mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

新しい生活様式、わかるけどしんどいなァ

 朝のテレビでは、東京の小池都知事が夜の仕事を中心に感染者が増えていることを話していた。仕事をしている人たちにしてみれば、生きていくためにはそうせざるを得ない、仕方のないことなのだろう。この間のさまざまな状況をみれば、それに伴うリスクもわかったうえでの仕事再開だと思う。でも社会のまなざしは、そういう人々にどうしても厳しくなる。それは夜の仕事に限らない。

 今朝、最寄り駅をおりて職場にむかって歩いていたら、登校する小学生たちが横断歩道のところにかたまっていた。今朝はちょうど、子どもたちの登校時間と重なったのだろう。先週からすでに学校は始まったが、こうやって多くの子どもたちの登校風景とぶつかったのは今日が初めてのような気がする。元気な子どもたちの姿を見るのは、それだけでこちらの気持ちも和んでくる。そんなふうに思いながら眺めていたのだが・・・。

 その中にいた女の子がひとり、その集団から背中を向けて離れていく。どうしたのだろう。ランドセルに黄色いカバーがかかっているところを見ると入学したばかりの1年生だ。すぐに、その子に気がついた3,4年生くらいの女の子が近寄っていく。1年生の子は、その3,4年生の手をぎゅっと握りしめたまま横断歩道のところからさらに遠ざかっていこうとする。二人は姉妹なのだろう。お姉ちゃんはちょっと躊躇して横断歩道の方を振り返った。そしてその時、やっと気がついた。この二人だけが、マスクをしていないことに。集団のところには、子どもたちの保護者の方もいるようだった。「マスクはしないとダメよ」とでも、その保護者の方に言われたかもしれない。二人の姉妹は、気まずそうにその場から離れていった。きっとマスクを取りに家に帰っていったのだろう。こういう状況下なのだから、仕方ないことなのかもしれないが・・・。帰っていく二人の背中を見送りながら、何とも切ない思いが残った。(キヨ)

センターも活動再開へ、エンジン全開!

 6月に入って、県内の学校もほぼ始まりました(またいつ何時、休業になるとも限らりませんが)。センターも5月後半から通常の勤務形態に戻っての仕事となっています。

 5月末の事務局会議では、4月以降中止となっていた定例の学習会を6月から様子を見ながら始めようということになりました。太田直道先生を中心に教育思想を読み進めてきたゼミナールSirubeは6月29日に行うこととなり、すでに研究センターのホームページには、その案内も掲載しました。また『教育』を読む会も、ホームページの案内はできていないが、27日に行うことに決まりました。
 毎回参加いただいているみなさんへの連絡はまだ行えていませんが、また学習会で会えるのが今から楽しみです。

 ところで先週は、『つうしん99号』の編集・校正作業に追われて、少々ばて気味でした。通常なら、つうしん発行は6月末から7月初めなので、この時期はまだそれほど忙しくないのですが・・・、ところが99号の内容をコロナウイルスと学校・教育とし、一日でも早く発行しようということになったのです。1か月というのは大げさですが、少なくとも半月以上は早い発行になりそうです。

 その檄を飛ばしたのは、現代表の数見です。初代センター代表の中森に負けず劣らず、現代表の数見もやると決めると即実行の人のようです。今まではあまりそうは思ってこなかったのですが。ここしばらく前からエンジン全開でセンターの取り組みを先頭に立って指揮牽引してくれています。さらに4月就任した新所長の高橋も、やるとなると何から何まで早い。二人が合わさることで、より一層物事のめぐりが早くなってきているような気がします。スロー・スターターの私は、お二人にあおられている感があります。しっかり二人について行きたいと思います。何はともあれ、センターにとっては頼もしいお二人です。

 今の調子で行けば『つうしん99号』は、来週前半にはみなさんの手元にお届けできそうです。ご期待ください。(キヨ)

宮城の教師たちがつくった『生活科教科書』誕生秘話

  ~『どうして そうなの』『ほんとうは どうなの』~

    f:id:mkbkc:20200603081515j:plain

 「季節のたより 51 ケヤキ」のなかで、ほとんどの学校から歯牙にもかけられなかった生活科の教科書『どうして そうなの』『ほんとうは どうなの』を取り上げている。30年も前のことだがうれしい。千葉さんは、この教科書の編集委員のひとりだった。この教科書についてこれまで何度も書いているので「いつまで・・・未練がましい」「シツコイ!」と思われることを承知で、とうに消えたこの教科書に関わることをまた書かせてもらう。今も変わらない、教科書・その採択の制度などを考えてほしいと今も願っているから。

