mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風12(葦のそよぎ・心のある道)

 葦のそよぎー心のある道ー

——わしにとっては、心のある道を歩くことだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけが、ただひとつの価値のある証しなのだよ。その道を息もつかずに、目を見ひらいてわしは旅する。
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知者は行動を考えることによって生きるのでもなく、行動をおえた時考えるだろうことを考えることによって生きるものでもなく、行動そのものによって生きるのだ、ということをお前はもう知らねばならん。
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カスタネダはなぜ幽霊なのか? ドン・ヘロナが出会った人びとはなぜ幽霊なのか? それは魂がここにないからだ。彼らの魂はどこにあるのか? 道のかなたに、「目的地」にある。彼らは道を通ってはいるが、その道を歩いてはいない。
                                                     (真木悠介『気流の鳴る音』から)

 こんなことを打ち明けるのは、本当に気恥ずかしいことなのだが、今頃になってぼくは山歩きを始めたのだ。まるで密かな欲望にとりつかれた小学生がその欲望を満たそうといじらしくも自分のこづかいの一部をためこんだり、親の目をかすめて毎日のおつかいのつり銭を拾い集めたりするように、ぼくは妻の目を盗んでは山歩きの道具一式を買いそろえていった。ある日妻が靴箱をあけると、その片隅に見慣れない大きく重い登山靴が隠れるように置かれていたり、物置のようなぼくの部屋に捜し物に入ると目新しい紙袋のなかに登山ズボンが、机の下にはまるめられた真紅のナイロンザックが、という具合に。もちろんのことその都度ぼくは嘲笑され、呆れられた。というのも、子供の頃からおよそスポーツなどという身体の喜びからは無縁なぼくに登山道具はどうみても結びつかないからだし、また常日頃ぼくは結局は役立たずに終わる小物につい金を出すその浪費癖を非難され続けてきたからだ。

 こうして発覚と嘲笑の小事件をつみ重ねながら、しかし僕はある日曜日朝の四時に起きだして一人で郊外の山に出かけた。もちろん大した山ではないが、それでもぼくはその日ほぼ七時間近く山道を歩き続けた。帰ってきてぼくは妻にこれからは月に二回は山歩きにでかけるつもりだと宣言して、また呆れられた。

 最初は、ぼくは自分のことをこう考えていた。自分が山歩きを楽しもうとするのはいずれ息子を山に連れていくための練習なのだと。息子はまるっきりぼくそっくりの運動音痴で、しかもそれに加えて彼が生まれ育った東京の環境は昔の比ではなかった。一言でいえば自然などという言葉はそこでは死語に等しいのだ。父親らしくぼくは彼が少しでも身体と自然を享受しうる人間となるよう自分のなしうることをあれこれ思い描いてみたのだ。

 だが、実のところ、それは口実であった。というより、ぼくは息子のことを考えることを通してかつての自分の「少年の孤独」を自分のうちに賦活することを欲しているのだ。もともと大人の生活秩序に対しては外部の存在たる少年は享受に満ちた孤独というものをよく知っているものだ。そしてたとえそれがたいていの場合せいぜい街を一人でほっつき歩くぐらいのことで、いずれ元の場所に戻るしかないのだとしても、少年は自分を自分だけに与えるために家を離れ、学校から脱け出し、仲間からはずれることによって、自分の道を歩くことを呼吸するのだ。自分という自由を呼吸し、自分という道を歩くためにはある時離脱してしまわなければならない。いずれ必ずそこに戻らざるをえぬ深い絆が解きがたくぼくたちを生活というものに結びつけているにしろ、歩くという感覚を回復するためには歩くこと自体が目的となり、それ故それまで道を通うものとして意味づけていた諸目的が一瞬没し去るようなだからそこでは孤独であるほかない時空をもたねばならない。そしてその孤独はある享受に満ちたものだ。

 山歩きというものは奇妙なものだ。歩くことそれ自体という時空を現出させるためにぼくたちは「あの山頂に到る」という目的をひとまず自分にたててみせるのだ。急な登りにかかればたちまち疲労が湧出する。汗がふきだし、呼吸は乱れる。それを整え整え、一歩をまた一歩をと体をひきあげるようにして上がっていく以外に登るということはできないのだ。登りだしてしまえば登りきるほかなくなり、登ってしまえばたとえ足が棒になろうと降りるほかない。だがその疲労は樹木をまた自分の身体を呼吸するための疲労だ。こうして実は山頂に到るという目的は、目的のようにみえて実はひとつの仕掛け、歩くこと自体を現出させるための手段なのだ。

 この突然のぼくの山歩きをいぶかしんでぼくの友人が妻にその理由をたずねた。彼女は笑って「妻離れを起こしているのよ」と軽口をたたいたが、実際それは当たっている。これから自分の道を歩こうとする少年がそのために自分を呼吸しようとし、自分をただ自分だけに与えるための孤独を欲するように、今またぼくはそれを欲する。ぼくのなかにかつての少年の日の孤独を賦活させる必要があるのだ。要するにぼくは今それが必要となる年齢にさしかかったのだ。

 真木はこう書いている。

 「道のゆくさきは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ」と。

 ぼくの山歩きの欲求にこうした透明な生の理念が宿されているのかどうか、ぼくの欲求はそこまで到達しているのかどうか、それはわからぬ。ただぼくは享受に満ちた孤独を欲している。

 梅雨の山道を歩く。雨空の下暗く沈んだ深い森のなかを、青白くボッと音をたて発光する下草の重なりを、歩く。ただ歩く。(清眞人)

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 清さんからいただいたコピーから推察すると、この文章が書かれたのはしばらく前のことになる。今も歩いているのかどうかは、それはまた別の話。そのうち清さんから聞けるかもしれない。

 歩くことに目覚めるのは、なにか年齢的なことがあるのだろうか? 実は私のまわりの方々も歩くことに精力的だったりする。昨年から事務局に関わってくれているSさんは、ここしばらくまとまった休みが取れると、ひとり四国にお遍路に出かける。そういえば、春さんもその一人だった。かくいう私も、年齢的なことはさておき、震災時に交通機関がしばらく麻痺したのをきっかけに、台原森林公園を歩くようになった。今も毎日とはいかないものの歩くことを楽しんでいる。

 実は今朝も歩いてきた。清さんは文章の最後を「ただ歩く」と書いているが、私の場合は黙々ずんずんといった感じかな。黙々ずんずん歩いていると体の内燃機関が活発に動き出し内側から生きているぞという声が、叫びが湧き上がってくる。その雄たけびと相まって台原森林公園の草木の緑が目にビシバシと飛び込み、鳥のさえずりがそこかしこから聞こえてくる。実は生きているぞと叫んでいるのは私だけではないのだ、森林公園全体が生きているぞと叫んでいる。そうして歩いていると、えもいわれぬいい気分になってくる。
 と同時に、この時間がいろいろ考えるのにうってつけだ。いろんな妄想も含めたアイディアや考えが浮かんでは消え、消えては浮かび。それをメモすればいいのだが、メモをしないばかりに後であれはなんだったっけ?となること、しばしば。でも、その時間が自分の考えを巡らしたり気持ちを整えたりするのに、すごくいい時間になっている。

 なんだか清さんの話の内容からはどんどん離れて、下世話な話になっているような気がするので話はここらで終わりにしますが、この時期は、歩くのにとってもいい季節です。ぜひ皆さんも、ときには自然の散策にでも出かけてみてはいかがですか。(キヨ)