mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風6 ~教室にて4~

 トラウマとの対決という新たなる人生のステージ

 児童期における「無視」という暴力経験の雛型性はどの点にあるのか?
 既に触れた問題ではあるが、念を押したくなる。

 キーワードは「グループ」であり、そして、イジメが「信頼関係の突如たる取り消し」として経験されるという点であった。そして。それは実に簡単に起きた。だが、だからこそ深いトラウマともなった。前回注で引用した深刻度5の一通は実はこう始まるのだ。「突然、疎外感に苛まれた。・・・〔略〕・・・わたしはそこにいることだけで嬉しいと感じていた。しかし、ある日、私はこのグループにいなくてもいいのではないかと感じるようになった。私の世界そのもの、実存を規定していたものが崩壊した瞬間であった」と。
 深刻度3のレポート群が何よりも告げるのはそのことだった。そこにとりわけ児童期特有の「イジメ」の悲劇性がある。
 「小学生の高学年ぐらいからグループができあがり グループの活動が主となる。・・・〔略〕・・・何をするにもグループでの活動が基本となった。・・・〔略〕・・・そして『イジメ』は急に来るものだった。昨日までは、普通だった自分への対応もまるで幽霊のように存在を消されるのである」。「小学6年生の時一番仲のよかったグループからハブにされたいじめは今でも鮮明に覚えている」。「ある日突然一番仲の良かった友達から避けられるようになった」。

 これらの証言に接するうちに、次の想いが私を捉えた。
 ——イジメ経験は児童期との決別であった。罪の意識を得ることによって人間は児童期と決別する。悲しいことではあるが、しかし、それは人間の運命であるにちがいない。罪の意識を得ることによってのみ、自己を糾弾できるようになることによってのみ、人は本格的な批判的自己観察能力を獲得する。多くの場合は犠牲となった者は置き去りにされたままで。
 「その子と私を含め仲の良いグループができていた。・・・〔略〕・・・彼らと遊ぶたびにその子のことが思い出され胸がズクズク痛む。・・・〔略〕・・・あの小さな世界で生きていた私には彼らは友達でありながら自分よりは位が上だと感じていた。そんな私が彼らのいじめをやめるように意見をすることはできるはずもなかった。彼らを否定してはいじめの矛先が自分に向くと考えたからだ。・・・〔略〕・・・彼らは渋々謝ってくれた。私はようやく終わったと思った。・・・〔略〕・・・甘かった。次の日学校へ行くといじめは依然そこにあった。私の説得は全くの無意味であった。私には友達が外れた道を戻してやることも友達の苦しみを取り除いてやることもできないのだと知った。私は不甲斐なくて申し訳なくて悔しくて憤って胸が締まった」。
 そして、この証言はこう続くのだ。
 「そこから私はいじめを止めようとしなくなった。彼らの言葉に同調しその子を視界に入れないようにした。視界に入れれば私の嘘の良心が痛むからだ。その子を視界に入れたのに目をそらしたという罪に問われるからだ。結局その子のいじめは卒業まで続いた」。(傍点、清)

 実に鋭い自己解剖である! それは一個の雛型の摘出でもある。そのようにして、これまでの負の歴史(集団同調を煽り立てることで残酷な「異者」狩りに狂奔する。ナチスの「ユダヤ人」狩り、ソ連の農業集団化における「富農」狩り、中国文化大革命における「封建反動分子」狩り、関東大震災での「朝鮮人」狩り、みな然り)のなかで幾多の人間が「見て見ぬ振り」を決め込み、結果として「身代わりの子羊」づくりの共犯者となったことか! 有無をいわせぬ暴力があたりを制する時、暴力は集団同調の「無言の同意」のマントで己の身を包む。

 だが、良心の呵責が、遂に決壊を引き起こし、「拒否する」という行動への勇気を与え、再生と希望をもたらす場合もある。
 「そのグループで毎日いたが、とても仲がよかった・・・〔略〕・・・ある日、グループの一人から『〇〇君がうざいから、一緒に無視して避けようや』と言われた。私は驚いたし、当然断った。だが、私が断り続けていると、その友達が私を少し避けるようになってきた。・・・〔略〕・・・私は避けられるのが怖くてその友達の言う通りに従った。正直、私自身とても辛かったし、無視しなければ今度は私が避けられてしまうので当時は言うとおりにするしかなかった。そんな日がしばらく続いた。私はとうとう耐えられなくなってその避けていた友達に全てを告白した。その友達は、泣き崩れ当時の思いを教えてくれた。『本当に辛かったし、学校に行くのが嫌だった』と。私はなんてクズなことをしてしまったんだろうととても胸が苦しくなり、私は本当にバカだと思った。その友達はそんな僕を許してくれて、今は前みたいな関係に戻れた。・・・〔略〕・・・グループで集まり、話し合いをした結果、前みたいな関係に戻れた」。