 組合専従の3年間が終わって現場復帰したのは1977年4月。それから間もなくの夕方、私の教室に現れたのが現代美術社の太田弘さん。これが太田との付き合いの始まり。以後、会えば必ず長時間の教育論。どの学校でも、その枠に収まりきらず、同僚に迷惑をかけつづけていた私の生き方も、太田からみれば満足できず、繰り返しケンカをしかけてくる。
 太田は、「子どもの美術」を創ったときの思いを、「同時代に生きる人間として、私たちは、本当の意味で、思いやりのある、意志の堅い、そして、創造力のある子に、全国の子どもを育てたいのでこの教科書を・・・」と強調する。その子どもたちを育てることを生業としていながら、太田のような強固な思いがはるかにおよばない私は、いつもやられっぱなしであった。

 「子どもの美術」を創る前には、中学・高校の美術の教科書を創っていたが、それらの印刷に入ると、その絵の色に限りなく近づいたものに仕上げるために1週間ぐらいは印刷所に泊まり込むというのが太田の「実践」だった。
 太田の話の数々を思い出すと、かれの生き方のベースは、生活科教科書のタイトルにした「どうしてそうなの」「ほんとうはどうなの」にあり、それが教科書づくりのベースにもなり、美術の教科書創りに止まることができなかったのだろうと思う。

 80年代の中頃から、太田は、私たち宮城民教連の主催する冬の合宿研究会に参加するようになった。戦後初の新教科「生活科」誕生が言われ始めた頃だったように思う。
 88年1月、「冬の学習会」夜の部の終了後、例によって2人での話し合いの最中に突然、「新設される生活科の教科書を宮城の力で創りたいと思うので編集委員をあなたに任せるので頼んでくれ」と言ってきた。教科書を創るということなど考えたことはまったくなく、その作業を具体的に想像することができず内心大いに驚きながらも、これまでの太田との議論から言えば、思いつめた挑戦であることを感じ、引くことはできなかった。これまでの太田との話し合いから推しはかり、6人の仲間に声をかけ、引き受けてもらえた。

 編集会議は、さっそくその翌月の2月にスタート。ほぼ毎日曜日、ないしは土日の合宿というハードな作業がつづくことになった。
 出来上がった2年生の教科書は次のような文でしめくくられた(ことばを変えれば私たちの創った生活科教科書の願いのことばと言えるだろう)。

 うごきまわる 生きものも、うごきまわらない 生きものも、
 ちきゅうの 上で みんな いっしょに 生きて いる。
 人だけが とくべつな 生きものでは ない。
 人は うごきまわる 生きものの なかまだ。

 人は、人が かんがえた ことだけを 学ぶのでは なくて、
 うごきまわる 生きものの 生きかたや くらしかた、
 うごきまわらない 生きものの 生きかたや
 くらしかたからも 学ぶ。

 そして、人が どんなに しぜんに ささえられて いるかを おしえられて、
 みんなで どう 生きるかを かんがえながら、生きて いく。

 この文が編集会議で出てきたとき、太田はおそらく、この考えを前々から持ち、美術の教科書を創りながらも、この考えでの教科書を創りたかったのだろうと私はやっと気づいた。生活科が新設される、教科新設などはめったにない(小学1・2年生だけであろうとも、このチャンスを逃してはならない)と考えたのだ。
 当たり前のことだが、この最後にたどり着くために、その前の単元をどう組んでいくかが編集会議の仕事であったことは言うまでもない。
 以来この文を思い出すたびに、教科書編集では何ほどの役にたつことはなかったのに、しょっちゅう胸がつまるのだ。

 たとえば、今もなお世界中を揺るがしているコロナ禍では何度もこのページが浮かんできた。3・11直後、被災地で防潮堤工事やかさ上げ工事の土砂を運ぶダンプの隊列を目にしてもこのページが浮かんだ。クマやイノシシが里に下りてきて困っているというテレビニュースを見てもこのページが浮かんできた。原発汚染水を海に流すというニュース、3・11後もなお原発を再稼働するというときも、このページが浮かび悲しくなった。もちろん、その他いろんな場面で・・・。

