mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風18 ~私の遊歩手帖7~

  沖縄を歩く3

 前回、僕はおおよそこう書いた。「沖縄のアイデンティティーの根」は「遺棄の二重化された苦悩」すなわち、表裏をなす「遺棄される苦悩」と「遺棄する苦悩」の絡み合いが生む《遺棄されることも遺棄することも共に拒絶する意志》にある、と。そして、次回はハンセン病療養所「沖縄愛楽園交流会館」で見聞したことについて書くつもりである、と。

 つい最近のことだ。今年(2019年)の7月24日、安倍首相はハンセン病家族訴訟の原告らと初めて会見し、2001年に熊本地裁が下した判決、すなわち1953年来日本政府がとってきたハンセン病隔離政策は「憲法違反である」との判決を受け入れるという同年の小泉内閣の決定を安倍内閣は踏襲する旨を表明し、当該の隔離政策に対してあらためて「政府を代表して心から深くおわび申し上げます」と謝罪した。

 沖縄愛楽園交流会館が見学者に展示し問いかける問題は上記の問題に直結する。
 古来日本では「癩(らい)病」と呼ばれてきたハンセン病は、細菌の感染によって引き起こされる皮膚病であり、手足などの感覚が部分的になくなり、背中や顔などに赤い斑点が出る。急性の進行が致命的結果につながる病ではなく、進行は緩慢だが、しかし、その緩慢な病状の進行が結果として重い後遺症をもたらすことが知られている。(多くの場合、くだんの感覚麻痺が起きた部分が、それによって過重な負担を引き受けることとなり、その結果後述の「熱コブ」等の著しい損傷や化膿が生じ、それが致命症となるといった)。

 古来、形は様々であれおそらく世界共通して、ハンセン病患者には隠然たる隔離措置がそれぞれの共同体で採られてきたと思われる。また近代医学の発展のなかで細菌の感染による病であることが明確となるや、各国で今度は政府による隔離政策が採られた。日本においては、1907年(明治40年)に「癩予防二関スル件」が隔離方針を打ち出す最初の法令となり、1931年の「癩予防法」制定によって、全ての患者は住民から隔離された特別な療養所に入所し治療を受けるべきことが義務化され、自宅療養者も入所を強制された。また、療養所内での結婚は許可されたが、結婚と引き換えに男性には断種が、女性には堕胎が強いられることが多々あり、誕生した子供の殺害も生じた。
 しかし、1943年にアメリカで「プロミン」ならびにそれを錠剤化した「ダプソン」という特効薬が発明され、外来治療で十分完治可能であり、もともと当該細菌の感染力自体が弱いこともあり、およそ患者の隔離措置は不必要であることが明白となった。ところが日本においては、政府の怠慢によってこの特効薬の徹底普及ならびに隔離政策の撤廃と治療の外来化の措置は遅延し、「癩予防法」による隔離政策は事実上1996年まで継続することになった。(1953年の「らい予防法」は実質的に1931年のそれの継続であった)。
 以上が問題の一般的背景である。

 くだんの愛楽園交流会館は、愛楽園の歩みが如何にこの問題を沖縄の地で一身に凝集するものであったかを見学者に展示し問題提起する、特設のトポス(思考の磁場)なのだ。僕は、この会館で一冊の本を購入した。「ハンセン病回復者の愛楽園ガイド」をサブタイトルに掲げる『「隔離」を生きて』(沖縄タイムス社、2018年)という本であり、著者は平良仁雄さんだ。そして彼はまさしく「ハンセン病回復者」なのであった。

 ところで、敢えて問おう。「ハンセン病回復者」とは何者か?
 彼の本を読むと実に良くわかる。「ハンセン病回復者」とは、確かにハンセン病療養所の「退所者」であるが、それは「完治者」であるという認定を意味せず、常に「軽快退所者」、つまり《差し当たってハンセン病は軽度のものとなり快方に向かっているとはいえ、しかし、いつ何時再燃し重症化に向かうやもしれぬ者》という認定を意味し、この認定の隠れたる意味作用は次の点に向けられるということが。すなわち、「退所者」は、自分が「退所者」であることを絶対に周囲に悟られてはならず、それを隠すことに汲々とせねばならない、そのあまり、「肉親」たる家族との間においてすら「退所者」である事実を「有って無きが如きもの」へと不在化し欺瞞化しなければならないということ、かくて「退所者」たる「回復者」とは、かかる生き方・《処世》を宿命づけられた者のことだということである。

