mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風27 ~私の遊歩手帖11~

ゴッホの手紙』とやっと出会う4

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 小林秀雄の『ゴッホの手紙』への寄り道遊歩の報告をいささか記そう。

 同書は、次の彼自身のゴッホ経験、ある日新聞社主催の「泰西名画展覧会」に出かけ、ゴッホが自殺直前に描いたといわれる「「カラスの群れ飛ぶ麦畑」の精巧な複製に出会い、その時、《彼の絵を見ることは彼によって見られることである》という経験をしてしまったという報告から始まる。

「むしろ、僕は、ある一つの巨(おお)きな眼に見据えられ、動けずにいた」[1]

 ここでいう「一つの巨きな眼」については、同書でこう説明もしている。その一節は、彼のゴッホへの関わり方の特質を端的に示すものでもある。いわく、

 ――自分にとっては彼の絵は「非常に精神的な絵」、さらにいえば「絵というよりも精神」として「感じられる」と[2]、それというのも、自分が彼に興味を抱いたのは何よりも「彼の書簡集」を通して、いいかえれば彼の「執拗を極めた自己分析の記録」に触れることによってであったからだ、と[3]。そして、ゴッホのおこなった「自己分析」の特質を「現代の心理学的風潮」(おそらく精神分析学を指すであろう、清)の為すそれとは根本的に異なり、彼にあっては、分析対象となる「外部化」し得る自我はことごとく棄てられるのであり、彼が求めるのはいうならば自我を得ることではなくして、どのようにしても対象化=「外部化」し得ぬ「精神」に行き着くことであったとし、くだんの「一つの巨きな眼」とはこの彼の「精神」にほかならなかったとする。

 この点で、わざわざ、彼はこう断ってもいる。

 ――ゴッホを「表現主義絵画の先駆」とみなすのは「一般に承認されている意見」であるが、「そういう見方」は「あまり私の興味を惹きませぬ」[4]、絵画の美学的意識の歴史的変遷と関連づけてゴッホを論ずることは自分の関心の圏外にある、と。

 だが、私からすれば、別に美術史的うんちくを傾けよという意味ではなくて、その画家の絵が自分に与えた美的印象と、その画家自身がどういう創作意識をもって絵に取り組んでいたかということについての強い関心、この二つをあらためて自分のゴッホ論のなかで突き合わせ、画家としてのゴッホが描き出そうとしたいわば世界感覚、世界感情の在りようの特質を浮かび上がらせる批評の作業、これは「ゴッホの手紙」を論する際に不可欠となる作業であるはずである。

 この点で、私には小林の同書の視点――ゴッホの書簡集を小林いうところの「精神」の開示を示す「執拗を極めた自己分析の記録」としてだけ読むという――はあまりに文学主義的だと映り、それは次の危険に迷い込んでいると思われる。すなわち、初発に小林自身が抱いたゴッホに対する直観を思索の過程で検証し直すという過程、つまり対象相手を本当に自分は理解し得ているのかという問いに導かれた事あらためての対象相手への探索(対話)が同時に初発の直観への自己検証(対話)ともなるという両面的な対話過程、これが欠け、ひたすらに相手を自分の直観のなかにくるみ込む評論者のナルシシズムが遂に勝ちを占める、こうした危険に。

 あらゆる思索行為の出発点は、「これこそが相手・対象の孕む問題核心である!」との強い直観力である。その思い込みがなければ、いかなる思索も自前の思索として強力に駆動されるはずがない。だが思索するとは、まずそこから出発して、しかし、この自己の為した直観の是非をまさに相手・対象との対話を通して執拗に検証することである。核心を握ったはずのことが実はまさにその反対で、核心を取り逃がす決定的な誤りであったという場合、実はそれが多々あるということ、この自己懐疑の契機を、しかし文学主義的思い上がりが無化する危険、これが問題である。

 実は、この生きた実例に出会ったということが、私の小林への寄り道遊歩の収穫であった。
 結論が先に来てしまった。以下、いささかその問題を小林に即してメモしておきたい。