 この教科書の検定結果を受けに、太田と2人で文部省(現在の文科省)に行った。まず初めに、教科書調査官から「検定審査不合格となるべき理由書」をもらった。「不合格」通知は覚悟の上だったが、この書面の「総評」欄には、

 本申請図書は、生活科の目標である具体的活動を促す内容構成をとっていない重大な欠陥があり、学習指導要領に適合せず、教材の選択に配慮不足や問題がある。全体として文章が多く且つ難解である。

 この「総評」につづいて「範囲」「程度」「表現」の欄があり、ほぼ同様のことが繰り返し記述されていた。
 そのうえで、ページを追って具体的な修正箇所が指摘され、1・2年合わせて100ヶ所を大きく超え、「もし、つづける気があるなら修正して75日以内に提出するよう」と言われて、その日は終わった。「13社からの提出があり、12社はほとんど問題なく、1社だけが大きく違っていました。その1社があなたたちのものです」と言われても、太田も私も驚くことはなかった。
 その後編集会議はつづき、再度提出。次の呼び出しでは、まだ30数か所の修正箇所が指摘され、以後は、太田と調査官の間で詰めつづける約束をし、かろうじて教科書になった。

 検定の山は越えても、採択の山はさらに厳しかった。教科書展示会場で「なんかいいように思うんだが、どう授業すればいいんだろうね」という話し合いを耳にした。加えて、採択制度の問題がある。これらを越えることはほとんどできず、なんと全国で2採択区と、学校採択になる私学だけでのみ子どもたちの机上に広げてもらうことはできなかった。

 最後に、1年生用の教科書の最後のページを紹介して、死んだ子の歳を数える繰り言を閉じる。

  いろいろな ひとが いる。
  いろいろな かんがえが ある。
  みんな いっしょに くらして いる。

  ほかの ひとの かんがえを
  わかろうと おもって かんがえてみると、
  じぶんの かんがえが ふかく なる。

  いろいろな かんがえを
  おたがいに かんがえあうと、
  みんな いっしょに たかく なる。
                               ( 春 )

よっちゃんと、コロナな日々のウン探し

 春さんにとって猫のリクは大事な家族のような存在だろうが、いまわが家にとって、ネコはちょっとした困りごとのタネになっている。そう、ネコの糞尿被害というやつだ。我が家の庭にときどき糞をして行く。私は花粉症のせいか鼻があまり利かないからそれほど気にならない。ところが、よっちゃんは鼻が利く。その利き方は人間存在を超えている。でもきっと、それをよっちゃんは公にはしていない。

 今の家に引っ越してくる前は集合住宅に住んでいた。その家に入居してすぐのこと、よっちゃんがガス臭いというのだ。私は違うガス漏れかと思ったが、そうではないという。でも台所やふろ場のガスは使っていない。どこからガスのにおいがするのだろう? 気のせいではないか。その時は、それで何となく終わってしまった。

 それから少ししてガス業者が点検にきた。台所の給湯器やガスコンロなどの点検をし終えると、特に問題はないと私たちに伝えた。よっちゃんは、先のことを思い出した。そして、実は今も臭いがするという。しかし、業者も私も特に感じない。それでも、よっちゃんは引き下がらなかった。この機を逃したら、もうこの問題はお蔵入りになってしまうと思ったのだろう。業者も、住人の執拗な訴えを軽視して、後で何かあったらと思ったのだろうか。無下にもできず考え始めると、一つのことに気がついた。この家の一部屋には今はもう使われなくなったガスストーブの引き込み口の栓があったことを。すごすごと業者が検知器をあてて測定し出すと、《あっ、ここから微量のガスが漏れてますね。》とぽつりと言い、そしてその栓をしっかりと締めなおしながら、《奥さんよく気がつきましたね。本当に微量な量で、普通はわかるような量ではないんですよ》と、苦笑しながら言った。よっちゃんは、自分の訴えが嘘ではないこと、また自分の鼻が人並み以上の能力を持っていることの証明からか、悦に入った表情を浮かべていた。
 その日以来、わが家では臭いについてはよっちゃんの右に出る者はいないということになった。出る者がいるとしたらジミーちゃんぐらいかも・・・。