 ここで深刻度1「イジメを経験をしないで済んだ。見聞もしなかった」のレポート群27通にも触れておきたい。私の見るところ、その束は2つに分かれる。
 一つは、実際に自分がイジメられる経験を持たずに済むと同時に、その幸運をキープするためにイジメに関与してしまう可能性をできるかぎり自分の周辺から排除しようと努め、それに成功した事例の束である。もう一つは、多くの場合学校区域がきわめて小さく、地域の共同性がまだ生命力をもっており、かつ教師たちのイジメの誕生を阻止しようとする意識的努力がきわめて強く、この2つの要因が合体し功を奏して実際にイジメが起きなかった場合である。
 「月に1回匿名のアンケートで、クラス内で喧嘩があったか、誰かいじめられている人がいるか、からかったりしている人がいるか、学内で嫌な思いをする出来事があったか、など非常に細かいアンケート調査があったのである」。
 「道徳という授業ではクラス全体でいじめがどのようなものなのかを映像で見たり話しあいをおこなったりしていじめについて理解することをしていた。私の通っていた学校では特にこういったことには力を入れており、道徳の授業だけでなく特別授業という形で様々なことを行っていた」。
 真に幸福なのは、いうまでもなく、この後者の場合だけである。しかし、それは2通に留まった。前者の場合は、「見聞しなかった」のではなく、実は自ら「見聞しようとしなかった」のではないかという自己懐疑がほとんど場合添えられていた。そこには次の1通もあった。
 「見ないようにしていたのかもしれないということは否定できない。・・・〔略〕・・・テレビ・ドラマ・漫画をとおして・・・〔略〕・・・小さい頃から絶対自分はこのような経験をどちらの立場(いじめる側・いじめられる側)からもしたくないと考えていた。今考えれば、この考え方が現在の私の一部を形づくっているのかもしれない。いじめに関わりたくないという思いから、私はいつからか他者から嫌われにくいようなキャラクターを演じるようになっていた。・・・〔略〕・・・みんなと共通の話題や趣味で盛り上がれるように努力し・・・〔略〕・・・明るく振舞っていたし、・・・〔略〕・・・目立ちすぎない立場を意識したり、・・・〔略〕・・・自分の意志とは違っていても多数派の方、優勢な方に入るようにしていた。・・・〔略〕・・・今ではそんなキャラクター自体が本当の自分になりつつあるかもしれない」。

 イジメ問題を解決しようとする教師の積極的努力があったことを伝えるレポート数は——おおむね感謝が捧げられていたが、その方法の適切性に関して懐疑的なものが3通あったが——、全レポート388通のうち24通であり、わずか5%であった。教師は見て見ぬ振りをしていたとの指摘は5通あった。そして、教師および部活の顧問の無理解で高圧的な、それぞれの言い分をよく聞かぬ一方的な指導がかえってイジメを酷くした、ないしはそれ自体がイジメであったとの告発は8通あった。つまり、 イジメトラウマ大陸の存在を告げる93%に対して、それに抗して努力する教師の活動を記憶に値するものとして評価したものはわずか5%に留まったわけだ。
 なお、教師がクラスの生徒からの激しい敵意と反抗に出会い、学級崩壊となり、自殺に追い込まれた事例を告げるものが1通、休職に追い込まれた事例を告げるものが3通あった。 
 そういえば、「教室にて2・部活」で、私は「部活」がイジメの温床となっている割合を問題にしていた。この点では、それを告げるレポートは深刻度3では148通中32通、22%、深刻度2では174通中16通、9%であった。総計でいえば、388通のうち57通、15%となる。この点で、トラウマの深刻度が上がるほど、部活が無視できないイジメの場になることが鮮明となる。

 では、親の存在は如何なる役割を果たしたのか?
 親、なかんずく母の子を守ろうとする積極的な介入の模様を伝えるものは総数中8通であった。
 「私が救われたのは家族の存在である。・・・〔略〕・・・異変に気付いた母は、何があったのかを聞いてきて、私はすがる思いで母に打ち明けた。母は私を抱きしめてくれて、私を大事にしているという熱い思いを語ってくれた。いまだにその日のことははっきり覚えている。私は、愛されていると感じることを知り、苦しみから落ち着いた」。
 ただし、いわば最後の砦とも呼ぶべき役割を期待された母なり父母がそれを果たさなかったという絶望を語るものが3通あった(うち1通は友人に関する伝聞)。また母にイジメられている窮状を訴えられなかったのは、心配をかけたくなかった、あるいはそうした自分を知られるを恥だと感じたというよりは、学校に通報され大事なり、その結果もっとひどくイジメられはしないかと怖かったからだというのが2通あった。

