mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

名なしのごんべい

 先週、ある方から「仁さん、所長やめたの?」「体調とか悪いの?」と聞かれ、どういうことなのだろうと不思議に思ったので話を聞くと、今年度の『宮城県教育関係職員録』の研究センターの欄に、仁さんの名前がないので心配したとのこと。そんなことになっているとはついぞ知りませんでした。一緒に仕事をしているのにまったく知らないでいたとは、お恥ずかしいかぎりです。
 その後も同様の問い合わせがあったので、この場を借りてお知らせしますが、名簿には名前が記載されておりませんが、研究センターで変わらず所長としての仕事をしておりますので、ご安心ください。

ところで、谷川俊太郎さんの次の詩をご存知ですか。

 名を除いても
 人間は残る
 人間を除いても
 思想は残る
 思想を除いても
 盲目のいのちは残る
 いのちは死ぬのをいやがって
 いのちはわけの分からぬことをわめき
 いのちは決して除かれることはない
 いのちの名はただひとつ
 名なしのごんべえ

 この詩は、谷川俊太郎さんが1962年1月から翌63年12月までの2年間、『週刊朝日』の「焦点」欄に執筆したものの一つで、のちに詩集『落首九十九』に収められたものです。詩のタイトルは「除名」です。『現代の詩人9 谷川俊太郎』によると、この詩は1962年に日本共産党新日本文学所属の多数の文学者を除名処分にしたことに着想を得て、書かれたもののようです。

 谷川さんの詩は、タイトルが示すように組織の論理による排除の思想と言えるものをテーマにしたのでしょう。名を除くということは、組織の構成員としては認めないということを意味します。詩は、そういう組織の論理によって個人を切り捨てる思想や精神に対するある種の抵抗、批判を示しているように思います。名簿に名前が記載されてないということが、この詩を想起させたのでしょう。

 「名前」と聞いて、研究センター的にぴん!とすぐ頭に浮かんでくるのは、あまんきみこさんの『名前を見てちょうだい』です。東京書籍の小学2年生の国語教材で、研究センターでは「こくご講座」などで取り上げてきました。ちなみにまだ企画段階ですが、今年の夏の「こくご講座」でも改めて取り上げるつもりです。

 そんなこともあって、名前について書かれている本を探すなかで見つけた1冊に、山中康裕さんの『ハリーと千尋世代の子どもたち』があります。本の内容は、タイトルからもわかるように「ハリー・ポッター」と「千と千尋の神隠し」をもとにしながら、子どもたちの心を読み解くというものですが、そのなかで、主人公の千尋が湯婆婆に名前を奪われるという場面を中心に、次のようなことが書かれています。

 名前を奪われるというのは、どういうことかと言うと、自分が自分でなくなってしまうということ。名を奪う第一の意味は支配の道具であるということ。自分でありえない、そこで自分を主張してはいけない、自分を主張することを許されていない、ということになるわけですよ。自分であってはいけないぞということ。名前を奪うぞということは、「お前はお前であってはあかんのや」という人格の否定です。そして第二に「こっちの言うことを聞け」という、明らかに支配ですよ。徹底的に支配という事態が遂行される時に名を奪う。
 日本の歴史の中で、非常に恥ずべき歴史であると同時に、忘れてはならないことの一つに、朝鮮半島から連行された人や、もともと日本に住んでいた半島の方々の名前を奪って、日本名を付けさせるという事態がありました。あれなんか、まったくその通りでしょう。~( 中略 )~
 第二に、実はその支配そのものよりも、前に来るんだけれど、さっき、すでに触れていますが、「自分が自分であること」というのをなくせということ。「お前はお前じゃいかんのだ」と、それは支配より前なのです。支配は、そのあとから来る関係性の問題ですから。「お前はお前であってはいかんのだ。お前がお前を主張した途端に、お前はここで消えてなくなるようにするぞ」と。

 名前を奪う・消すということにこんな歴史的なことも含む大きな意味があるとは・・・深いですね。

 ところで一つ疑問が! こんなに大切な名前なのに、その名前は自分でつけるわけではありませんよね。通常は、親や近親者などがつけるわけですよね。そう言えば、ずいぶん前になるでしょうか、親が子どもの名前に「悪魔」と付ける付けないで、テレビのワイドショーなどでずいぶん取り上げられたことがありましたよね。すでに私の妄想竹(妄想だけ)がにょきにょきと伸び出しているのですが。
 そんなことも含めて名前を考えると・・・、人間はこの世に誕生するとともに、この世に生きることを認めるという意味での親からのある種の「支配」「暴力」、あるいは「傷」「痕跡」としての名前を与えられるということになるでしょうか。そしてほとんどの人間は、その与えられた名前をある段階で自ら引き受けなおすことによって、その名前を生きるということになるのかも・・・。

 さてさて、ずいぶんと話が暴走してきましたが、名前を奪う・消去するということが、その人の存在の否定を意味するということと関わって、同様のもう一つの現象があることに気づかされます。それが、いじめです。いじめの行為の一つに「無視」がありますが、それはまさに仲間がそこに存在しているにもかかわらず、いないものとして扱う(無視する)ことで、その存在を否定する行為です。無視された人は、肉体的な暴力を受けると同等の、いや時にはそれ以上の痛みを心に感じるものです。そこに居るのに居ない扱いをする、これほど卑劣で破廉恥なことはありません。
(清さんの「西からの風13 ~私の遊歩手帖5~」のなかでも、沖縄の「平和の礎」に名前をどう明記するかということのなかに深い思想と道徳性が宿っていることが言及されています。ぜひお読みください。)

 名前から始まった話が、どんどんと思わぬ方向に展開していってしまいました。ここらで今日は終わりにしますが、名前の扱い一つに、その人の知性と良識が見えてくるとは・・・、怖いですね。みなさん自分の名前、そして周りの人の名前を大切にしましょうね。(キヨ)