 そのよっちゃんが、いま頭を悩まされているのが冒頭のネコの糞尿問題なのだ。このことは町内会でもときどき問題になってきていたが、わが家では問題になるほどではなかったのだが・・・。ここに来て、よっちゃんの我慢の限度を超えたのか、臭いがする臭いがすると言っては、庭を歩いてその匂いの原因となる証拠を探すようになってきた。あまり神経質になられてもと思い、《いや、ネコがウン(運)を落として行ってくれてるんだから》とか、《きっと、この家はネコが安心していられるとてもいい場所なんだよ》と言ってみるも、気休めにならないらしい。いや、そう言う私の一言がさらに神経を逆なでしている節もあるのかもしれない。

 ということで、昨日は朝早くから庭に出てのウン探し。その収穫はなんと6つ、そんなにしていたとはビックリ。その成果に、よっちゃんは困り顔ながらも、自分の能力の確かさにご満悦のようだ。この状況、いつまで続くことだろうか。

 どなたかよい解決法があったらお知らせください。(キヨ)

コロナな日々に、負けずにトライ!

 河北新報の持論時論に掲載されなかったと悔しがっていた瀬成田実さん、それならDiaryに載せるのはどう?と声をかけて掲載しましたが・・・。やっぱり瀬成田さんは、人知れず諦めないんだなあ。何度でもトライ!なんですね。知らぬ間に、次の投稿を送っていたとはスゴイ!。
 5月25日付の河北新報『持論時論』に以下の投稿が掲載されました。瀬成田さんの念願かなった投稿です。すでに読んでいる方もあると思いますが、ぜひ前回分(夏休み短縮でよいのか ~ 子どもや教職員の声を ~)も含めてお読みください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  再開後の学校づくり 子ども不在 意見尊重を

  新型コロナウイルスの影響で、各地で小中学校の休校延長が繰り返された。9月入学や始業の議論も起きている。私は学校現場の課題について子どもの基本的人権を守る視点から意見を述べたい。
               ◇    ◇    ◇ 
 一つ目は、子どものストレスの問題である。子どもたちは3月から続く休校で「家から出るな」「友だちと遊ぶな」と言われ、ストレスを相当ためている。学校が再開しても「給食中はおしゃべりをしない」など、さまざまな制約の中での生活が続く。

 そして短い夏休み。土曜授業や7時間授業も始まるかもしれない。そうなると、子どもの負担は一層増す。中学校総合体育大会の中止や行事も削減となれば、学校生活から楽しみがなくなり、物事に全力で向っていくことや、みんなで力を合わせることの大切さを学ぶチャンスも減ってしまう。
 子どもを追い詰めてしまえば、不登校の増加も懸念される。子どもには余暇の権利や遊ぶ権利がある。再開後の学校は、学力の保障ばかりに偏らないようにしたい。

 二つ目は、学校の教育活動の決め方についてである。この間の動きをみていると、私は子ども不在で議論が進んでいるように感じる。もっと子どもの声を聞こうではないか。「夏休み短縮は必要?」「中総体ができない分、どんなかたちで部活を締めくくりたい?」「感染を避けながら文化祭をするにはどんな知恵を出すといいかな?」「修学旅行が中止になったら、代わりにしたいことはないかな?」などと、子どもに問い掛けて子どもの声を尊重しながら計画や行事を決めていくのである。これが子どもの「意見表明権」を大事にするということではないだろうか。
               ◇    ◇    ◇
 さて、9月入学の議論についてである。全国一律9月スタートであれば、公平性は担保される。しかし、社会システムの改革なしに9月入学の実施は現実的ではない。学校現場の喫緊の課題は、消毒液やマスクの確保、教室内の過密解消、エアコン増設など、再開に向けての対策強化である。今、行政は、子どもたちの生きる権利や健康の権利の保障にこそ、エネルギーを割くべきである。

 最後に私は提案したい。子どものための教育課程づくりをすべきだ、と。新学習指導要領はそもそも内容が多過ぎる。これに子どもを合わせようとすれば、子どもはパンクする。まず、学校では思い切った学習内容の精選や工夫をする。次に文部科学省が休校期間に見合う学習内容を小1から高3まで範囲を示して削減する。さらに高校入試や大学入試では、削減した単元を範囲から除外する。

 このような対策を講じないと、夏休み短縮や授業の上乗せ、土曜授業の議論になってしまい、学校生活に潤いがなくなってしまう。教育委員会は至急、学習内容の削減を文科省に要請してほしい。

