mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより40 ツルリンドウ

リンドウのようなつる植物、つややかな赤い実

 晩秋の雑木林を歩いていると、すっかり花の消えてしまった林床に、ひときわ目を引く赤い実に出会いました。実はたて約1㎝あまり、楕円形でつやつやとして、まるで野におくルビーのように輝いています。ツルリンドウの実でした。

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         ツルリンドウの赤い実

 泉鏡花の「斧琴菊」という小説にこのツルリンドウを描写しているところがあります。伊豆の修善寺温泉の大旅館に逗留しているなじみ客が、同伴の細君と姪を連れ、宿の運転手と帳場人と5人で紅葉の天城山に分け入り野草を探しています。

「・・・野菊、山菊、嫁菜の花、吾亦紅(われもこう)、ぺんぺん草、對手擇(あいてえら)ばず。・・・・・・さすがに天城山で、ふと梅鉢草をみつけました。此處(ここ)にも彼處(かしこ)にもと、故道(ふるみち)と向ひ合った、山の根を次第(しだい)に高く傅(つた)つて行きます。・・・・・・ (略)。騒ぎのうちに、野茨(のばら)の赤い実をつもうとすると、其の実にかさなって、龍膽(りんどう)が、紫の玉を刻んで、一並びに咲いて居ました。一輪引くと ー若い女ですがー ゆらゆらと、龍膽が皆動くんです。
蔓(つる)・・・・・・」
「つる・・・・・・」
花のあとは紅い実になるんですね。学問上の名は何だか知りませんが、つるになって、たとへば桂に咲く龍膽、月の中から手繰(たぐ)つてきたもののやうです。これは珍しい。根を探せと、男連中も気勢(きほ)つて、枯れ草を掻分け、掻分け、その山懐を一畝(うね)り、女まじりに、小高い處(ところ)を、やがて、4人とも見えなくなる・・・・・・・。」
            泉鏡花「斧琴菊」 鏡花全集24 岩波書店

 さまざまな野花が咲き乱れる秋の野山。誰かが野ばらの赤い実を見つけて摘もうとすると、その実に重なってリンドウの花が一並びに咲いていました。その一輪をひっぱるとつるでつながっています。「桂に咲く龍膽、月の中から手繰(たぐ)つてきたもののやう」とは、月に大きな桂の木(中国ではキンモクセイのこと)が生えているという中国の伝説をふまえての華麗な表現。つるになるリンドウを見つけて「これは珍しい」と張り切って根を探し始める場面です。

 植物学者の塚谷裕一氏はこの場面を、次のように書いています。

的確な描写である。「学問上の名は何だか知りません」とあって、明記されていないが、ツルリンドウであることがはっきりわかる。ツルリンドウを知っているものにとっても、なんら抵抗ない。しかも臨場感あふれている。知らない読者にも、どういうものであるか彷彿とうかぶであろう。実物をよく見ずに図鑑をみながら、書いているのがはっきり知れる昨今のものとは、やはり違う。
           (塚谷雄一著「異界の花」・マガジンハウス)

 ツルリンドウはリンドウ科のツルリンドウ属の多年草で、国内に広く見られる野草です。花が咲くのは、夏のお盆の頃。リンドウの花より早めに咲きだし、遅くまで咲いています。
 登場人物が、一並びの咲く花をリンドウの花と思い込むのは当然なほど、ツルリンドウとリンドウとは、花も葉もよく似ています。違いは花をたぐると茎の部分が「つる」で、秋には赤い実がみられること。リンドウのような花が咲くつる植物で赤い実をつけるのは、国内ではツルリンドウだけなので間違う心配はありません。

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     ツルリンドウの花は、リンドウの花にそっくりです。

 1月、草木がまだ芽吹かない雑木林。落ち葉の山道を歩いていると、道の端に青々とした野草が生えています。近寄って見ると特徴のある葉です。葉は対生で、ほぼ三角状、先端がとがっていて、葉の中心と両側の3つの葉脈が、とてもはっきりしています。ツルリンドウの葉でした。緑の草のまわりには昨年の枯れたツルが残っていてその基部から葉を広げています。この緑の野草は、やがて細いつるを伸ばして近くの細い草木にまきついていきます。

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  ツルリンドウの特徴ある葉。   新しい芽生えたツルリンドウの葉(1月)
  3つの葉脈が分かる。

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   つるを伸ばして立ち上がろうと
     しています。(2月)

 つる植物は体を支える茎や幹をつるに変えて生きています。光を求めてつるを伸ばすエネルギーはすごく、クズやアレチウリのように他の草木に巻きつきおおいかぶさり、巻きついた草木を枯死させてしまうものもあります。ツルリンドウはつるといっても華奢で小さい草木に巻きつく程度、巻きつくものがないときは、地面をはって伸びています。山地の日当たりのいい空間をうまく利用して生きているようです。

