、発問は、「答え」を知っている教師が、「答え」を知らない児童生徒に「問題」を出していることになり、教師から「答え」を求められていることになるのです。発問に対する「答え」が分かった児童生徒は目を輝かせ、張り切って手を挙げ、教師に向かって答えます。一方、「答え」がわからない「学習が苦手な」児童生徒はじっと下を向き、黙ってしまうことになってしまうのです。

 では、こうした状況を変え、どうしたら学び合うクラスに変えていくことができるのか。次回、この点について考えてみたいと思います。(達)

トルストイ流にみると・・・

 歳を重ねるということは、過ぎ去ったことにこんなにも責められるものか。
 誰もがそうだということではない。いつの間にか、過ぎた出来事が時をかまわず浮かんでくるので、つい「歳のせい」と思ってしまう自分のことだ。
 それも、このごろやたら浮かんでくるのは、おのれが夢中になった(と自分では思っている)教師の仕事のことであり、それも、在職当時、生甲斐とも思った仕事のエラーの数々が昨日のように次々と沸き上がってくる。なんたることだ。
 それがなんと、自分の問題だけに終わらず、現在の「学校教育」そのものの在り方にまで疑念をふくらませ、せっかくこんなにも生きる時間をもらったのに、それが息苦しい時間になり、自分としてはなんともやっかいなことになっている。

 これも、どうやら、おのれの「歳」に加えて、コロナ禍に関わって論議される教育問題までもが自分の過去のエラーに輪をかけているようだ。
 例のない学校休業がつづいているなかで「9月入学」が大真面目に論じられたり、大学・高校の入試の出題範囲うんぬんとか。今、「教育」について議論することはそういうことなんだろうか。どんな辛い時でも教育への希望をもっともっと語らなくていいのだろうかと、元教師はひとりで八つ当たり気味になっている。

 なぜそんな自分になったのだろう。よくわからないが、どうも、「子どもはみんな違うのに・・・」という当たり前のことを、ムカシより強く思うようになっていることが八つ当たりの理由の一つと言えそうだ。それをひとつの物差しにするゆえに、本来広々とあるべき「教育」という場が年ごとに狭くなり、それに異を唱える声も聞こえず仕事も見えてこないことがイライラを募らせているようだ。

 では、自分の現職時代はどうだったか。「子どもはみんな違う」「違う子どもたちが集まって一緒に暮らすから教室は意味があるのだ」と思いつづけ、それが教師としての何よりの楽しみだった。それなのに、今振り返ってみると、それは口先だけが多く、思い出す個々の子どもたちとの具体的な動きになっていなかったことが、次々と浮かんでくるので身の置き場がなくなってしまっている。そんな自分を、以前、この欄でちょっと触れたようにも思うが、3年生のⅯ君のことを例に振り返ってみる。

 彼の書いたある日の日記は、「今日は、〇〇と◇◇をしてあそびました」という感じのものだった。読んだ私は、いかにも仕方なしに書いた文に情けなくなり、「たいへんごくろうさまでした」と皮肉な一文を書いて、Ⅿ君に日記を返した。この文意が通じまいとかまわなかった。

 すると、それを読んだⅯ君が、間を置かずに「なんでこんなことを書いた!」と私につめよってきた。その様子を見て私は、(「ごくろうさまでした」と書いた私の意が彼に通じたんだ)と内心驚きながら、うれしくて彼にことばを返すことなく笑いつづけた。そんな私に呆れはてて(と思った)彼はそのまま自分の席にもどった。

 「トルストイが、『われわれがなしうるすべては、文をつくることにたいしてどのようにとりくむかを、彼らに教えこむこと』であり、その方法は、私は4つあると言い、たとえば第3として『第3(特に重要である)は、子どもの作文を検討するときには決してノートがきちんとしていることや、書法のことや、綴り字のことや、大切なことだが、文の組み立てのことや論理のことでもって生徒たちを非難してはならない』・・・と言っている」と、ビゴツキーは書いている(「子どもの想像力と創造」)。

 トルストイ流にみると、そもそもⅯ君の日記の私の読みがまちがっていたことになる。それなのに、皮肉なことばを書いて返すというとんでもないことをして、それが通じたと大いに喜んだのだ。なんとしたこと。