 再開後の学校づくりは、子どもの権利と意見を尊重して進めたい。教育委員会にも、子どもの「最善の利益」はどうあるべきか考えてほしい。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 掲載後に電話で瀬成田さんと話した際、冒頭の文章にある「基本的人権」は、元々は「子どもの権利条約」だったそうです。新聞社で判断して変えたのでしょう。瀬成田さんは、そのことにこだわっているようでした。

 そのこだわりを聞いて、瀬成田さんはすごいなあと思いました。書かれている内容は(「意見表明権」第12条、「遊びの権利」・「余暇の権利」第31条)です。タイトルの「子ども不在 意見尊重を」からいって、まずは「子どもの権利条約」がふさわしいし適当だと私も思いました。コロナによる一斉休校以降、もっぱら語られるのは「学力」のことばかり。こどもたちの遊びや余暇の権利はほとんど語られません。「基本的人権」は、人が生まれながらにして誰もが持つ権利で、もちろんそこには子どもも含まれるわけですが、子どもを固有の存在として認め、世界の子どもたちの置かれた厳しい現実を踏まえつくられた条約であることを考えれば、やっぱり「子どもの権利条約」だよねえ~という気がします。
 瀬成田さんのそういうこだわり、とても大事だと思いました。

 最後に、この間の学校再開への動きを見ていると瀬成田さんの言われるように「子ども不在」だと思いますが、同時に働いている「教職員不在」でもあるように思います。瀬成田さんはもちろん、それ以外の先生方もどんどん教師としての思いを語ってほしいと思います。大いに期待してます。(キヨ)

季節のたより52 マイヅルソウ

 葉の形は鶴が舞う羽の姿
    赤い実は「いのち」の最期の輝き

 マイヅルソウの花と初めて出会ったのは中学生のときでした。
 田舎の中学校で理科の教科担当をしてくれた若い男の先生は、よく私たち生徒をひきつれて故郷の山々を歩きまわってくれました。
 いつものように山道を歩いて山頂につき、草むらに腰をおろすと、目の前に小さな白い花が一面に咲いていました。先生はその花を指さし
 「これは『鶴が舞う草』、マイヅルソウっていうんだよ・・・・・」
と、花の名前を教えてくれました。
 遠い昔のことは忘れてしまっているのに、そのときの花の名前とその情景はなぜか覚えています。花とか、鳥とか、空の色とか、身近な自然に目を向けるようになったのは、この日からのような気がするのです。

f:id:mkbkc:20200525175504j:plain
  マイヅルソウはキジカクシ科の多年草。5月から7月頃に花を咲かせます。

f:id:mkbkc:20200525175542j:plain f:id:mkbkc:20200525175606j:plain
 マイヅルソウの立ち姿       特徴のある形の葉と白い花

 少年の頃に初めて意識して覚えたマイヅルソウに再び出会ったのは、それからずっとあとで大人になってからでした。
 仙台に住むようになり近くの里山を散策しているうちに、コナラやカエデ、モミなどが混生するやや日当たりのいい林床で、覚えのある葉と白い花の群落を見つけたのです。調べてみるとマイヅルソウでした。その群生地をときおり訪ねては、四季の姿をながめるようになりました。

 マイヅルソウが芽を出し始めるのは早春、スミレやカタクリの花が満開の頃です。
 その芽はちょっと変わった巻物のような芽で、地面の落ち葉を押し上げ突き破るように出てきます。地上に出ると、その芽は巻いていた葉をくるくる開いて、大きなハート形の葉になるのです。葉の色は優しい緑から深い緑色にかわっていきます。

f:id:mkbkc:20200525175948j:plain f:id:mkbkc:20200525180003j:plain
   落葉を突き抜ける芽          巻物が開くように広がる葉