 まず私の側の小林批判の中心点を一言でいえばこうだ。
 第一点。くだんの「ある一つの巨きな眼」を小林は、ゴッホを自殺へと追い詰める裁きの眼、つまりかの「執拗を極めた自己分析」を駆動させ司る裁判官の苛烈な暗き眼、永遠なる罰を下し、被告人を死に追い遣る暗き眼として捉えている。
 だが私にいわせれば、そう捉えることは、ゴッホがあれほど敬愛したイエス七転八倒する人間の苦悩の只中に「慰安」をこそもたらしてくれる「無限性」の神たるイエス、彼を裁きの神たるヤハウエと取り違えることである。その眼の「巨(おお)きさ」がゴッホにとっては「無限性・永遠」を意味し、かつその「無限性・永遠」とは「汎神論」のそれだということ、それはまさに色彩の多様性と光性を塗りつぶす暗黒な闇夜の眼であるどころか、反対に光の眼であり万物に色彩を取り戻させる太陽の眼であること、この肝心な点を小林は取り落とす。

 第二点。小林は、色彩に関するゴッホの思想を論ずるにあたって、まず彼の作品「馬鈴薯を食う人々」の基調となる暗褐色について記した次の手紙(No.405)の一節を引いている。ゴッホはこの色を採用したことについてこう書く[5]

色は、もちろん、掘りたての泥だらけの見事な馬鈴薯の色だ。こういう仕事をしながら、ミレーの百姓についてのあの言葉、彼の百姓は、種の蒔かれる畠の泥で描かれたようだ、という言葉が、いよいよ正しいと考えた。屋内であろうと野外であろうと、働く百姓たちを見ている時は、僕はわれ知らず、絶えず、この言葉を思い出していた。  

 また続けてこうも書く。いうならば、ミレーは彼が彼の世界の色とした馬鈴薯色で雪景色を描くであろうし、人々はその馬鈴薯色を雪原の白と感じるだろうと。

僕は確信しているが、ミレーとかドービニイとかコローという人たちに、白を使わず雪景色を描いてくれと言ったら、彼らはきっと描くだろう。しかも画面の雪は、まさしく白く見えるだろう。

  ところで、小林は上の一節を受けてこう続ける。――「これが、早くからゴッホの信じた色彩の観念である。《馬鈴薯を食う人々》で現わしたかったものは、『一つの真面目な思想』なのだと彼は言う。思想が色を決定するのである。音調が音楽家の個性によって定まってしまうように、色調は画家の内的なものの命ずるように構成される」と[6]

 さすが、小林である。彼は印象主義ゴッホ表現主義が決定的にのりこえる地点、まさに「思想が色を決定する」という核心を見事に捉えた。

 とはいえ、彼は次の点を捉え損ねている。すなわち、ゴッホの最終的な表現主義的色彩論は、晩期において、まさにアルルの太陽の光を浴びた、生命力に溢れかえる多彩な色彩の交響楽としてくりひろげられる風景、その風景に現出する透明で明るい光に満ちた「幸福」な、いうならば「汎神論的無限性」を享受することによってこそ、決定的に開花するという点を。

 敢えて、私は「捉え損ねている」と評したい。小林とて、ゴッホにおけるアルル体験の意義について言及しないわけではない。だが、彼の理解はこのアルル経験の決定的性格を浮き彫りにするところまでには至らない。私はこう言いたい。彼のゴッホ論は作品「馬鈴薯を食う人々」を核心に据えることによって、ゴッホが真にゴッホとなるのはこの作品を超える、ただアルルの風景だけが彼に与えることができた「汎神論的幸福感・救済感情」を梃子にすることによってである、と。かつての絵「馬鈴薯を食う人々」の画面を覆おういわば世界色としての馬鈴薯色はアルルの洗礼を浴びた晩期ゴッホにとってはもはや彼の世界色、小林的にいえば彼の「思想」色ではないのだ。

 ここで、ミレーに関するゴッホの言葉を一つだけ引いておこう。

ミレーの種まきの方は灰色で色がない。(中略)ところで種まく農夫を色では描けないものだろうか、(中略)無論、可能だ。(中略)ではやり給え、(中略)さあ、やってみよう、(中略)それでもよい絵が描けるだろうか。でも、勇気を出そう、そして希望を失うまい[7]

 しかしながら、小林の視点からは、かかるゴッホの「勇気」は自殺に追い詰められたゴッホの一種の強迫観念となった「忘我」欲望の強がりにしか過ぎないのである。小林はこう言う。――「アルルの太陽も青い空も燃える大地も、ドレンテ(オランダでの居住地、清)の百姓画家の精神を変えることができなかった」[8]。「アルルの光と色との裡に、幸福があり陶酔があったが、それは画家のものというより、むしろ戦い(己自身との、「執拗なる自己分析」という、清)に駆り出された兵卒を時折りみまう忘我のごとく脅迫されたものであった」[9]

