mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風22 ~私の遊歩手帖8~

ゴッホの手紙』とやっと出会う1 

   「ゴッホ 自画像」の画像検索結果

 読みたい、読もう、と思いながらも、結局読まないできた『ゴッホの手紙』、ゴッホが弟テオや心許した若い友人画家ベルナールに書き送った膨大な書簡の束、それを遂に読む機会を得た。
 ついこのあいだ、10月(2019年)、上野の森美術館でやっているゴッホ展に出向いたことによって、だ。

 この展覧会は、まさに弟へのゴッホの手紙をベースに敷き、悲劇的最後を遂げる晩年の歳月にこそゴッホがかの画家ゴッホ——彼無くして20世紀の西欧絵画はあり得なかったといわしめる——となった、その事情を実に簡潔にして適確にわかりやすく展示するものであった。その彼の自己形成の節々を象徴する彼の作品を、それに見事に照明を与える弟への手紙の一節を横に添えながら展示するという工夫に富んだものであった。
 帰り道、私はアマゾンに古本となった岩波文庫の『ゴッホの手紙』三巻を注文していた。
 数日後、私は夢中となった。『ゴッホの手紙』に。そして、たとえば、次の一節を発見した。 

ただ僕は、パリで学んだものが僕の中から消えて行き、印象派の人たちを知る前にいた時の考え方にまた戻ったことを感じるのだ。だから、そのうちに印象派の人たちが、その人たちよりもむしろドラクロアの思考によって豊かにされた僕の手法に文句をつけるようになったとしても、僕はさして驚きはしないだろう。つまり僕は、眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現するためにもっと自由に色彩を使うからだ。(中略)僕がある友人の芸術家の肖像画を描くとする。(中略)まず始めは、できるだけ忠実にあるがままに描くだろう。だが、そのままで仕上がるわけではない。最後は気儘な色彩家になるのだ。僕は髪の毛のブロンドを誇張して、オレンジの調子から、クローム色にし、淡いレモン色にしてしまう。(中略)ああ、弟よ・・・・・・で、お上品な人たちは僕のこの誇張を漫画だと思うだろう[1]。(太字、清)

  私は、この右の一節に、昔書いた拙著『いのちを生きる いのちと遊ぶ』(はるか書房、2007年)に書いた自分の文章を見いだした。それは、ドイツ表現主義絵画の精神について書いた文章で、そして、知識としては私は既に知ってはいた。ゴッホとの出会いなくしてドイツ表現主義はあり得なかったということは。だが、それを書いたとき、『ゴッホの手紙』は読んでいなかった。だが、期せずして、私の文章とゴッホの言葉とは完璧に一致していた。
 私はこう書いていたのだ。その幾つかの節を引用しよう。

