mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより51 ケヤキ

 四季をとおして美しい樹、 ケヤキは 「校庭に立つ先生」

 5月の若葉が美しい季節になりました。かつてこどもたちと過ごした学校の校庭に、数本のケヤキの木が立っていました。生活科の時間には、低学年のこどもたちと校庭のまわりに咲く草花を探してよく散歩しました。ケヤキの下まで来ると、見上げて、みんなで「け、や、き、さーん」と大きな声でよびかけると、その声に答えるかのように、サワサワと木の葉がゆれました。こどもたちは大喜び。開いたばかりの若葉が日の光を浴びてキラキラ光っていました。

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 5月初旬、芽吹き始めたケヤキ。ニレ科で日本を代表する広葉樹のひとつ。
「けやき」の名は「けやけき」(目立つ、ひときわ美しい)が由来。 仙台市野草園で)

 今、世界はこれまで体験したことのないできごとの渦中にあります。新型コロナという未知のウイルスに直面し人間の生命が危険にさらされています。
 コロナウイルスの根絶は難しく、ほかの感染症と同じように、人とウイルスとの共存の道をたどることになるというのが専門家の見解です。当面は人間のいのちをどう守りぬくか、医療の専門家の人たちの必死の努力にお願いするしかありません。一方で、私たちはそれぞれの立場で何ができるのか、未知の出来事に直面して想像力を働かせて行動していくことが求められています。

 これからの教育も、今のままでいいのか、教育の在り方も学ぶ内容も根本から問われているように思います。こんな時に思い起こされるのは、検定をとおりながらほとんど採択されることなく消えてしまった生活科の教科書「どうして そうなの」(1年)、「ほんとうは どうなの」(2年)(現代美術社)のことです。

 先生方にこの教科書を紹介したパンフレットには、こんなことばがのっています。

「先例のない時代」を生きていく子どもたちへ ・・・・・・
教育環境をすっかり こわしてしまった大人が、償いの気持ちをこめてつくった 
「自分で考える力」をつける生活科の教科書

 「先例のない時代」とは、まさに今のような時代を指しているのではないでしょうか。

 この教科書の編集者は、当時、「図工」や「美術」の教科書を創っていた現代美術社・社長の太田弘氏です。「図工」と「美術」の教科書はまるで美術書のような本で、背表紙は職人の手による総クロス張り、鑑賞のための画家の絵は画集のような印刷です。「こどもが初めて出会う教科書だからこそ最高のものを手渡したい」というのが太田氏の編集者としての理念でした。

 「生活科」の教科書も異色の編集で絵本のような本です。その内容は、自然のなかでさまざまな生きものと共に、人がどんなふうに生きてきたかを学んで自分の考えを深めようとするもの。使い終わったら捨てられる本ではなく、いつまでも手元に置いて、ときおり開いてみたくなるような本をめざしていました。

 この教科書を使ったら、使わなかった子とここが違ってくるというものをどう盛り込むか、編集会議での議論と教科書採択の経過については、太田氏と共に教科書づくりの中心となった春日辰夫さんが「短命だった教科書づくりの記」(「センターつうしん別冊・こども・教育・文化 第16号」)にまとめていますので、今でも読むことができます。

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   初夏のケヤキの若葉。日に日に色合いを変えて、緑が濃くなっていきます。

 「ほんとうは どうなの」(2年)の表紙をひらくと、目にとびこんでくるのが、ケヤキです。最初は冬の姿と初夏の姿、あとのページには夏と秋の姿がならんでいます。さりげなく、ケヤキの四季をみつめてみようとよびかけています。

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「ほんとうは  どうなの」48ページと    「ほんとうは  どうなの」表紙と
  49ページの「木とみずのたび」の内容    見開きになる1ページの内容

 ケヤキがとりあげられているのは、ケヤキについてくわしく知ってもらうためではありません。身近にあってあまり意識することのない樹木と向き合ってみたら、どんなことが見えてくるかを考えてみようというのです。どんな樹木でもいいのですが、この本にはやはりケヤキが似合います。

 「どうして そうなの」(1年)に、次のような文章があります。

 きや くさは うごかない いきもの
 じめんに ねを はって いきている。
 あめが ふっても 
 かぜが ふいても
 おなじ ところに たって いる。
 おなじ ところで おおきく なる。   「どうして そうなの」(1年)

 ケヤキやスミレやタンポポは「動かない生きもの」の仲間。人は「動きまわる生きもの」の仲間。そう分けてみたら、こどもたちの発想がおもしろいのです。
 人とケヤキの住むところは大地で一緒なのに、人の住むところは地面の上で、ケヤキの住むところは地面の上(葉や幹)と土の中(根)だ。
 人は雨や風が嫌いだから動いて逃げて隠れるけれど、ケヤキは雨が降っても風がふいても、暑くても寒くても、ずっと一生同じところに立っている。
 「動きまわる生きもの」は、他の生きものの「いのち」を食べている。「動かない生きもの」の食べものは、お日さまの光と水。土の中の栄養も・・・・・・・。
 「食物連鎖」や「光合成」のことばを知らなくても、こどもたちはその感性と想像力で、自然や生きものの姿を感じとっていくのです。

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 夏のケヤキ。広げた枝の葉の重さが美しい樹形をつくります。目に見えない
 土の中には地上の枝と同じくらいに根がはりめぐらされています。

