mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風17(葦のそよぎ・そうしき)

 奄美大島でおこなわれた親戚の葬式にぼくはこのあいだ出かけた。父の従兄弟にあたる老人の葬式だから、実のところわざわざぼくが出向く理由はなきに等しい。しかし、ぼくは父の名代という口実のもと奄美に出かけたのだ。
 奄美の葬式を見たかったのである。
 そこに集まる人々の顔や物腰を、葬列がとおる家並みの様子や樹木、空と道の風情を。
 あらゆる装飾的なものを空しくさせる死の厳粛さのなかに奄美の風景を見出してみたくなったのである。

 奄美はぼくの家族の本籍地であった。だが、ぼくがそこで生まれたわけではない。父が生まれたのだ。しかし、その父ですら物心つくかつかぬかの頃朝鮮に一家で渡っていったのだから、このぼくの本籍地はぼくにとってはまるで夢の記憶のような土地なのだった。祖母、そして父の兄弟のなかではただひとり奄美と今も深い交渉をもっている父の弟である叔父が、ごく稀な出会いのなかでぼくに語ってくれた話だけが、ぼくと奄美とをつなぐものであった。

 とはいえ、ぼくは昔から秘かに自分の本籍地が奄美であることを自慢してもいたのだ。子供じみた自慢から、あの南の果てからぼくの父たちはやってきたのだと考えることは、もうそれだけでぼくに特別な血を、気性を、約束してくれるようであった。ぼくはこの日本に自分が決して折れ合ってしまわないことを願い、それを保証するものとして自分の血に異人の血が混じっていることを望んだが、ちょうどそれに代わるものを与えてくれるものとしてぼくの書類のうえだけのこの本籍地を空想した。

 葬儀には町内のみならず全島からたくさんの人々が参加した。この71歳で死んだ老人は青年時代からさまざまな意味で勇名をとどろかせ、40代からは奄美一の土建業者として有名であった人物であった。葬儀には実に千人をこえる人々が集まった。
 ぼくは親戚一同が並ぶ焼香壇わきのテントのなかから焼香する人々の横顔を見詰めていた。ぼくが感銘を受けたのはまさしく人々の顔つきであり、その身体であった。たんに土建業者の参列が多かったという理由からだけではあるまい。葬儀に参列した奄美の人々、陽に焼かれ褐色の肌をした人々、とりわけ老人たちの顔とその身ごなしには自然との格闘のあとがそのまま刻みつけられていた。

 彼らは重々しく足を葬儀場の砂地に引きずった。彼らの足はぼくよりも大きく重いのだ、とぼくは思った。肩は黒い喪服のなかで少し吊り上げられた風にもりあがって、かしいでいた。重荷が肩をこぶのように発達させ、そして身体を一方にかしがせてしまったのだ。手は重そうにポケットわきにたれていた。きっとその指はごつごつと固く節くれだってぼくの二倍はあるにちがいない。
 土を掘り、運び、盛り上げ、砂糖きびを刈り、束ね、運ぶ、そうした肉体労働が彼らの身体を変形させたのだ、とぼくは思った。
 労働とは人間にとって根源的にまず自然に自己の身体を立ち向かわせる肉体労働なのだ。しかしそのことをぼくは忘れていた。肉体もまた一個の自然である。自然を変形する肉体はそのことでみずからも変形させる。人々の身体は自然の暴力の刻印を帯び、顔は厳しく重い。その不格好、その表情の厳しさや重さは、自然にいわば徒手空拳で立ち向かわねばならなかった原始の人間の重荷をそのまま伝えるもののように思えた。そのような厳粛さというものをついぞぼくは忘れていた。

 ぼくの祖母の郷土は奄美本島のなかでも、その南の端であった。本島南部の古仁屋という港からさらにフェリーにのって対岸の島にわたり、山を越えてその島の向こう側に出ると、そこに打ち寄せているのは東シナ海の外海であり、さらにその海上をゆけば徳之島を挟んでもうじきに台湾なのだ。その東シナ海にむかう入り江の村が祖母の里であった。ぼくは葬儀の翌日母や叔父たちと連れ立ってこの祖母の里にまで足をのばした。
 そこにあったのは戸数約70戸、住民200数十名の小集落であった。ご多分にもれずここも過疎の波にあらわれている。この集落にある小学校に通う子供は今年わずか11名、毎年のように廃校が取り沙汰されるという。

 そこには人間の集落の原型があった。
 なんとまあ人々は肩寄せあって暮らしていることよ、思わずぼくは胸の中で声をあげた。
 確かにその入り江は小さい。海に眼を転ずれば、そこには眼の高さいっぱいに広がるように茫々たる東シナ海の外洋が押し寄せているし、ふりかえればただちに山裾が海岸線まで迫っている。とはいえ、そんなにまで軒を連ねなくともと、思わずいいたくなるような具合に家々は垣を接し、軒を連ねて、集落を組んでいるのだ。

 そのときぼくは前日の葬儀での印象を思い出していた。人間の労働は根源的に肉体労働であったことについて、焼香する奄美の老人たちの姿を見ていてぼくはあらためて感じるところがあったのだが、肩寄せあう集落の切なげなたたずまいに、ぼくはそれと似た或る原型的なものの存在を感じた。人間はそれ以外の仕方では決して自然の脅威のなかで自己の生存を可能にすることはできない。それは、それ自身一個の自然である人間の生命が命じる絶対的な必然性なのだ。必死の様で寄り添っているその集落の切なさは、しかし、厳粛であった。
 奄美の葬式は厳粛であった。ぼくはあれほど厳粛な葬儀にはこれまであったことがなかった。千人に及ぶ参列者は真実一個の人間の死に敬意を払っていた。それは弔われるぼくの親戚の老人の威光のなせるわざであるとは思えなかった。端的に死を敬意をもって厳粛に迎え送る、人間の根源的な共同体がまだそこには生きているからだと、そうぼくには思えた。(清眞人)

※ 書かれたのは90年代前半。すでに四半世紀前になりますが、清さんにとって
 この奄美大島との出会いが、その後の新たな人生遍歴と思索の出発点と
なってい
 きます。そして、それらは『根の国へ  秀三の奄美語り』『唄者  武下和平のシマ
 唄語り』『奄美八月踊り唄の宇宙』などの出版へと結実していきます。(キヨ)