mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

林業になう若者にエール ~自然と人間について思う~

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 先日の河北新報(6月24日)に、「宮城県南三陸町の小野寺翔さん(23)が林業の担い手を目指し奮闘している。~~」という記事が社会面で目立った。「~~小野寺さんは4月、地元の戸倉地区で自伐型林業に取り組む『波伝の森山学校合同会社』に就職した」「~~自伐型林業は、山主や住民が一つのヤマを長期的に見守るため、『山守型』と呼ばれ、~持続的な森林経営を促す手法として、東北でも関心が高まっている~~」などとあった。

 この小野寺青年の記事が私に特に光って目にはいったのは、6月15日の「民主教育をすすめる宮城の会」通信に載った「『水』の次は『森』! そこまで民間に売りますか!?」を読んでいたからだろう。それは 簡単にまとめると、次のような内容だ。

 民間業者に国有林の伐採などを認める「改正国有林野理経営法」が参院本会議で可決、成立。国有林は、全国の森林面積の3割を占める日本の財産だが、法律の成立で、これまで国が管理、伐採してきた国有林の一部について、10年から50年の間、伐採できる「樹木採取権」が民間業者に与えられることになった。しかも、伐採後に再び木を植えて森林を育てる義務はなく、木は切りたい放題ということになりそうだ。せめて採取権を森林と共に生きる地元の林業業者に限定すれば、森を大切にするだろうから、荒廃も防げるかもしれないが、実態は、中小業者よりも大手業者が有利な仕組みになっている。~~

 恥ずかしいことに、私は 「改正国有林野理経営法」の成立を知らずにいたので、大いに驚いた。『水』の次は『森』まで民間にと国は動いているのだ。

 私は、在職中に、「土・水・森林・海・人間」の授業を1年間かけて4年生と取り組んだ。(それは、「土・水・森林・海そして人間の授業」という名でまとめている。)
3つめのテーマ「森林の授業」が終わったとき、N子は次のような感想文を書いた。

 「土」「水」「森林」、これらには、すべてに「命の水の流れ」がある。それぞれの仲間と助けあい、おたがいが生きている。
 命の水の中に人間はいるか。どの流れの中にも人はいない。むしろ、流れをたち切る石のようなもの。
 私たち人間はなぜ自然のあたえてくれた生きる道を、自分たちで壊すのだろう。生きるのは、それにたよって生きていくしかないのに。それをこわせば生きていけなくなるのは、わかるようなものなのに。
 なぜ自分で死ぬような道をえらぶのだろう。
 自然をこわしていく人間は、こわくないのだろうか。
 自分たちで死へせまっていくという事実がわかっているならば、なんとしなければいけないと思う。
 こわすことができるのなら、もどすことも人にできないのだろうか。
 木をうえたり、まちがった考えで自然をこわしている人人に、自然がどれだけ自分たちにひつようかということを伝えることはできないだろうか。
 「土」「水」「森林」は、みんなで、自然のものたちで手をつなぎ、自分たちで生きている。
 人も、その「わ」の中に入れないだろうか、自然を大切にするものとして。

 私のこの授業の目的は、「土」「水」「森林」「海」をつないで自然の循環を考えることだったが、子どもたちは、授業がすすむにしたがって、そのつながりのなかで、自分たち「人間」の役割がどんどん気になり、N子は「人間は命の水の流れをたち切っているのではないか」と不安をふくらませている。N子だけではない。多くの子が書いていた。それで、授業の計画の中に、あわてて初め考えていなかった「人間」を最後に入れたのだった。このままでは、N子たちに「人間」として生きている自分と自然との関係を考えることができずに終わることになるのではないかと思ったのだ。

 そのような過ぎ去った教室がうかぶからなおさら、私は、「森林」を生きる場とした小野寺青年に拍手なのだ。その一方で、経済の論理でのみ森林を民間業者に売りにでるというこの法には、N子たちを悲しませないためにも授業をした責任もある自分にできることはないものかという思いが頭から離れなくなっているのだ。他人頼みになるが、小野寺青年が就職した自伐型林業に取り組む『波伝の森山学校』のようなグループが全国に数多くつくられてほしいと願って新聞を閉じた。(春)