 僕が絵を描く遊びを始めた重要なきっかけには、20世紀ドイツの最初のアヴァンギャルドドイツ表現主義の絵画にミュンヘン留学中に出会ったことがある。僕はドイツ表現主義から二つのメッセージをもらった。
 一つは、色は徹底して君の魂の表現であれという意味で主観的であれ! かつ、色は他の色とのセッション・コレスポンデンス・レスポンスによってのみ決定されるという意味で完全に対象から独立して、自律的であれ! 色を決定するのは色なのだ! このメッセージ。
 僕は今でも覚えている。ドイツ表現主義はブリュッケ(橋)派とブラウエン・ライター(青騎士)派に分かれる。そのブリュッケ派の一人、カール・シュミット・ロットルフの絵。そこには真紅の道が描かれていた。その脇で独り男が椅子に座り肩肘をテーブルについて物思いに耽っていた。傍らの、そして画面の奥に突き進む真紅の道は実に素晴らしかった! そうだ、真紅の道というのがあっていいのだ!
 もう一つは、漫画でオーケーである! というメッセージ。ドイツ表現主義の色彩表現に決定的な影響を与えたのはゴッホ、そしてテーマへの影響はムンクといわれている。僕の勝手な理解では、ムンクは性愛というテーマを彼らに与えたということもさることながら、人物は漫画でいいというインスピレーションをも与えたのだ。実際ムンクの人物たちは漫画ではないか。荒々しい、性急な、デフォルメされ誇張された、歪んで過剰な漫画的な表現! こっちのほうがずっと現代の人間の内面の焦燥や快楽や笑いや悲嘆を見事に表現する。内面は《世界》と相関だ。《世界》はリアリスティックに描かれることを拒否している。それはもはや退屈なことなのだ。それは内面が現にある《世界》を拒否して、その彼方にあるもの、その地下にあるもの、起源にあるものを求めているからだ。もう一つの「別な《世界》」が現にある《世界》を拒否する力として、あるいはその隠れたより深いリアルを映し出すとして描き出されねばならないのだ。
 この二つのメッセージは僕にとって次のことを意味した。絵は今や、写実的リアリズムと一体であった「天才的技術」というコンセプトから解放され、一切のアカデミズム的思考から解放されたのだ!
 「アカデミズム的思考」ということで何をいいたいか? 誰もが従うべき普遍的模範が設定され、それにできるかぎり接近することをもって「学ぶ」ことと考える一切の思考様式。これを指してここで僕は「アカデミズム的思考」と呼ぶ。
   (中略)
 僕が観察する範囲では、多くの場合日本の音楽教育と美術教育は音と歌への欲望を、また絵への欲望を子供の内面でへし折るために存在している。その解放のためにあるのではない。多くの子供は教育を受けたおかげで挫折に追い込まれる。下手だ、描けない、吹けない、弾けない、歌えない、不可能という烙印を自分で自分に押して、嫌いになる。教育は、それを好きにならせるためではなく、嫌いにさせるために存在している。僕は自分が絵を描くのにまったく教育を受ける必要を見出さなかった。ドイツ表現主義がくれた二つのメッセージで十分。
 絵のコンセプトを変更しなければならない。
 僕にいわせれば、絵を描きたいという欲望を解放する絵のコンセプトだけが必要なコンセプトなのだ。《色は対象を模倣する必要はまったくない、対象の描写は漫画でよい》というメッセージは、絵のコンセプトは絵を描きたいという君の欲望に従属し、ただ君を絵に向けて解放するためにだけあるべきだというメッセージにほかならない。
 ドイツ表現主義が与えた影響は、しかし、それだけではなかった。まさにドイツ表現主義のいわば原色主義というべき色使いそれ自体が僕を魅了した。赤、黄色、青、緑、こういった色を隣り合う平面的な原色画面の骨太い荒々しい組み合わせへと構成するという方法。自分のなかにある色への欲望をドイツ表現主義は僕に発見させた。人はそのようにして自分の《世界》が帯びる色へと導かれるべきだ[2]
   (中略)
 色ということでは、僕はいつも或るアメリカ映画を思い出す。主人公がブルーのセーターを或る男からプレゼントされる。すぐさま包みを開き嬉しそうにそれを着る。するとそのプレゼント主は主人公にいう。「Blue is your color!」と。
 字幕には、「青は君に似合う」と出ていた。
 だが、僕はずっとこの英語の言い方のほうが好きだった。「青は君の色だ」。
 そう、誰もが自分の色をもっている。絵を描くことは、自分の色を発見することだ。色は君のメタファーであり、哲学者のハイデガーがかつていったように、君が何者であるかは向こう側から、つまり《世界》の側から、その《世界》のから告げられる。

 私は『ゴッホの手紙』を読んでわかった。私が直観したすべては『ゴッホの手紙』の核心に対応していたことを。
 ゴッホにとっての「自分の色」とは太陽の光、南仏アルルのそれを体現する黄色だ。あのひまわりの黄色。しかし、それはたんにひまわりの黄色ではない。彼の宇宙色・宇宙生命の色なのだ、それは。そして、そうであることによって、彼の生命のメタファーでもある。くりかえそう。君が何者であるかは向こう側から、つまり《世界》の色から告げられる。そして、「赤、黄色、青、緑、こういった色を隣り合う平面的な原色画面の骨太い荒々しい組み合わせへと構成するという方法」、それは彼が日本の浮世絵から、その版画から、北斎から学んだ方法だ。
 アルルに着き、アルルの風景に触れるや否や、ゴッホは次の直観に撃ち抜かれ、ベルナールにすぐさまこう書く(1888年3月)。