 ツルリンドウの花は、茎の先や葉のわきにつきます。花はリンドウの花と同じつりがねの形、花びらの先が5つにさけています。花の色は淡い紫色がふつうですが、時には深い紫色のもあって驚くときもあります。
 開いたばかりの花の中を見ると、5本の雄しべが雌しべをとりまくようにして一つになっているのが見えます。

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    雌しべと雄しべに囲まれて      雌しべが伸びて、熟すと柱頭が
    ひとつになっている。        ふたつにわかれます。

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     花の終わりのようす。

 最初に雄しべが熟して花粉を出して、あとから雌しべが伸びてきます。自家受粉をさけるしくみです。雌しべが熟して受粉できるようになると、雄しべは雌しべから遠ざかるように離れます。ところが、虫たちが運んできた他の花の花粉で受粉できなかった雌しべがあると、雄しべは再び雌しべに近づき自家受粉しようとする動きがみられます。子孫を残しこの地上で生き延びようとするいのちのしくみが、花の中の雄しべや雌しべの精妙な動きとなっているのです。

 ツルリンドウの赤い実が見られるのは9月頃から。ツルリンドウは遅くまで花を咲かせるので、花と実が一緒についている姿も珍しくありません。リンドウの仲間は赤くならずに乾いて割れる実をつけるだけなので、赤い実は特別目立ちます。いかにも小鳥たちや動物たちに食べてほしいといっているようです。

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   苞とガクから顔をのぞかせる     黄葉する葉と赤い実
   ツルリンドウの実

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   雪が降っても実は残っています。

 ツルリンドウは特に珍しい花ではなく、高山や里山、平地などに広く見られます。県内でも、蔵王連峰栗駒山の登山道でも見られ、太白山青葉山里山の散策路、それに松島海岸などの標高ゼロに近い場所でも目にしました。「照葉樹林から針葉林帯にいたるまで分布する植物は数少ないが、ツルリンドウはその数少ない植物のひとつである。」(フィールド百科・「野の花3」山と渓谷社ということです。

 そんなにも広く全国的にも見られるツルリンドウですが、季語になく、古来、句や和歌に詠まれたこともなく、小説でも鏡花以外にとりあげた例がないようです。ツルリンドウの花は、あまり目立たないので他の野花にかくれて見つけにくく、見つけてもリンドウの花と間違われることが多かったのかもしれません。

 泉鏡花は、なぜツルリンドウを作品に登場させることができたのでしょうか。
 植物学者の塚谷氏は、「鏡花は植物の好きな作家」で、「それも野草の好きな作家である。」とし、「一番の理由は、彼の竜胆(りんどう)好きによるものではないだろうか。鏡花はさかんに竜胆を作品に登場させた。その題名も「龍膽と撫子」(1922/大正11年)のような作品も書いているくらいだから、勉強家の鏡花、何かの機会にツルリンドウを知って、それ以来いつか書こうと狙っていた。その結果がこの「斧琴菊」なのではないかと思う。」(塚谷雄一著「異界の花」・同)と推理しています。 

 好きな野草があれば、それと同じ花が咲いていれば気になってきます。類似や相違点にも目がいき、漠然と見ていたものがもっとよく見えてきます。鏡花のリンドウ好きがツルリンドウへ目を向けさせ、作品の素材になり「的確な描写」となっているとしたらとても興味深いことです。

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   秋の陽に輝くツルリンドウの実(南蔵王・長老湖の散策路で)

 ツルリンドウは、何よりも赤い実が魅力的です。小春日和の日などに、近くの雑木林や学校の裏山などを小さなこどもたちと散策してみてはどうでしょうか。色彩のなくなって野原で、こどもたちは目ざとく赤い実を見つけ出すでしょう。
 もし見つけたら、その場所を覚えておいて、四季折々にのぞいてみましょう。冬には枯れたつるの側で新しい緑の葉が伸びだし、春から夏には、つるがぐんぐん伸びて側の草木にまきつく姿がみられます。やがてつぼみができて、淡い紫の花がひらき、そしてつややかな赤い実ができます。赤い実は秋の陽に輝き、深い美しさを見せてくれるでしょう。
 ツルリンドウに限らず大地に生きる野の花と時間をかけて向き合っていると感受性が研ぎ澄まされ、見えていなかった自然のいのちの輝きが見えてきます。ものごとをもっと知りたいと思う心も生まれてくるから不思議です。自然にふれるという終わりのない喜び、それは誰もが手にすることができるものです。(千) 

◆昨年11月「季節のたより」紹介の草花