 しかし、Ⅿ君は諦めなかった。帰りの会で手を上げ、「先生はぼくを日記でばかにしましたが、先生、どうですか」と言ったものだ。言われた私は、素直に「すみませんでした」と詫びると、彼はそれで満足して腰を下ろし、このことはそれで終わりになった。

 それを今思い返すと、残念なのだ。私の大きなエラーになると思うのだ。彼のためにも、クラスのためにも、「いろんな子どもが一緒に暮らすから教室は意味がある」ことを口では言いながら、Ⅿ君との事件を私が喜ぶだけで、Ⅿ君のためにも、クラスの仲間たちのためにもそこから返すことなく、Ⅿ君のつくってくれた数少ない場を終わりにした。一つの日記をめぐって二重のエラーを重ねたことになる。せめて最後の締めをやっておればよかったのに。元教師は本当に情けなく思う。
おそらくクラスの仲間の多くは、Ⅿ君と同じように私の文を感じることができただろう。しかし、Ⅿ君のようにそれを私に言ってくる子どもは他にいなかったろう。それなのに、私はⅯ君の抗議を喜び、そして詫びるだけで終わりにしてしまった。全体にⅯ君のとった行動の大事さをあらためてⅯ君に話すことを通して彼のすばらしさを評価し、それをクラス全体のものにすべきだった。それが教師の仕事であろう。このようないい加減さがたくさん浮かんでくるのだ。
 
 朝日新聞6月27日の記事「フロントランナー」は「里親  坂本洋子さん(63歳)」の話だった。
 坂本さんは、実の親と暮らせない子どもを育てて35年が経った。迎え入れた子は18人。多くの子に何らかの障害があった。初めては偶然だったが、今は「ハンディキャップのある子を育てたい」と行政側に伝え、進んで受け入れているという。「何でって? 大好きだから」と言う。
 坂本さんは言う。ハンディのある子の成長はゆっくりで、足踏みしがちだ。だがふとしたきっかけで、目を見張るほどグンと伸びる時がある。驚き、心が震える瞬間。その喜びが、育てる自分に力を与えてくれる。「もう、健常児じゃ物足りないくらいよ」「『家庭』のせいで傷つけられた子の心は、『家庭』でふっくらさせてあげないと」。不変の信条の前には、血のつながりもハンディキャップの有無も、関係ない・・・と。

 私の今の情けないことをくだくだ並べ立てたが、坂本さんに完全に一蹴された。坂本さんは一番小さい5歳の子が成人を迎えるまでつづけると、生き生きと語っていた。
 現役は年齢ではなく心なんだな、おそらく。( 春 )

子どもは、いつ「大人」になるんだろう・・・Part2

 子どもは、いつ「大人」になるのか?第2弾。今回は、『子どもの難問』を企画した張本人である野矢茂樹さんです。

 野矢さんは、本書の《はじめに》で、自分は「子どもの口を借りて、大人の哲学者たちを困らせてやろう。そう思ったのです」と言っています。本人も自覚しているようですが少々意地悪なのです。でも、そういう意地悪さやへそ曲がり、アマノジャクさは哲学者の特権の一つである気もします。いつも社会やまわりの人たちの意見や常識に《そうだ、そうだ》と同調しているようでは哲学的な問いは立ち上がらないでしょうから。話が「大人」とは何かではなく、「哲学者」とは何かへと横道にそれてしまいそうです。本題に戻ります。

 野矢さんは、大人を問う前に「子ども」とは何かを問います。そして子どもに特徴的なのは「遊び」だと言い、次のように述べます。

もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。遊びは、子どもの生活の中でもっともだいじなものだ。遊びの中では失敗も笑ってすますことができる。現実の厳しさから守られたところで、いろんなことを試して失敗して、でもそんな失敗も笑い飛ばして、何回でも挑戦できる。それが、遊びだ。

 要するに、子どもとは厳しい現実世界から守られたところで、自分がしたいこと(遊び)をいろいろ試み、何度も飽きずに繰り返し、何度も失敗し、何度もやりなおし挑戦する、ときにはそっぽを向くこともあるかもしれない。そういう世界を生きることのできる存在だと。そして、そのような子どもにとって大事な遊びは、