 マイヅルソウの葉は独特です。根もとにくぼみのある大きな楕円形で、葉先がスッと尖っています。葉の葉脈がくっきりしていて、真上から見ると大きな弧を描いて美しく、その葉が節ごとに違う方向に交互についているので、ちょうど鶴が羽を広げて舞う姿を連想させます。それでマイヅルソウ舞鶴草)と名づけられたのでしょう。

f:id:mkbkc:20200525180131j:plain
     鶴が羽を広げて舞う姿を連想させるマイヅルソウの葉

 マイヅルソウの花は小さな白い花。葉の根もとのわきから茎を伸ばして、その先に緑色のつぼみを穂状につけます。つぼみは一度に開かず、下の方から上へと順番に開いていきます。そうすることで花期を長く伸ばしているのでしょう。
 開いた小さな花をよく見ると、花びらが後ろにそり返り、雄しべは飛び出しています。小さな花を大きく見せる工夫でしょうか。
 花の白さが葉の緑に映えて、かすかに花の香りも漂います。小さな白い花たちがワイワイ集まって、いかに虫たちを呼び寄せるか苦心しているようです。
 花芽をつけた花の茎は鶴の首のようで、開花した白い花は鶴の羽の白さを象徴しているようです。

f:id:mkbkc:20200525180220j:plain f:id:mkbkc:20200525180242j:plain
 葉の上に咲くマイヅルソウの花。   そり返る花びらが4枚、飛び出すおしべ
 つぼみは下の方から咲いていきます。 は4本。めしべは花の中心に1本です。

 植物図鑑には、「マイヅルソウは丸い小さな実をつける」と書いてありました。
 里山の雑木林で出会ったマイヅルソウは、どういうわけか何年通ってもその実を見ることができませんでした。

 何年か過ぎて、マイヅルソウとまた思いがけない場所で出会うことになります。
 栗原市の築館から温湯温泉に向かい、秋田の湯沢にぬける国道398号線を車で走るとブナ林が続いています。県境付近の国道わきの山道を少し入ると、ブナ林の林床でみごとな群落が広がっていたのです。
 6月の半ば、ブナの若葉からこぼれる光をうけて、マイヅルソウはのびやかに葉を広げ、白い花をたくさんつけていました。落ち葉の下を掘り起こしてみると、茎は横走する根茎から出ていて、長く広く地下を這って仲間を増やしていました。

f:id:mkbkc:20200525180700j:plain
       ブナ林の林床に広がるマイヅルソウの群落

 7月、秋田・岩手・宮城の3県にまたがる栗駒山に登ったときでした。頂上をめざす登山道で、再びマイヅルソウの群落と出会います。登山道の片側、崖の斜面一帯がマイヅルソウの群落地で、花は咲き始めたばかり、小さい虫たちが集まっていました。里山に咲く花とはふた月も遅い開花です。
 風雨にさらされ高山の厳しさに耐えて花を咲かせたのでしょう。ここでは登山道に咲くイワカガミやヒナザクラとおなじ高山植物の持つ美しさがありました。

 私は最初マイヅルソウは平地に咲く花と思っていましたが、そうではなく、低山から亜高山まで広く分布していました。咲いている自然環境によって、花の印象もまったく違うものになることに驚きました。

f:id:mkbkc:20200525180741j:plain
     岩場の崖の斜面に広がるマイヅルソウの群落

 数年がすぎて、ある年の8月、北海道の函館に出かけたときのことです。
 近くの駒ケ岳をのぞむ大沼国定公園の湖の岸辺を散策していたら、うずらの卵に似た斑入りの実が目に入りました。実をつけた草花の葉はどこかで見たような気がします。少し大きめですがマイヅルソウの葉のようです。「これは、マイヅルソウの実かもしれない」そう思ったのですが、旅の途中、確かめようがありませんでした。
 あとになって、マイヅルソウは「花の百名山」(田中澄江著)では九州の韓国岳(からくにだけ)で紹介され、九州から北海道までに広く分布している花と知りました。

f:id:mkbkc:20200525180835j:plain f:id:mkbkc:20200525180915j:plain
  大沼公園で見つけた葉と実       斑紋いりの実と赤くなりかけた実

 あのときに見た実がマイヅルソウの実とはっきりと確信できたのは、2、3年あと、蔵王連峰の刈田岳に登ったときでした。。
 10月半ば、刈田岳山頂付近はもう寒くなりかけていました。
 山頂の東斜面を下っていたら、枯れ草の中に何か赤いものが光っています。近寄ってみると、枯れた花の茎に赤い実がたくさんついていました。その中に斑紋のある実と赤い実が、黄葉した葉と一緒にあったのです。黄葉した葉はまちがいなくマイヅルソウの葉でした。

 熟した赤い実は透き通りルビーのようです。小さな白い花のみごとな変身です。
 マイヅルソウは「いのち」の最期を輝かせ、鳥たちが訪れるのを待っていました。

f:id:mkbkc:20200525181354j:plain f:id:mkbkc:20200525181408j:plain
  黄葉した葉と斑紋のある赤い実     熟して透明な実は、ルビーの輝き