 まさに私と正反対の視点、これが小林の視点なのだ。

 なお読者には、ここで私が前号で紹介したゴッホのベルナール宛の第八信に記されたアルルの草原をスケッチしていたときに見物に立ち寄った或る兵卒とのやり取りを思い出してほしい。その時、その兵卒は、草原の大洋の如き風景のなかに、それに包まれている人間の姿を挿入するゴッホの絵を見て、草原よりももっと美しいと述べ、それを聞いてゴッホはその兵卒の観点を自分よりもいっそう「芸術家」的だと賞賛したのであった。つまり、ゴッホは、まさに「芸術家」の使命を次の媒介者的役割の遂行のなかに見ていたのであった。すなわち、風景が体現する「汎神論的幸福感と救済感情」こそを苦海を生きる人間たちの「慰安」へと媒介せんとするイエスの思想と実践(まさに「芸術家」としてのイエスの)、それを学び模倣し、まさに「イエスの如く生きる」ことを己の信条とすることを。

 だが、小林はこの文脈をまるで捉えていない。

 もう一例を引こう。小林は、ゴッホの自殺について論じる際に、死の前年、ゴッホが精神病治療のために入院していたサン・レイ病院の「鉄格子越しに」熟れた麦畑を眺めながら書いた手紙の一節、すなわち、「純金の光を漲らす太陽の下に、白昼、死はおのれの道を進んで行く」との一節、これを一年後の自殺を予言するものとして引用し、こう述べている[10]

彼は、「自然という偉大な本」が、死の影は、生の輝きの至る処に現れて、「ほとんど微笑している」と語るのを聞いた。この作画動機は、彼の後期の絵の明るい透明な色調の持つ、言うに言われぬ静けさに繋がるように思われる。再び、夏は、オーヴェルの野にめぐって来た。「これを描いている僕の気持ちの静けさは、どうやらあまりに大きすぎるようだ」と彼は母に書く。彼は大発作後の平静期が終わりに近付いていることを良く知っている。

 私の「汎神論的幸福感と救済感情」という視点に立てば、上の一節は文字通り、それを指し語るものである。この視点を直に己の救済思想の核心に据える仏教の言い方を援用すれば、こうなろう。道元の『正法眼蔵』のなかにこうある。それは汎神論的無限性の観点に立てば生と死は絶対的循環の回路のうちに捉えられるが故に生死の区別は無意味化するとの主張である。 

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かかるがゆえに仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。
(生から死へと移ると発想することは誤りである。生は一つの時間の次元であって、その前と後の次元が既に前提されている。だから仏法の見地からすれば、生は同時に生あらざるものである。滅も一つの時間の次元であって、その前と後の次元がある。だから滅はいいかえれば不滅なのだ。――清による現代語訳)。

  私見によれば、明らかにゴッホは汎神論的宇宙観が呼吸するこうした生死観、すなわち、宇宙の体現する生死の永遠なる絶対的な循環性が示す生命美の偉大なる景観に触れ、そこに湧きおこる法悦感によって生死の区別に固執する我の意識を忘れ去るならば、これまであれほど苦しんだ死の不安も生の苦痛も消滅するはずだという生死観、この生死観を彼流にここで語っているのだ。「死の影」は、今や大洋の如き熟れた夏の麦畑の美に法悦する自分にとっては「生の輝きの至る処」に随伴する、必須の「微笑」に変貌した、と。

 とはいえ、小林は、この一節を「自殺への予感」という文脈で解釈し、私がくりかえし指摘してきた「汎神論的幸福感と救済感情」という問題の環も、また前号で縷々示したゴッホの仏教への明確な言及も、それにこそ関わっての日本の浮世絵の美学へのゴッホの関心の切実さも一切取り上げることがなく、ひたすらにゴッホの絵を支配するのは《ゴッホを自殺に追い詰める苦悩=「一つの巨きな眼」》という自分の初発の直観に固執するだけなのだ。

 この寄り道小報告では、紙数の関係で勢い論述の仕方は「結論」優先主義にならざるを得ない。実は「さすが小林!」と言いたくなる箇所や、私の言う「汎神論的幸福感と救済感情」という概念規定に実質的に重なりかける記述も取り出せる。たとえば、彼はこう指摘する。

彼には自然とは不安定な色彩の運動ではなく、根源的な不思議な力で語りかける確固たる性格なのであり、人間も、この力との直接的な不断の交渉によってのみ、本当の性格を得ると彼は信じてきた[11]

