mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

テストは何のため、授業は誰のため?

  本人は何も言ってくれないので見逃してしまいそうになりましたが、昨年から事務局メンバーとしてセンターの活動を担ってくれている佐藤正夫さんの投稿が6月19日付の河北新報「持論時論」に掲載されました。すでに読まれた方もいると思いますが、改めて紹介いたします。

   学力テスト 指導方法の画一化 懸念

 「北欧のある国では、16歳まで他人と比べるテストがない」と聞いて驚いてしまいました。それは、毎年4月に実施されている国と仙台市、2つの「学力テスト」に強い違和感を抱いていたからです。数値化してその子の学力を見る。絶対的指標のようになってはいないでしょうか。とは言っても、日本ではどの教室においても「テスト」は日常的に行われています。漢字や計算テストなど。それは子どもの順位付けのために行うわけではなく、それぞれの子が、今どの程度理解しているのかをつかむ一つの方法として行い、自分の教え方を修正するためです。
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 もう少し詳しく言うと、できたかどうかだけを確認しているわけではなく、学んだことがうまく使えているか、つまずきの原因はどこかを知るためなのです。時には消しゴムの跡や筆跡から、何度も悩んだ姿や苦労の様子が見えたりもします。10問中1個しかできていなくても、その子の獲得の様子が見えたとき、「頑張ったね」と声が出てしまいます。そうして、この子に応えるためにはどんな方法があるのかを考え始めます。教師はリアルタイムで、子どもの思考や内面をつかむために、このような小さなテストだけでなくノートや感想、小さなつぶやきやちょっとした表情の変化も見逃さない努力をし、次の日の授業の作戦を練るのです。これはいわゆる主要5教科だけでなく、美術や音楽などの表現分野についても子どもが育つ上で重要な教科として行っています。多様な教材(文化)と出合うことによって、その子の中に眠っていた感覚や興味の芽が膨らみ自分から動きだすことを教師は願っています。
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 文部科学省は「全国学力テスト」を始めるとき、「このテストが分かるのは学力のほんの一部であり、この結果を授業に生かしてほしい」という趣旨のことを言いました。その当時は、調査の一つとして受け止めていましたが、今はどうでしょう。『公表』によって各自治体が少しでも上の順位を求めて教育委員会にその施策を問い、教育委員会は各学校に点数を上げるための授業改善を求めています。そして、そこから派生したと思われる学習指導法の規格化(授業スタンダード)や生活指導の規格化(生活スタンダード)などが市内の学校にも広がっていることを耳にします。これは極端な言い方をすれば、どの学級・学年も一つの授業スタイルに統一し、そこに子どもを当てはめていくというものです。はみ出す子どもを何とかしてそのスタイルに入れるのが教師の仕事になりかねません。教師が創り出すべき授業のやり方にまで規制がかかるなど、首をかしげるばかりです。
 今学校は「学力テスト対策」だけでなく、たくさんの課題と過度な要求で渦巻いています。それを解きほぐすためには、現場教職員が何を願って日々奮闘しているのか、誰もが真摯に耳を傾けるときではないでしょうか。
 「学校楽しいよ!」という声があふれますように。

 私の知っている正夫さんはいつも控え目で謙虚、でもね授業や教育にかける思いは熱いんだよね。静かにめらめら燃えているんだよね。文章からも、そんな正夫さんの思いが伝わってくる気がしました。記事のなかに「時には消しゴムの跡や筆跡から、何度も悩んだ姿や苦労の様子が見えたりもします」とあるけど、震災後の聞き取り調査で、ある小学生の書いた文章を見た春さんが、同じことを言う場面に遭遇しました。つまりね〈この子はこの文章を一気に書いたな。消しゴムで消した跡がない〉と。同じだなあ正夫さんと。正夫さんもきっとどこかで、そういう教師やそういう場面に遭遇していたんだろうなあ。最近は少々疲れ気味の正夫さんだけど、これからもよろしくお願いします。( キヨ )