 「マイヅルソウ」の名を覚えてからずいぶん年月が立ちましたが、やっと花の姿が私には見えてきたように思いました。
 地面からの芽生え、小さなつぼみに白い花、赤い実。鮮やかに黄葉してやがて朽ちる葉。どれもが、生まれてから地に伏すまでの、瞬時を生きるマイヅルソウの「いのち」の姿でした。
 マイヅルソウという花の名を聞くと、その時の土のにおいや空気、光や風を感じます。まわりをとりまく草花や樹木の姿も浮かんできます。
 それは、図鑑や映像ではとても得られない感覚なのです。

f:id:mkbkc:20200525181539j:plain
   黄葉した葉が朽ちても、赤い実は茎についたまま、遅くまで残ります。

 花フェスタ公園などでは、色とりどりの花々がつくられた環境に大量に植えられて、多くの人をよびよせています。その花々は華やかに咲いていますが、種がこぼれて育った土地のにおい、光や風を感じさせることはありません。
 花を眺めに訪れた人は、そのキレイさに心楽しく慰められることがあっても、花が終わると抜きとられ、朽ちて大地に戻ることのない花の「いのち」に思いをはせることはないでしょう。
 人は、いつの間にか、花々を「いのち」あるものではなく、人間の楽しみや慰めのための「モノ」のように考えるようになってしまったようです。

 自然の大地で育つ草花や樹木たちは、生まれては花を咲かせ、種を残して朽ちていく姿を見せています。その姿を見ていると、人のいのちと植物のいのちがおなじ自然の一部であることに気づかされるのです。(千) 

◇昨年5月の「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

コロナな日々の、小さな喜び

 新型コロナウィルスの感染拡大のなか不自由な生活が続いている。研究センターも同様だ。例年なら《こんなことをしよう、あんなことをやろう》と新たな取り組みや企画が動き出している時期だが、4月以降さまざまな学習会や企画、あるいは会議が中止となって、例年とは異なる日々が続いている。

 しかし、例年と違う日々はけっして悪いことばかりではない。いつもと違うからこそ見えてくるもの、聞こえてくるものがあったりする。その一つは、4月発行の 『センターつうしん98号』に、読者からの感想や思わぬ反応(出来事)が次々と寄せられていることだ。

 小学校教師の近藤彩香さんは、5年生の子どもたちと東日本大震災についてなど、1年間にわたり取り組んだ内容を「未来へのトライ」と題し寄せてくれた。発行して間もなく県内の大学研究者から「文章がとてもよく、思わず感想を書きました。もしよければご本人にも送って頂けないでしょうか?」との、感想のメールが送られてきた。早速本人へ渡しに行くと、他にも同僚の先生などからも「読んだよ!」という連絡や感想が寄せられているということだった。

 同様に、山極寿一さんの高校生公開授業について「ゴリラの住む森から学ぶ非言語の世界の広がり」と題し寄稿してくれた里見まり子さんにも、東京で教師をする教え子の方から感想が寄せられている。つい先日も、この高校生公開授業を楽しみに毎回参観してくれている読者の方からお電話をいただいた。つうしんを読んで、改めて山極さんの授業内容の豊かさを感じたとのことだった。

 さらに今回は、前例のない初の出来事があった。つうしん読者の先生からある日メールが届いた。メールには、次号の「わたしの出会った先生」の原稿にどうだろう?と書かれていた。どういうことか事情を聴くと、友人が職場にあった『つうしん』を読んで《私にも心に残る先生がいる》との話になり、後日、その友人がその心に残る先生のことについて手記を書いて持ってきてくれた。それで、ぜひ「つうしん」にどうだろうということなのだ。
 読者の方から、このような申し出をもらうのは初めてのこと。とてもうれしくて、一も二もなく次号に載せさせてもらうことにした。 

 外出自粛のこの4月後半から5月GW明けにかけては、次号(99号)の『センターつうしん』の内容をどうするか、誰に執筆を依頼するかなど最終的な詰めに追われたが、今は目途がついてほっとしている。
 ちなみに次号の内容の中心は、やはり、このコロナ禍の「学校と教育」ということになった。と同時に、今回の読者の方々の感想なども生かした紙面にする予定でいる。( キヨ )