 とはいえ、上の節にいう、人間に「本当の性格」を与えることになる自然力との「直接的な不断の交渉」は、小林の場合常にあの絵「馬鈴薯を食う人々」が代表するオランダ時代におけるそれに結局は引き戻され、アルルにおける「汎神論」的「交渉」はゴッホゴッホとして定義する決定的なテーマとなることはないのである。何度もいうが。

 最後に、小林を支配している「ゴッホ自殺念慮に取り憑かれた男であった」との思い込み問題に触れておこう。

 実はつい最近のことなのではあるが、ゴッホ自殺説に対する強力な疑義、彼は自殺したのではなく村の不良によって射殺されたのだという他殺説が登場している。ゴッホの晩年を主題にした最近話題の映画『永遠の門』は他殺説に立ってゴッホの死を描いた。いまのところゴッホ美術館は従来の自殺説を事実とみなしているが、この他殺説を展開する本は幾冊も出ている。2011年に刊行されたスティーブン・ネイフとグレゴリー・ホワイト=スミスとの共著による『ファン・ゴッホの生涯』はその決定的な嚆矢となったと評価されているという。また、この書を裏付けとして、2016年にフランスでマリアンヌ・ジェグレの小説『殺されたゴッホ』が出版された。

 なぜ、この他殺説が有力なそれなりに説得力ある推測として登場するに至ったかをこのマリアンヌの小説の幾つかのシーンを紹介することで示そう。

――1980年7月27日、夕食に降りてこないゴッホを心配して宿主のラヴーが部屋に上がってみると、ゴッホはベッドで身を丸めている。しかも上着に血が滲んでいた。ラヴ―が仰天して「どうした」と声をかけると、ゴッホは「畑で自分を傷つけました。医者を呼んでくれ」と答えたという。ラヴ―はちょうど避暑のために別荘暮らしをしていた産婦人科医マズリを呼び寄せ、すぐ後にゴッホの精神的治療の主治医を務めていたガシェも駆けつける。ピストルで撃った弾の小さな弾痕があり、弾は胎内に留まったままで、摘出が急がれるが二人の医師は外科の技術を持たない。ガシェが「自殺を図るなんて」と口にすると、マズリはこう反論する。小説はその時の彼の反論をこう書く。

 ガシェは驚き、ますます不安顔になった。「しかし、自分でやったと本人が言ってるし」と言いかけると、マズリがそれを遮った。⁄「先生もご存じでしょう。自殺ならまず頭を撃ちます。腹を撃ったりしない」(中略)死のうとする者が腹を撃つというのは筋が通りません」⁄「心臓を狙ったが、弾はそれたという可能性は」⁄「あの患者は右利きですか? 左利きですか?」⁄「ああそうです右利きです。絵筆を右手で持っていました。それが何か?」⁄マズリは右手を左のほうにもっていき、人差し指と中指を自分の左の脇腹に向けてみせた」。「先生もやってみてくだざい。こんな格好で引き金がひけると思いますか?(中略)それから、こんなに近くで撃ったなら上着にもシャツにも焦げ跡がるはずですが、それがありません。そもそもこの距離から撃ったら弾は貫通するはずです」。[12]

 次のシーンも書かれる。警官がやってきて瀕死のゴッホに尋ねる。

 「ピストルはどこで手に入れました?」と。(中略)「誰のせいでもありません」とかすれ声で言った。そしてまた眼を閉じ、ぐったりと枕に頭を預けた。(中略)「ポントワーズの鉄砲商に行ったかもしれませんね」⁄「そりゃないでしょう」とラヴ―が言った。「ポントワーズまでは何キロもあるし、行ったんなら誰かが見たはずですよ」⁄「しかしそれでは説明が付きません。この村の銃の所持者は限られていますから。(後略)[13]

  もう一つ次の場面もある。パリから駆けつけた弟テオのいぶかしむ気持ちがこう書かれる。

フィンセントはピストルなどもっていない。一度も手にしたことがない。それ急にどこから現れたのか、誰か教えてくれ! (中略) それに・・・・・・自分を撃ったというのも納得できない。最近はすべてがいいほうに向かっていたし、兄は自分の絵に自信を取り戻していた。だから自殺など考えられない。だがこうなったら。兄を良く知らない人や病人としてしか思っていない連中はほら見たことかと言うだろう[14]