 まずこの土地の空気は澄んでいて、明快な色の印象は日本を想わすものがある。水は綺麗なエメラルド色の斑紋を描き、われわれが縮緬(ちりめん)紙の版画でみるような豊かな青を風景に添える。淡いオレンジ色の落日は、土を青く感じさす。毎日太陽は黄色く輝いている。(中略)太陽と色彩を慕う芸術家達には、あるいは南仏へ移住した方が実際に有利かもしれない。もし、日本人が彼らの国でまだ進歩していなければ、その芸術は当然フランスで引き継がれるだろう[3]

 こう書いたとき、ゴッホ印象派のなかで自分こそが日本版画の芸術性を「引き継ぐ」第一人者であると考えていたのだ。次の言葉が後の手紙には登場する。「将来、日本人が日本でしたことをこの美しい土地でやるほかの芸術家が現れることだろう」と[4]。そこにいう「ほかの芸術家」とは実は彼自身のことにほかならない。そこに浮かび上がる問題系はこうだ。とりあえず、まず次の三点。

 第一点。世間一般は、そして多くの芸術家すら、「印象派運動の中には、偉大なものへ向かう傾きがあると見る」・「正しい」観方をしておらず、印象派を「単に光学的な実験のみに限定する一流派」としてしか捉えない皮相な視点しかもっていない[5]

 第二点。では、ゴッホのみが把握し得たその観点の「正しさ」とは、何を指すのか?
 それは、彼が「色彩そのものであるものを表現しようとする欲求」を抱いた「新しい色彩派」(太字、ゴッホ)たらんとする画家である点を指す[6]。こういう言い方もする。「未来の画家は、いまだかつてないほどの色彩家であるべきだ」(太字、ゴッホ)と。また「色が完全に歌う表現をとる」のでなければならない、と[7]。フランスの印象派ですら、「北仏」の連中(つまりパリにいる大多数の——清)は、いわゆる「点描法」と呼ばれる色彩の「筆先の技術やいわゆる絵画的な効果を、仕事の土台にする傾向」(太字、ゴッホ)に捕らわれだしており、印象派運動の真の本質的要素を自ら見落としている。ゴッホは別な手紙のなかで、こう述べる。「僕はこの頃、筆法に点描やその他の方法を用いずに、ただ筆触の変化だけでやろうと努力している」が、このことを自分は「技法の単純化と呼びたい」と[8]。そして、この単純化の方法によってこそ、くだんの「色彩そのものであるものを表現しようとする欲求」に応えること、かの色をして歌わせることができる、と彼は考えるのだ。

 第三点。かかる色彩主義的欲求をまず代表したものこそが日本版画だった。もう少し言葉を足せば、色彩が己自身の表現欲求に促されて完全に歌いだすためには、「日本流の単純化した色彩」をもってしなければならない[9]。そのような単純化とは、別の言い方をすれば、「平面的な色彩を並列させて、動きや形を独特な線で捕らえる」ことによって「再現の抽象化をやる」ということなのだ[10]。 

*「筆触の変化だけで」 この表現の意味を理解したければ、われわれはたとえばゴッホの自画像を特徴づける、あの「点描」ならぬ、奔流の如くうねり流れる筆触・筆痕(あたかも彫刻刀の刻み跡の如き)に担われた色彩表現を思い浮かべるとよい。そこから色彩を抜き取れば、それはそのまま彼の葦ペンを駆使した素描にそのまま移行しよう。線描と色彩化とは一対の関係性を結ぶということが、ゴッホの作画法の核心をなす。 

 こうして、私は『ゴッホの手紙』を通して自分と出会い直した。また自分と出会い直すことで『ゴッホの手紙』と出会えた。今少し、この共振について語ろう。(清眞人)
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[1]ゴッホの手紙』中、178~181頁。
[2]   拙著『いのちを生きる いのちと遊ぶ』はるか書房、2007年、230~235頁。
[3]ゴッホの手紙』上、91~92頁。
[4]ゴッホの手紙』中、69頁。
[5]ゴッホの手紙』下、52頁。
[6]   同前、44頁。
[7]ゴッホの手紙』上、106頁。
[8]ゴッホの手紙』中、207頁。
[9]   同前、106頁。
[10] 同前、108頁。