蜜を持たず、花を温め虫をよぶ
フクジュソウは、雪国に春の訪れを教えてくれる草花。子どもの頃に田舎の土手で、雪解けとともに鮮やかな黄金色の花が咲き出すのを、心躍るような気持ちでながめたことを思い出します。
フクジュソウは「福寿草」と書き、和名です。その名のごとく、幸福と長寿を呼ぶ花として愛され、人々の暮らしに馴染んできた花です。
キンポウゲ科の多年草で、主に本州中部以北、北海道の山野に自生していますが、江戸時代初期の頃から栽培もされてきました。今も正月には、鉢植えの花が床飾りにおかれて、新春の喜びを伝えています。
春を知らせ、幸せを呼ぶフクジュソウ。元日草とも呼ばれています。
フクジュソウは別名を「元日草」(がんじつそう)といいます。フクジュソウが咲き出すのは、早くても2月です。なのに、なぜ元日草と呼んだのでしょう。
それは、江戸時代に使われていた暦では、ちょうどお正月頃に咲きだす花だったからです。
雪の下からつぼみがのぞく。
雪をはねのけ起き上がる。
羽状の葉は首を巻くマフラーのよう。
当時の暦は、太陽と月の運行を基準にした太陰太陽暦(旧暦)でした。太陽の運行は季節の変化や種まき、刈り入れの時期を知らせ、月の満ち欠けは、暦の正確さの指針になって、暮らしの中に根づいていました。
ところが、明治5年(1872年)の11月9日、明治政府はこれまでの太陰太陽暦(旧暦)を廃止し、太陽のみの運行を基準とした太陽暦(新暦)への切り替えを布告します。そして、明治5年の12月3日を、明治6年元日(1月1日)としたのです。
年がおし迫ってからの強引な切り替えに人々の暮らしは混乱を極めたもようです。近代化のため世界基準となる新暦が必要というのが政府の理由。でも本音は財政の節約でした。旧暦は季節とのずれの調整のため、約3年に一度1年を13ヶ月とする閏年があって、明治6年はその閏年でした。財政難で困っていた政府は、1年が必ず12ヶ月となる新暦を採用すれば、役人に支払う閏年の1ヶ月分の給料を節約できると考えたのです。
十分な論議も準備もないまま強引に法令を決定する政府のやり方は、明治以来少しも変っていないのですね。
新暦に変わっても庶民の旧暦での暮らし方は続きますが、長い年月の間に新暦は浸透し、いつしか旧暦で馴染んだ暮らしや文化、人々の季節感や、自然への感謝や畏怖の念などが失われて今日に至っています。
新暦と旧暦とでは、およそ20日から50日ほど季節のずれが起きます。新暦の3月3日の桃の節句には、桃の花のつぼみはまだ固いままです。旧暦の3月は、新暦の4月上旬から中旬頃にあたり、桃の花は花盛り。桃の節句にぴったりの季節といえるでしょう。
新暦の元旦は、まだ真冬のさなか。旧暦の元旦は新暦の2月頃になるので、寒さの中にも春の訪れが感じられる季節です。フクジュソウも雪の下から顔をのぞかせてきます。人々はその姿に新春の思いをかさねて「元日草」と呼んだのでしょう。
雪解けが始まると、待ちかねたように次々に咲き出します。
フクジュソウは、冬に咲く花なのに、蜜を持っていません。前回とりあげたビワの花が豊富な蜜をたくわえて、冬の数少ない虫たちを集めていたのとは全く対照的です。何か秘策でもあるのでしょうか。
フクジュソウは陽がさしてくると、閉じていたつぼみを開いて、鮮やかな黄色い花を、おわんの形に開きます。冬に活動しているのはアブの仲間たちです。アブは黄色い色が好みなので、花の色に引き寄せられて集まってきます。でも、蜜がなければ逃げられてしまうのでは。
陽の光を感じてふくらむつぼみ パラボナアンテナのような花
ところが、少しも飛び去る様子がありません。おわんの形に開いた花は、ちょうど衛星放送の電波を集めるパラボナアンテナのように、太陽光をよく反射させ、花の真ん中に光と熱を集めます。花の中心の温度は、まわりより10度以上も高くなるときもあって、寒い季節に活動するアブたちにとって、フクジュソウの花は冷えた体を温める格好の場所になっているのです。
アブは温かい所を求めて花の真ん中に集まってきます。フクジュソウの雄しべと雌しべも花の中心に集まっています。花粉はアブの体に自然についてしまいます。体が温まり元気になったアブは、体に花粉をつけたまま次の花へと移動します。そのとき受粉が行われるのです。
フクジュソウは、蜜なしで虫たちを呼び寄せるという、一風変わった、真冬に最も効果的な生き方でいのちをつないでいるのでした。
花の後は、茎が伸びて葉を広げます。来年の栄養分を根に蓄え、やがて枯れて眠りにつきます。
フクジュソウは、雪解けをいち早く察知し、花を咲かせ実を結ぶという生活史をくり返しています。他の草花との競争を避けているようです。
早春にはカタクリやシュンラン、ニリンソウなどの花々も次々と咲き出します。不思議なのは、これらの草花が微妙に花期をずらして咲くということです。まるで地上への出番を知っているかのように花咲かせ、実を結び、消えていくのです。
これらの草花は、「競争」ではなく、季節と大地を上手に「棲み分け」て、選んだ環境に適応する能力を身につけながら、自然の営みにそって生きているということなのでしょう。
自然の摂理を無視し環境を破壊しながら文明を築いているのが人間ですが、今改めて、これらの草花の生き方に学ぶことはないのでしょうか。(千)