mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

新聞に「一関の千葉さん」の文字を見つけて

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 5月13日の河北新報に、「1948年・アイオン台風で被災、生還 一関の千葉さんが体験記」という囲みの記事が載った。本文の一部を抜くと「~~7人家族だった千葉さんがアイオン台風に見舞われたのは8歳の時、堤防が決壊して氾濫した磐井川に流され、38キロ下流登米市中田町で川岸に打ち上げられた。母と兄弟3人が犠牲になった。~~」。
 見出しの一部「一関の千葉さん」の文字は、小中学生時代の自分に老いた私を一目で戻した。
 私の生家は、岩手県境で北上川沿い。川向いの高台に果樹園をもつ叔父が住んでおり、果樹園の裏手の岩壁にびしょ濡れでしがみついている子ども「一関の千葉さん」を見つけて世話したのがこの叔父一家だったのだ。記事は「磐井川の下流38キロ」とあるが、磐井川から北上川に流され、その下流38キロが正しいのだろう。
 
 時間をこの時からもう少し前に戻す。
 私は、太平洋戦争開戦2年目の1942年、分校に入学した。分校には、なだらかな山坂を上り下りしての通学であり、私の人生で一番四季を満喫した時であった。
 春先、ランドセルを投げて、農業用の堤の枯草の上で寝転んで帰るのがいつの間にか習いとなっていた。秋は、山坂の途中でランドセルを道端に投げ、山に入る。少し踏み入るだけで、キノコが列をなして待っている。細い笹竹の枝を払い、キノコを串刺しにして意気揚々と帰る。母親への土産だ。秋はこんな日がしばらくつづく。冬、この坂道は竹スキー場になる。竹スキーは自作だ。坂道の頂上の木の陰に置いておく。行き帰りにすべるのだ。坂道の傍の家人は、道にもみ殻を蒔くので、滑る前の仕事は、このもみ殻払いだ。大人に叱られた記憶はない。いたちごっこだったのだ。
 夏は、プールなどはないので、もっぱら北上川が遊び場だった。

 いまもはっきりと記憶にあるのは、秋のキノコ採りが年々不作になっていき、道ばたで子どもが採れるということができなくなっていったことだ。山が荒れたためだ。なぜ山が荒れだしたのか。村の男衆が次々に戦地に駆り出され、山の手入れをする人がいなくなったことだと今でも私は思っている。
 それだけではない。敗戦が近づくにつれて、部落の女の人たちが総出で、「松根油をとる」ということで、毎日、松の木の根ほりに駆り出されたのだ。母親も、45年の8月15日の午前も行っていた。昼、「玉音放送」を聴くために、汗をふきふき帰ってきて、ラジオのある家に近所中が集まった。母の松の根掘りは午後なかった。私は4年生だった。

 戦後、どうしたわけか、毎年、これまでに出会ったことのない大型の台風に見舞われるようになった。台風は、なぜかアメリカの女性の名がつけられた。キャサリーン台風とかキティ台風とかと。この台風にも私は戦争で荒らしてしまった山が浮かんだ。
 北上川は、ふだんはゆったりと流れ、荷物を運ぶ平田船がポンポンポンと上り下りしており、堤防と並んで建っていた私の家には、こののどかな蒸気の音はよく聞こえ、そのたびに堤防に駆け上がり、見えなくなるまで眺めるのも私の日課であった。
 しかし、台風が来ると、この川は姿が一変した。川沿いの畑を一飲みにし、川幅は倍になり、濁った水が休みなくゴーゴーとうなりつづけ、水かさは、堤防の高さにまでせまってくるので、そのたびに私は震え上がった。

 対岸の堤防の端が切り立った岩壁と結びつき、その部分だけが川に突き出ているので、ふだんでも、ここだけは渦を巻いており、私たち子どもたちのあやつる舟は近づかないようにしていた。ここは洪水時には遠くからでも渦巻きは激しく狂い、深く高く速く、何でも引き寄せ、飲み込み、粉々にしてしまう。
 家がそっくりそのまま流れてくることが何度もあった。それらはすべて渦に引き寄せられ、バラバラにされて下流に流されていくのを何度見たことか。
 「一関の千葉さん」の家もそうだったのだ。家が壊され、渦巻きから吹き上げられたとき、8歳の千葉さんは岩壁のくぼみに投げおかれたのだろう。まさに奇跡だ。
 果樹の見まわりに行った叔父が、遠くから子どもの泣き声を聞きつけて、探し出したのだという。

 私は、叔父の家にはしばらく行っていないが、千葉さんは、以後何十年毎年欠かすことなく「挨拶に来ていた」と言っていた。
 それで(「一関の千葉さん」はあの人だ)とすぐわかった。助けたのは偶然ではあったが、以後、私は、このワンマンな叔父を、口には出したことはないが誇りに思うようになり、何十年も挨拶に来つづけた、会ったことのない千葉さんは私の忘れえない人のひとりになった。( 春 )