 くだんの交流会館ガイド・リーフレットに「人生被害」という言葉が出てくる。いわく、かの「癩予防法」の実質的な90年間の継続(1907~1996)によって「患者は病気が治っても、ハンセン病の差別に苦しめられ、『人生被害』を受けた」と。
 愛楽園は、沖縄中部の名護市に属するが、名護市街とは現在は二つの大橋で結ばれる屋我地(ヤンバル)島の北部にある。その敷地は見学者には実に広大な平地であると映る。だが、それもそのはずである。それは定員450名の患者が、終生そこで居住し労働し生活することに耐えうる隔離地として構想された区域なのであるから。そして平良氏の本を読むと、名護市ではもとより、久米島ですら、多くの島民にとって「ヤンバル」は暗黙の裡に愛楽園を指し、「ヤンバルに行く、戻る、から来る」等々は「ハンセン病患者」を指示する隠語となって使用されていたことがわかる。

 平良氏は9歳のとき、父親に連れられ、愛楽園に収容される。彼は書いている。「最近まで、私がハンセン病にかかっていたことについても、また、私が愛楽園に連れて行かれた時のことについても、家族の中で話題になることはなかった」と。彼の次男はこの本の付録としてついているインタビュー(ジャーナリスト山城紀子による)のなかでこう語る。「自分には小さいころの記憶がなんですよ。・・・〔略〕・・・お父さんに愛楽園はどういうところか聞いたことがなくて、何なのか知らなかった。・・・〔略〕・・・聞いたらいけないと思っていたというか・・・・・・、お父さんの病気のことも兄弟で話したことはなくて、家で熱コブを出して寝込んだとか、何の治療をしているのとか、見たり聞いたりしたこともない。・・・・・・記憶がない」。次女もこう書いている。「私の記憶の中では(父は)いつもヤンバルに行っていた。それなのにそのことを聞いてはいけない、という雰囲気があって聞けなかった」と。
 平良氏の妻、千代子さんは彼が39歳のとき自殺してしまう。愛楽園のケースワーカーが平良氏を訪ねにきたことが近所に知られ、彼がくだんの「退所者」であることがばれてしまったことが、彼女を不安の蟻地獄に墜落させた結果であった。子供たちの寝ている二段ベッドの側で、ベッドにもたれて座っているような姿で果てていたという。彼は或るとき学生たちにこう語ったと山城紀子の寄稿のなかにある。「ハンセン病のことも話して、そのことを受け入れて結婚したのだが、退所後再発した頃から妻は心を病み周囲の目に怯え、自殺してしまった」と。先のインタビューのなかの次女の言葉。「母親が精神的におかしくなった時、心の中で思ったことは『逃れたい』ということだった。逃れたいけど逃れられない、という日々の中で母が死んだ時、この生活から逃れられるのではないかと思った」と。次男の言葉。「自分にはお母さんのことも家族で過ごしていたころのことも記憶がない。・・・〔略〕・・・今から考えれば、お母さんが自分たちのすぐ側で亡くなったことが耐えられなくて、記憶をなくしたのかなって。普通ではないなって」。

 こうしたことの一切が平良氏における「人生被害」の有りようである。

 さて、前々回、僕はこう書いた。「ひめゆり平和祈念資料館」の「全面的な展示改装」が為された切っ掛けは、「ひめゆり学徒隊」の生き残りの老婆たちが「意を決して、口を固く結んで墓場まで持っていくはずの『ひめゆり学徒隊』を襲った惨劇のありのままの真実、それを公表することに踏み切ったこと」にあった、と。
 それととても良く似た、ほとんど宗教的回心に近い精神的転回を、僕は平良氏にも見出した。それがなければ、彼のくだんの著書自体が誕生しなかった転回を。