いわば社会に出る予行演習になる。子どものうちに遊んで、いろいろ失敗を経験して、やがて社会に出ていく。社会に出ると、仕事に責任を持たされるようになって、もう遊びではすまされなくなるだろう。その時、君は大人になる。

 つまりは、いろんなことを試して失敗して、でもそんな失敗も笑い飛ばして、何回でも挑戦できる、そういう遊びを失うことこそ、大人になるということだと。

 前回の熊野さんは、大人になることは「じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置きかえのできないひと」、そうした何かを失う・諦めることだと言っていました。この言に絡めて言うなら、野矢さんの場合、それは「遊び」ということになるかもしれません。
 他方で、失うことになる大切な何かについて、熊野さんの場合は、大切な何かを知ることが大人の入り口に立つことと言っていたことを考えると、大切な何かは失う・諦める前に、すでに「知っている」ことが前提になっていると言えそうです。でも「遊び」の場合はどうでしょうか? それは失った後で、そのことの大事さがわかってくる、そういう違いがあるようにも、ふと思いました。

 ところで、子どもについて語るとき、「遊び」をキーワードにして語ることはそう珍しいことではないでしょう。仁さんのdiary「大人たちよ、『内なる子供』の声に耳を澄ましても」も、遊びをキーワードの一つに展開しています。ですが、野矢さんの文章を読みながら、大人の一人として改めてはっとさせられるのは、そういう子ども存在は「現実の厳しさから守られたところ」にあってこそ、可能なのだと言っていることです。つまり、そういう環境・条件がなければ、子どもは子どもではいられないし、またそういう遊びの世界を持つことはできないということなのです。そしてそこに、現実社会を生きる私たち大人の子どもに対する責任、あるいは大人の役割があるとも言えるように思うからです。

 でも、どうですかね? しばしば私たち大人は「子どもたちを甘やかしてはいけない。現実は厳しいのだから」などとよく言います。今の大人たちは、子ども世界(遊び)を保障し守ることが大切とは、必ずしも思っていないかもしれません。その可能性は大のような気もしてきます。だって今のこのコロナ禍のなか、もっとも子どもの成長に責任を持つべき公的機関の教育委員会の大人たちですら、まず口にするのは「学力」保証、「学力」保証の大合唱ですし、そのための「学力テスト」の実施、さらには夏休みの縮小や授業時間の確保という名目による7時間授業など、そこで犠牲になっているのは、まさに子どもたちの遊びと、その遊びを保障する余暇の時間なのですから。

 さてさて、これで終わりにと言いたいところですが、最初に申した通り一筋縄でいかないのが哲学者。野矢さんは、最後の最後に「一人前の子ども」という大人論を、以下のように述べて文章を閉じます。

(「一人前の子ども」とは、)人生全体を遊びと見切る態度を身につけた人のことだ。その人たちはどこかさめた目で社会を見ている。でも、君たちが真剣に遊ぶように、真剣に生きている。
 子どもは、遊びから社会へと出ていき、大人になる。だけど、生き方として、また大人から子どもになるということもある。その意味では、子どもでもいいんだ。でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。

 野矢さんは「一人前の子ども」から、具体的にはどんな大人たちをイメージしているのでしょうか。もうちょっと語ってほしい気もしますが。みなさんは、どんな大人をイメージしますか。きっと野矢さんの目論見の一つには、読者の人たちにも大いに議論し語り合ってほしいという思いがあるように思います。それぞれに考える「子どもとは・・・」「大人とは・・・」を語り合うのも楽しい気がします。コロナ下ではありますが、こういう時だからこそ、そういう時間が本当は大切なように思います。(キヨ)

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 キャラメル一つ
 ポケット入れて
 この町ともおさらばさ。

 お母も、お父も、もういねえ 
 秘密をポケットつめたまま
 あの世におさらばしちまった。

 も少しいろいろ聞きたいが、
 それも、今ではかなわない。

 だけど、おいらは知っている
 二人の言えない秘密がなにか。
 だからおいらもキャラメル一つ
 ポケット入れて家を出る。

 二人がくれた甘い夢
 溶けて、とろけて、固まって
 おいらもきっちり持っていく。