 四季のケヤキと向き合ってみると、ケヤキらしい個性が見えてきます。
 ケヤキの幼木はまっすぐに大空に向かい、成長すると扇のような樹形になります。年を重ねると丸みを帯びた美しい球形になります。伸びた枝が自重でしだいに垂れるからです。雑木林や街路樹のケヤキは本来の姿は見られませんが、校庭や公園の一本立ちのケヤキは、その樹形の変化を見せてくれます。
 ケヤキは春の芽吹きから始まり、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の木立と四季を通じて楽しめます。すっかり葉を落とした冬の木立は、太い枝から細い枝へと連続する枝分かれが繊細な美しさです。

 四季折々のケヤキをながめながら、美しいものを美しいと感じる感覚、心地よい感情がいったんよびさまされると、ケヤキについてもっと知りたいと思うようになるでしょう。
 ケヤキの花は風媒花なのでとても小さい花です。雄花はその年に伸びた枝の先の付け根のほうに、雌花は先端の方につきます。
 ケヤキの種の散布の仕方は変わっています。秋に強い風がふくと、カラカラに乾いた葉が浮力となって小枝ごと果実をつけたまま親木から飛び立ちます。地面に落ちた小枝を拾ってよく見ると、小さな丸い果実がついているのが見られます。その果実の中に種が入っています。

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  芽吹き始めたケヤキの枝       雄花は枝の付け根に、雌花は枝の先の
                    ほうにつけます。(これは雄花です)

 ケヤキは寿命が長く千年以上も生きるといわれています。切られても800年から1000年も耐久性があり、お寺や神社の建築材として欠かせない木材です。
 木目の美しさを生かして家具や調度品が作られます。和太鼓の材料で最高のものがケヤキ材です。太鼓の胴体は一本のケヤキの原木をくりぬいたものです。

 ケヤキをとおして、自然や生きもの、人と自然のかかわりについて「考える」授業を創ろうとするならば、限りなく豊かな素材が見えてきます。

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 秋のケヤキケヤキの紅葉は赤色・橙色・黄色など、 木によって違いがあるようです。

 1年生で「ケヤキ」の授業で学んだ子が、中学生になったときに書いたという文章を、当時担任だった中野典子さんから見せてもらいました。その子のお母さんが送ってくれたのだそうです。
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 緑の環境 ―校庭に立つ先生―
                         中学1年 杉原 香

 転校の多かった私には、それぞれの学校にシンボルツリーともいえる思い出の木がある。
 「けやき」「くすの木」「いちょう」「桜」、現在通う中学校の自然環境は、さながら森のようで、どの木が主役か迷うほどだ。・・・・・・・・・・・・
 学校の木で強く思い出すのは、何といっても小学1年生の時に観察した「けやき」だろう。一年を通してみんなでみた。やわらかな葉が開いてきたとか、緑の葉っぱがバサバサと繁ってきたとか、けやきに抱きつきガサガサした肌にふれたり、クンクンにおいをかいだり、「けやきのつぶやきがきこえる。」と誰かがいってみんなきそってけやきに耳をつけたりもした。・・・・・・・・・・・・
 けやきから本当に教えてもらったのは小学2年生の時だ。1年生からのもちあがりのクラスでそのまま、けやきの観察は続いていた。ある日の授業で「けやきは動かない。」といった当たり前のことが意見として出た時、(あっ!)と思った。私たちが教室で授業をしていても、校庭で走りまわっても、皆、下校して学校がからっぽになってもけやきは校庭に立ったままだと。私は学校が大好きだったから、しかも目前に転校をひかえていたから、動かないけやきは(ずるい。)と思いうらやましかった。と同時に何ともいえない寂しさも感じた。
 春に芽吹き、夏、葉を繁らせ、秋、紅葉する。冬になっても葉をすっかりおとしても、誰の気にもとめられなくなっても、静かに生きている。そして春、また同じような一年のくり返しだ。けやきは、何年も何年も命の続く限りずっと動かずに立っている。まるで自分におこるどんな出来事もただ静かにうけとめているかのように。・・・・・・・・・・・・・
 そして時に「こんな生き方もあるよ。」と教えてくれる先生でもある。
 校庭に立つ先生。
 木は私たちに、生きるヒントもプレゼントしてくれる。
                          (作者は仮名です)
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 中野典子さんの教室では、「どうして そうなの」「ほんとうは どうなの」の教科書をもとに、「生活科」の授業が工夫されていました。
 当時一年生だった香さんがケヤキの授業で学んだことは、学年が進んでもそのまま心に残り続けていたようです。
 知識としてつめこんだものは消えても、自分で感じて考えて学んだことは、いつかその人の核となり、時を重ねて人生を支えるものになっていくように思います。

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  雪化粧も美しい 冬のケヤキ     連続して広がるケヤキの枝は、細やか

 当時宮城教育大学におられた中森孜郎先生は、この教科書を読んで「おとなのぼくでも、この本で学びたくなる。この本でなら、かしこい子どもが育てられそう。」というタイトルで次のような感想をよせています。

 「この本には、何か結論めいたこととか、答えとか、あれこれの知識が書かれているわけではない。むしろ、問を自ら生み出すためのきっかけとなる内容が盛りこまれている。したがって、この本をどう生かしきるかは、この本を使う教師が、子どもとともに「ほんとうは」「どうして」と探求の旅を楽しむことができるか、どうかにかかっているように思われる。」(教科書・パンフレットより)

 「先例のない時代」を生きていくこどもたちが、支えとなるものは「知識をたくわえること」ではなく「自分で考える力」です。すでに消えてしまった教科書ですが、その内容は今も新しく、これからの時代の教育の在り方を先取りしていた本ではなかったのかと、私は思っています。(千)

◇昨年5月の「季節のたより」紹介の草花

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