 彼はこう書いている。2007年前後からくだんの「退所者・回復者」の体験談が出版され始めたが、当初、「退所者だとばれないようにおびえながら生きていた私は、回復者の手記が発行されて、退所者のことが話題になることに、激しくおびえていた」。そして、そうした公表活動に対する怒り、憎しみが自分を捉えた。「おびえは怒りへと変わってしまった」と。
 ところが、そのおびえと怒りが突然反転する。彼はまさにそうした怒りに捕らわれていた頃、偶然、「HIV人権ネットワーク沖縄」が主催する「光の扉をあけて」と題する児童演劇、ハンセン病を患った体験を基にして創作された子供たちの芝居稽古の見学に連れていかれる。その稽古に接して、突如彼のなかに「カミングアウト」の衝動が生まれ、彼の全身を突き抜けるのだ。こうある。「私は、頬をピンクに染め、涙を流しながら演ずる子どもたちに圧倒された。澄んだきれいな目をした子どもたちは、芝居の練習が終わっても涙を流し続けていた。彼等の姿を目の当たりにして、私も涙を流した」。
 次いで彼はこう書く。「あんなにもハンセン病回復者であることがばれるのを怖れ、怖れが怒りにもなっていた私が、今、自ら『私は回復者です』と話している。・・・〔略〕・・・ハンセン病回復者の私にとっては『回復者だ』と名乗ることはカミングアウト以外の何ものでもなかったと思っている」と。

 この反転、僕に言わせれば、「ほとんど宗教的回心に近い精神的転回」が子供たちの芝居稽古に接して突如として彼のなかに誕生したのは何故か? 思うに、「ハンセン病患者」として差別され隔離され《有って無きが如き存在》へと変えられることへの心底からの怒りと、しかしながら、その彼の生命力そのものの怒りを、《この社会で生活する》=《処世》のためには《秘匿し、隠蔽し、己を欺瞞せねばならない》という自己矛盾、あれほど憎んできた彼の存在を無化する差別社会の眼差しの共犯者とならねばならないという自己矛盾、これが実は沸騰点・爆発点にまで高まっていたからであろう。子供たちの芝居稽古は彼を彼の内なる子供に、あの父に連れられて愛楽園に向かった9歳の彼に回帰させたに違いない。その時彼の「心の奥底にくすぶった」ところの「自分は島の人々に島を追い出された」という純粋な悔しさと絶望に。その悔しさと絶望の純度が彼の「処世」の配慮を不可欠とする「処世」の苦悩を吹き飛ばしたのだ。後者をまだ知らぬ前者の悔しさと絶望の純度が、子供らの芝居稽古を通じて前者に送り返された彼に、後者を粉砕するカミングアウトの爆発力を与えたのだ。
 その瞬間、彼は真っ正直者となった。自己欺瞞を必要としない。そして、その真っ正直という地平で新たな人間関係があり得るという信念を自分に与えたのである。言い換えれば、《遺棄されることも遺棄することも共に拒絶する意志》を共有し合う人間関係があり得るという信念を。そして、この信念は彼に、くだんの「ひめゆり学徒隊」の生き残りの老婆たちが自分たちに与えた「証言者への意志」と呼ぶべき精神と同一のそれを与えるのだ。かくて彼は、この愛楽園の歴史・それが背負う問題・投げかける問題提起を何よりも自らの体験を通して語る「愛楽園のボランティアガイド」になるのである。

 僕はこう考える。沖縄はこの精神のドラマを一身に凝縮し、己の精神史とする日本における稀有な土地である、と。先の20世紀がこの土地に「土地の精」としてくだんの精神のドラマツルギ―を棲息せしめたのだ。かかる事情を学ぶ「沖縄学」の構築とその提示と伝達、その学習意義の宣伝と実際の学習機会の多様にして広範な提供、それはもう様々な方々が取り掛かっている試みではあるが、まだ緒についたばかりであることも事実だ。
 もう一回か二回、この課題について書いてみたい。(清眞人)

付記:紙数の関係で次の三つの問題を省略した。第一、愛楽園の前身は英人のキリスト教伝道師ハンナ・リデルの指導の下、自らもハンセン病患者であった青木恵哉が創設した療養所「沖縄MTL相談所」であった。この興味深い「前史」の紹介。第二、沖縄戦で愛楽園に起こった出来事の紹介。愛楽園の整然と並ぶ諸施設は米軍に兵舎と誤認され、集中的放火によってその9割以上が壊滅したことや、その時の死者は一名で済んだが、防空壕づくりや爆撃後の再建のための過酷な労働によるハンセン病後遺症の悪化によって317名(収容者の約三分の一)が死亡したという問題。第三、高橋和巳の「表現」論や「文学的精神」論との関連。私見では、彼は、まさに平良氏が生きた自己矛盾の果ての「証言の意志」への精神的離陸こそを文学的表現の担うべき本質問題だとみなし、遺棄された者・「償われぬ者」の痛み・孤独の側に立ち、それを「政治的人間」の視点(まさにその痛みと孤独を視野から常に消去せんとする、本質的に「権力」的であるほかない)に鋭く対置せしめること、これを「文学的人間」の使命とみなした。