「図書」(岩波書店発行)2月号のあとがきは、ノーベル賞にまつわる話をとりあげていた。と言っても、PR誌なので、そのねらいは、ファラデーの『ローソクの科学』へのお誘いがねらいなのだが、私は、そのためにひいていた2人のノーベル賞受賞者についての短い話にひかれた。
ひとりは、昨年受賞の吉野彰さん。「吉野さんを化学の道に導いたのは、小学生のころにであった一冊の本。当時の担任の先生から薦めてもらったのが、ロウソクが燃える仕組みを科学的に解説したファラデーの『ロウソクの科学』。ここからノーベル賞への第一歩が踏み出された・・・」と。
もうひとりは、「2016年にノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さん。「ご自身の原点として挙げていたのが『ロウソクの科学』~~」と。
まず私が驚いたのは小学生の吉野さんに担任が『ロウソクの科学』を薦めたということ。吉野さんがどんな小学生だったのか私にはとても想像できないが、この担任の教師は子どもたちのためのたくさんの持ち物があって、そのなかから『ロウソクの科学』を選んで吉野さんに薦めたのだろうと考えると、元教師に私は脱帽である。大隅さんにしても同様で、この書を「ご自身の原点」にしたのも教師の影響が大きかったろうと想像し、教師の力を考えさせられる。
前記「図書」には、「現行の岩波文庫は2010年9月に改版の新訳、・・・新旧あわせ累計73万部を越えて読み継がれ・・・」と書いてある。
私の手元にあるのは講談社文庫版の『ロウソクの科学』(吉田充邦訳1972年1刷)。ファラデーはどんなことを書いているのか、最初の段落と結びを書きぬいてみる。
第一講
炎のみなもととしてのロウソクこれからロウソクを主題として科学の講義をはじめたいと思います。
皆さんが自然科学の勉強をはじめるにあたって、まずロウソクの物理的な現象を考えてみるのが、最もよいことと思われます。入門としてはこれにまさるものはありません。すべての自然界を支配する法則のうちで、ロウソクの現象に現れてきたり、ふれあったりしないものはないでしょう。だから私は新しいトピックよりも、私の選んだこの主題は、皆さんを失望させないだろうと信じています。新しいトピックにもいいものはありますが、やはりロウソクよりよいとは思いません。
とファラデーは講義を始め、最後を、
ある場合には、物質は熱によってそのもの自身が活動的になるまでいつまでも待ち、ほかの物質は呼吸の過程のように、少しも待ちません。肺の中では、空気が入るとすぐにそれは炭素と結合してしまいます。
この反応は身体が凍らずに耐えられる最低の温度でもすぐにはじまり、呼吸によって炭酸ガスを放出します。すべての物事は、それに対応し適切に進行します。こうして皆さんは呼吸と燃焼がきわめてみごとに、驚くほど似ていることを知るでしょう。
この講演を終わるにあたり(私どもにとってはどんな時でも、終わりはきっと来るのです)、私がいうことができるすべては、皆さんの時代には、ロウソクに比されるのにふさわしい人間になってほしいということです。
皆さんはロウソクのように、まわりの人びとのための光として輝き、すべての活動によって隣人に対する義務をなしとげ、それによって行為を名誉あり成果のあるものとし、それによって、ロウソクの美しさを義とされるように、私は望むのです。
と結んでいる(後段のみを抜こうと思ったのだが、前段の部分をもぬきがたく長くなった)。
ファラデーは1791年に生まれ、この『ロウソクの科学』は、69歳の時の少年少女のための講義録という。邦訳は戦後になるようだが、宮城では、1956年から『ロウソクの科学』を使っての「ファラデーゼミ」を始めたグループがあった。
1975年11月、「教育実践検討サークルーー創造する東北の教師たち」(中村敏弘著 国土社)が出版された。この書のもともとは、『教育文化』(宮城県教職員組合発行機関誌)第56号から107号まで「あるサークルとゼミの歴史」というタイトルで中村が連載したものをまとめたのである。
ここでの「あるサークル」とは、「刈田サークル」である。白石での少人数の教師による輪読会が、教育科学研究会機関誌「教育」を読む会にふくれて、「教科研刈田のつどい」という名で定期的に集まるようになり、機関誌「刈田」が発行されるようになった。
その「刈田のつどい」のなかから「少人数でじっくり話す場もあるといい」という声が出てきて「刈田のつどい」のなかに「理数グループ」ができた。そのグループが最初に取り上げたテキストが『ローソクの科学』だったという。その呼びかけが「刈田」9号に載る。
こうして、理数グループの第1回「ファラデーゼミ」が56年2月10日にもたれた。「これが、中村が参加した86回のゼミの最初の会で、このときの喜びやおもしろかったことはいまだに忘れないし、そのときの光景さえも思い出すことができる」と、中村は上記の書のなかで書いている。
50年代後半から、こんなサークルが宮城県各地に生まれた。私は遅れて参加するようになったひとりになるが、それでも、中村が「そのときの光景さえも思い出すことができる」と言っていると同様に、その頃が今も体に張り付いている。
( 春 )
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今はなき「刈田サークル」は、その名を知るにすぎない。しかし当時、刈田サークルに限らず、さまざまな地域に燎原を焼く野火のごとくサークルが誕生し、多くの教師が集い、学びあう場が生まれたのだろう。私たちの世代はその最後尾、まさに消え入ろうとする残り火を知る世代かもしれない。
それでもまだ大学には自主ゼミがあり、正規の講義や演習よりも夕方から夜中にかけて行われる自主ゼミが私たちにとっての学びの場だった。その残り火も今や風前の灯火ということだろうか? しかし風が吹く限り残り火は消えない。(キヨ)