 最後に戻って、「傍観者」に留まることを潔しとせず、友のためにイジメの停止を周囲に申し入れた自分の行為を語るレポート、ないしはそうした友の存在が自分にとってかけがえのない支えとなったことを語るもの、それ10通あった。総数中わずかに10通であった。
 「私が学校に通い続ける事ができたのは、家の近くにいた6人程の友達が絶対自分の味方だという信頼があったからだ。そのメンバーだけで放課後、家の近くでサッカーをしたり、鬼ごっこをしたりしたことはその当時のライフラインだった。あの時間だけが本当の自分でいられたような気がする。そして、それは私だけでなくほかの5人もそうだったと思う」。
 「一人の子が『もうあんなことはしない。あの時は本当にごめん。一緒に乗り超えよう』といってくれたので私は救われ、その子と一緒に乗り越えることができた。・・・〔略〕・・・彼女がいなければ、私はずっといじめに怯えていたかもしれない」。
 「私は最初教室の外から話している友人と先輩を見ていたが、土下座をしだしとき、自分の中のある正義感に近いものが爆発し先輩の胸倉をつかみ、土下座をやめさせた。私の行動を皮切りに、ほかの友人たちも教室のなかに入り・・・〔略〕・・・結果として、その先輩たちが私たちに因縁をつけてくることもそれからなく、土下座させられた友人に感謝までされた。・・・〔略〕・・・たとえ小さな行動でも、大きな波となって人を救うことができるのだとわかった」。
 「その子は結果そのグループから排他的に扱われる存在になってしまった。・・・〔略〕・・・排他的にされた子を救えなかった自分は被害者であり大きな加害者であると今では分析できる。・・・〔略〕・・・小学校にて担任の先生が『やったものは手をあげなさい』と言ったときに手を挙げたのは私一人であった。薄々は気づいていたことではあるが、その犯行グループはそのグループを友達と思っていないし、私も思われたくなかった。今考えると今の私という人格があるのはその時に手を挙げた自分の勇気によるものであると思う。今の私の分析は『まじめで曲がったことが嫌い』である。ポリシーは『正しいと思ったことは必ずやる。間違ったことは自他ともにやらせない』である。このようなことから私は深刻度3の状態にある。これはどれだけ時間がかかっても変わらないと思う」。
 良心の呵責は転生の契機ともなる。いうならば「正義と勇気のトラウマ」というものもあるのだ。

 先に私はこう書いた。——罪の意識を得ることによって人間は児童期と決別する。自己を糾弾できるようになることによってのみ、人は本格的な批判的自己観察能力を獲得する、と。
 言い方を換えれば、この決別によってわれわれは、本格的な批判的自己意識に基づく己の人生の生き直しという課題を自分に与えるのか否か、という問いの下に自分を据え直すのである。

 かつて、私は拙著『創造の生へ——小さいけれど別な空間を創る』(はるか書房、2007年)・第Ⅰ部の節「基礎経験の主導権(ヘゲモニー)争い、あるいは《希望》への賭け」のなかで大略次のように論じた。 
 ——人間の為す経験のなかには、その人間の世界観・人間観・道徳観・美意識等がそれを基礎とすることで形成される「基礎経験」と呼ぶべき経験の層があるが、トラウマとは、人間にとって生を励まし豊饒化させる働きをする肯定的基礎経験を破壊し去り、その代わりに、その人間の《世界》・他者・自己への関係をことごとく破局的な方向へと方向づけてしまう否定的<経験>を基礎経験の位置に据え換えてしまうということだ。
だが、この点できわめて大事なのは次のことを銘記することである。すなわち、実は完全に破壊され代位されたのではない、それはまだなお回復し再生する力を保持しながら、とりあえず、トラウマの発揮する圧倒的な基礎経験的力によって抑圧され、今の時点では無力化されているということだ。つまり、そこにはどちらの経験が基礎経験の地位を占取するかの主導権争いがなお密かに闘われ続けているということだ。

 そうだとすれば、ここに次の問題が生じてくる。この再生力がなおまだ果たしてどの程度の力として保持されているのか? それは一旦奪われた基礎経験的地位をトラウマ的経験から奪い返して再生を果たすほどのものとしてあるのか? 
 そして私は次の2つのことを主張した。
 第1に、人はこの再生力への《信仰》なしにはトラウマからの回復を追求する《治療》という実践的立場に立つことはできない。回復が可能となるか否か、それは厳密な実証的検証にかけられるべき可能性の数量化の問題ではない。可能だと信じて取り組む以外にないという問題がそこにはある、と。
 第2に、トラウマからの回復をはかるうえでその再生が問題となった肯定的な基礎経験とは、人間存在の存在構造そのものが要求する基礎経験、いわば実存的必然性の重みをもった基礎経験であり、この実存的必然性はつねにそれを満たすべき<経験>を、たとえそれがごく小さなものであっても、基礎経験の地位へと呼び寄せそれに基礎経験としての意義を贈与しようと働きかけるという性格をもつのだ、と。
 次回、私はこの問題について語りたい。(清眞人)