mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風4 ~教室にて2~

もうひとつのイジメの場、部活

 バンド「神聖かまってちゃん」のリード・ヴォーカルである の子(のこ)  は歌う。歌「友達なんかいらない死ね」で。

ショットガンであいつの頭ぶちぬいてやる/  シチューで食べたいやつがいる/ お友達ごっこしなくちゃいけないな/ クラスのルールを守ったら/
午後2時 精神科/ 家族連れの君もいる/待合室ではな/ お互いまっしろね/
えっ まじ!?/ そんなセリフが言えたとき/ お友達ってやつがいるのかな/ えっ まじ!?/ そんなセリフが言えたとき/ お友達ってやつがいるのかいるのか/ えっ まじ!?/ そんなセリフが言えたとき/ お友達ってやつがいるのかな/ えっ まじ!?/ そんなセリフが言えたとき/ お友達ってやつがいるのかいるのか/
 ちょっと最近様子がおかしいみたい/ どーすればいいかわかりません/ お友達なんていらないのあたし/ クラスのみんな気持ち悪い/
タンタンタンタンタンタン/  タンバリンで首を吊っちゃった/ 君は死んだんだ/ タンタンタンタンタンタン/ タンバリンを一応鳴らして/ 一応生きてる/ 淡々と/ タンタンタンタンタンタン/ タンバリンで首を吊っちゃった/ 君は死んじゃったんだ/

 サビの部分、「お友達ってやつがいるのかな」の「いる」は「居る」と「要る」の掛け合い遊びになっていることはいうまでもないだろう。

 マイケル・ジャクソンにショート・フィルム「Beat it」や「Bad」を産みださせた往年のミュージカル映画『ウエストサイド物語』の世界、二つの移民たちの不良グループが決闘に突入し、そこへ主人公が割って入り、「お前たちは間違っている、敵を間違えている、やってるのは仲間殺しじゃないか」と叫ぶ、あの世界が日本の青少年世界から消えて、もう久しい。

 学生たちに配った僕の授業レジュメ。
「イジメは大多数のクラスメンバーの「傍観者」=共犯者化という必須の媒介項を得て、はじめて自分をイジメラレル者とイジメル者とのイジメ関係性として樹立する。今日のイジメ関係性の基本構造は、イジメラレル者から彼のコミュニティーへの一切のコミュニケーション関係性を剥奪する、《一対全体》の形をとった極端な異者排除の攻撃性からなる。「次第にAを避けるのがクラスの日常となっていった〔略〕これはAに対するクラス全体のいじめであった」・「次第にA君への仕打ちはクラス全体へと広がってゆき〔略〕当時の経験、あのクラスの雰囲気は今でも心に残っている」(諸君のレポートより、太字、引用者)。
 しかも、このイジメ共同体の成立は、その内部メカニズムとして次の《恐怖から発する共犯者化》を孕んでいる。先のレポートの言葉をそのまま援用すれば、「あのいじめはA君が悪いどうこうではなく、弱者をいじめ、優位に立ち、自分たちの地位を保つためだけになされたことだった。そして誰もが次には自分がいじめられるかもしれないという《恐怖》がそのいじめをなくさせることをできなくさせていた」というメカニズムを孕んでいる。つまり、イジメ共同体はその内部に「次には自分がいじめられるかもしれない」という内部的な恐怖・不安・猜疑を本質的に孕んだ倒錯的で自己欺瞞的ないわば疎外された共同体なのだ。別な言い方をすれば、それはメンバーの積極的な「全体」関与=自己贈与、メンバーの一人一人の「持ち味」つまり個性の深い承認と擁護、かかる相互承認が織り上げる相互補完性・相互支持性・相互擁護性を讃える全体感情、つまり仲間であることへの友愛感情の高揚、それらを前提にして初めて成り立つはずの《共同性》が、奇妙なことにそれら諸要素の全否定——無関与つまり徹底的なる自己防衛と保全・無関心・シニックな不信・冷感性——と見える諸メンバーの《傍観者》化によってこそ成り立つ奇妙な共同体、反共同性に内部腐食した共同体なのだ」。

 学生たちのレポート「私のイジメ経験」(イジメられたにせよ、イジメたにせよ、傍観者となったにせよ、自分ないしごく身近で)を読んでいて初めて気づいた。クラスという場だけが「イジメ経験の場」であるだけでなく、部活の場もまたきわめて深刻な「イジメ経験の場」になっていることに。まだ数え切っていない。総数398通のレポートのうち、部活での「イジメ経験」を報告するそれが何通あり、全体の何パーセントになるかは。それを突き止めるのはこれからの僕の仕事だ。

 しかし、深刻度5と深刻度4を合計した39通のうち9通はそれであった。約24%である。ここで言う深刻度5とは、「自殺を考えた、あるいはイジメてくる相手を殺したいと思った、それに準じる」というレベルのイジメ経験を指す。深刻度4とは、「長期不登校ないし転校を余儀なくされた」というレベルのイジメ経験を指す。自分のそれにしろ、きわめて近い範囲(肉親、親戚、親友、等)で見聞したそれにしろ。ついでに言えば、深刻度3は「4ほどではないが、明らかにトラウマとなった」というレベルであり、148通である。深刻度2は「イジメ経験はしたが、トラウマにまではならなかった」、179通。深刻度1は「イジメ経験をしないで済んだ、見聞もしなかった」である。わずか32通。だから明らかにトラウマ的質をもったイジメ経験を蒙った者は――加害経験も傍観者経験も含んだ意味での――187通、総数の約47%である。つまり、ほぼ半数の学生がトラウマ的質をもつイジメ経験の持ち主なのである。これは驚くべき数字だ。この事実から生みだされる端的な結果は、裏側にイジメの標的となることへの恐怖を秘めた極度の同調志向が、自己を主張することへの意気阻喪が、俺は嘘つきで卑怯者だという自己嫌悪が、今日の学生の内面を無意識のうちに支配するに至っているということだ。幼稚園時代まで入れれば、約14年間の歳月をかけて同調という無意識の支配が醸成されてきたのだ!

