mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

めーでーたい日に

 昨日から今日にかけて、テレビはどこも天皇の退位と即位の話ばかり。どのチャンネルも一緒という感じ。どうしてこうも日本は右へならえなのだろうか。こういう日は、録画溜めした番組かDVDを借りてきて見るにかぎる。

 ところでDVDはまだ出ていないが、4月初めに映画『金子文子と朴烈』を観た。見終えて思った。「韓国映画界はすごい! 恐るべし」と。その思いは、昨年の『タクシー運転手』や『1987 ある闘いの真実』を観たときにも同じように感じた。自国の軍事政権時代の負の歴史を、しかも未だ過去になり切らない出来事を正面から描き、また堂々とメジャー作品として送り出す韓国映画界。それに比べ日本映画界はどうだろうか。自国の負の歴史を描くことには極めて消極的。政治的圧力や右翼や保守層からの攻撃を気にしてなのかスポンサーはなかなかつかないようだし(自主規制ということなのかな?)、多くが自主制作・自主上映。この違いは何なのだろう。

 さて『金子文子と朴烈』、この映画を通じて2人の人生を知った。映画の舞台は、1923年の東京だ。社会主義者たちが集うおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。出会ってすぐに共鳴した文子は、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きる事を決める。しかし9月1日の関東大震災が、ふたりの人生を大きく変えていく。震災後、混乱の中で朝鮮人が「暴動を起こしている」「井戸に毒を入れた」、あるいは社会主義者無政府主義者が「暴動を策動、扇動している」などの流言が広がるなかで官憲や自警団によって多くの朝鮮人社会主義無政府主義者たちが虐殺されたり無差別に検束されたりした。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘う事を決意する。ふたりの闘いは多くの支持者を得ながら、国家をも揺るがす歴史的な裁判に身を投じていく・・・。

 時代背景的には、1910年の日韓併合を経て、すでに朝鮮は日本の植民地となっており、このような歴史的・時代的テーマを扱う作品は、観ているものに辛く重苦しいものになりがちだ。なかば、そういうことを覚悟して見ざるを得ないものも多い。さらに昨今の徴用工や慰安婦をめぐる歴史問題、また自衛隊機へのレーザー照射問題など両国間の政治的懸案事項が山積している。映画の描き方によっては、両国のナショナリズム対立を煽ることにも・・・。

 しかし、そんな思いや懸念は無用だったようだ。タイトルからもわかるように日本人の金子文子朝鮮人の朴烈、二人が主人公であることによって、単純な日本VS朝鮮・韓国といった対立構図でストーリーは展開しない。また歴史的テーマを扱いながらも、あくまで二人を中心にした人間ドラマとしてしっかり描かれていることが、映画全体を重苦しいものにしていない。この点で言えば、金子文子を演じたチェ・ヒソはとてもチャーミングだし、朴烈を演じるイ・ジェフンは凛々しい。金子文子と朴烈がそれぞれに生き生きと魅力的な人間として演じられていることも大きいように思う。また金子文子の残した『何が私をこうさせたか』(岩波文庫)を読むと、実際の金子文子も朴烈も社会や時代のなかで差別や偏見、不条理に辛酸をなめつつも、快活で楽天的な人間だったのではないかと思われる。

 この映画を観ながら、実はもう一つの映画『菊とギロチン』を思い出していた。というのも、こちらも関東大震災後の世界を、アナキスト集団「ギロチン社」の青年たちと、当時実際にあった女相撲の一座の女性たちが、ともに自由な世界を夢見て生きる姿を描いているからだ。こちらの映画は、この4月末にDVDとして発売されレンタルもできるので、それこそこのGW中にみてはいかがでしょうか。お薦めしますよ。

 さてさて今日も、朝も早から即位に向けての報道番組や情報番組が続いている。しばらくはまた、このような祝賀フィーバー状況が続くのだろうか。
 『金子文子と朴烈』をみたのはちょうど新年号「令和」の発表の後だった。皇室や天皇に個人的に親しさや親近感、好感を感じるのはかまわないが、同時に戦前・戦中を含む天皇制の歴史と、そのシステムの果たした役割については、改めて区別してしっかり考えていく必要があるとも感じた。
 今日は新天皇即位の日であるとともに、メーデーだってよ。忘れてた? 今日はどっちにしてもめーでーたい日なんだな。(キヨ)

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