 そして葬儀に来る弔問客を迎えるゴッホの代わりにと、またゴッホを送り出す花飾りにと、ベルナール ――ゴッホの書簡集において弟テオに次ぐ信頼すべき文通の相手であった―― がゴッホの宿泊部屋をつい数日前までゴッホがこの地で描き続けていた遺留の作品群で飾りおえた瞬間の様子がこう書かれる。

絵を順にかけ、後ろに下がって出来栄えを眺めた。すると部屋が黄金に輝いて見えたので驚いた。白い壁が向日葵の力強い黄色を受けて光っている。そしてその黄色こそ、フィンセントが人生のすべてを賭けたものだったとベルナールは知っている[15]

 ここで最後に、小林秀雄について一言しておこう。彼の知ることのなかったことは、まさにベルナールが知る、このことである、と。小林はゴッホのアルルでの絵を、かの「カラスの群れ飛ぶ麦畑」一枚だけを残してすべて彼の視界から追い出す。ベルナールもテオもそのようなことはしない。彼らがすることは、それをもまたアルルの色である「黄色」のなかへと取り込むことである。何故なら、「汎神論」的な色彩の宇宙にとって黒はそのかけがえのない一契機、「生命」の光に随伴する「死の微笑」だからだ。くだんの小説はテオにこう言わせている。

カラスの群れはあの絵に欠かせない存在であり、風景と一体になっている。あの黒があるから全体が生きている。あの絵を満たす黄金と均衡をとり、それを引き立てているのは黒いカラスだ[16]

 しかも次の問題がある。それは、やはりゴッホの死は他殺ではなく自殺によるものだとしても、まさにゴッホゴッホたらしめた彼の晩期の作品の放つ印象と、それを支えた彼の「無限性と慰安」の思想、ならびに自己の抱えた精神病理の根底を「修道僧的(まさに無限性のなかの慰安を希求してやまない、清)でもあり画家的でもあるというような二重人格的要素」に見る彼の自己診断(参照、私の遊歩手帖8)は、明らかに彼を自殺へと決定づけるものではなく、逆に、最終的に自殺衝動からの解放を方向づけるものであり、たとえ自殺が事実であったとしても、それはほとんど衝動的な躓きであり、彼はこの衝動からの解放を得る十分なる可能性を育て得たと解釈すべきである、という問題が。

 *付言 この小説についてもう一点つけ加えておこう。ゴーギャンゴッホとのかの諍いと耳切の一件に関しても、同小説はこの事件に関する唯一の証言といい得るゴーギャンの手記を鵜呑みにはしていない。ゴッホゴーギャンに剃刀を開いて躍りかかったりはせず、ただ彼に道で追いすがり食らいつくように見つめたあと、その眼差しを暴行に出る徴と誤解し身構えるゴーギャンの様子に出会うや、或る新聞の三面記事の「殺人鬼、犯行後に逃亡す」という見出しを切り抜いたものをあたかも彼の立ち去りをなじる言の葉の如く彼の手に握らせ、背を翻して夜の雪道を去っただけなのである。また、ゴッホがその後自分の片耳をそぎ落としたというのは、彼がゴーギャの絵画思想に従って試みた己の観念と想像力に基づき或る総合的世界を構築する絵、具体的にはダンスホールに集う人々を一個の総合的世界として描出しようとする絵、その習作から聞こえてくる幻聴――ゴーギャンを失えばこの絵の完成も、つまりは画家としての飛躍も失うことになるぞ、という――を己から遮断するためであったとされるのだ[17]。他方、小林秀雄は、《ゴーギャン殺害の挙‐自裁による耳切‐自殺による最終決裁》というストーリーをいわば不動の仮説にしている。(清眞人)

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[1] 小林秀雄ゴッホの手紙』角川文庫、改版、1980年、6頁。
[2] 同前、176頁。
[3] 同前、175頁。
[4] 同前、175頁。
[5] 小林秀雄ゴッホの手紙』55~56頁。
[6] 同前、57頁。
[7]ゴッホの手紙 中』、114頁。
[8] 小林秀雄ゴッホの手紙』75頁。
[9] 同前、77頁。
[10] 同前、158頁。
[11] 同前、60頁。
[12] マリアンヌ・ジェグレ『殺されたゴッホ』橘明美・臼井美子訳、小学館文庫、
  2017年、396~397頁。
[13] 同前、403~404頁。
[14] 同前、416~417頁。
[15] 同前、425頁。
[16] 同前、415頁。
[17] 同前、141~142、145~147、150頁。