 半世紀前、森田童子は歌った。「ぼくはどこまでも ぼくであろうとし/ ぼくがぼくで ぼくであろうとし/ ぼくはどこまでも ぼくであろうとし/ ぼくがぼくで ぼくであろうとし」(「球根栽培の歌」)と。
 青春の戦線は移動したのか? それとも、実は、大きな弧を描いた果てにここへとワープしつつあるのか?

 或る学生の言葉。いわく、「その後わたしは自分を必死で変えて、ノリ良くウケるキャラになります。そうすれば仲間外れにならないからです。しかし、今まさに本当の自分と作った自分との我ギャップに苦しめられています。もしあの時、そんな自分でいいと、わたしがわたしに言ってあげられていたら、こんなに苦しむこともなかったかもしれません」。また別な学生のレポートにこうある。

「自殺も少しは考えた。…〔略〕…だがその原因となった『イジメ』にこれと言った加害者はいなかったと思う。…〔略〕…学校の中の…〔略〕…部活の…〔略〕…自分の中の『誰か』だったと思う。…〔略〕…いわば同調圧力のような、周りの期待のような、自分自身の自信や嫌悪のような、『空気』がここまで自分を追い詰め、実際に受けたイジメはその『空気』を目覚めさせた引き金のようなものに感じる。…〔略〕…でも、その『誰か』は確実に自分を刺してきて、刺されたと思う。…〔略〕…今の自分の性格は『誰か』に刺されたことで生まれたものだと思うし、その傷は未だ治っていない。一度殺されているようにさえ感じる」。

 僕は自分が書いた『創造の生へ』(はるか書房)という本を教科書として使っているが、この本のなかでイジメが与える心理的打撃の一つを「実存のタマネギ化」(他人用の仮面ばかりが増殖した果てに個としての人格の芯が溶けてなくなってしまうという意味で)と名づけ、その具体例として或る女子学生の次の言葉を引いた。

「私のイジメに関するトラウマは『自分を造ること』です。中三のときクラスでイジメがはやっていた。私はイジメられぬように常に中心グループでいつづけた。大学に入っても自分を造ることはやめられず、ハデな化粧、モテル服装、明るいそぶりを続け、目立つ存在、『明るい自分』を演じている。それが今の自分でみんなはそう信じている。造りすぎて造られた自分が素の自分になってきている」。

 この言葉はもう10年以上も前に僕が集めた学生のレポートから引いてきた言葉だ。しかし、状況はこの言葉を拡大再生産し続けてきたのだ。「今とここ」での言葉として。もう10年以上も。授業の終わりに学生の出す授業感想メモには「私もそうだ」という言葉が目立った。

 僕はこう学生に問題提起してきた。
 その人間の生き方を方向付ける世界観・人間観・価値観・美意識、等々がそれを基礎としてこそ生まれてくる経験というものがある。それを「基礎経験」と呼ぶことにしよう。するとこういう主導権争いが君の心のなかで戦われていることに気が付かないかい? 2つの相対立する経験があって、両方が、《俺の方こそを君の生き方を定める「基礎経験」に採用しろ》と、君に迫るのさ。例えば、一方では「イジメ経験」が君に迫る。《他人を信用するな、下手に自分を明かすな、クールに空気を読んで、自分を守りながら、そこそこの「おつきあい」で満足しろ! 「友情」なんて神話に君を身売りしたらおしまいだぜ、それが君があの経験から学んだことじゃないかい?》と。

 じゃあ、この「イジメ経験」と張り合うもう一方の経験とは何だ?
僕は、それを「共同性のポジティヴな経験」と名付けた。さっき紹介した授業レジュメの最後に「イジメ共同体」と対比してポイントを略記した「仲間であることへの友愛感情の高揚、それらを前提にして初めて成り立つはずの《共同性》」のことを。

 何とかそのイメージを伝えようと、往年の学校ドラマの傑作、アメリカ・リベラルの信念の映画『今を生きる』の幾つかの教室シーンなども見せ、ここには「個性実現・個性発揮応援共同体」としてのクラスイメージが鮮やかではないかと語りかけもした。また部活のチームプレイや学祭への屋台出店の経験を題材にして言葉を組み立てたら問題の所在を明示できるのではないかとも考え、授業レジュメの言葉をこう補ってもみた。「共同性のポジティヴな経験」が成立するための条件とは何か?

 第一に、それがイジメのような否定のための否定・破壊のための破壊といったサディスティクな快楽目標ではなく、何らかの創造と建設を第一義とする実践のなかで誕生する共同性であること。たとえスポーツのなかで敵チームを打ち破ることが問題になったとしても、それは相手に勝つほどの新たなプレイの創造によってこその勝利であるから、ポイントは自分たち自身の側の創造と建設にあることは明らかだ。
 第二、その実践のなかで真の仲間性の経験が誕生すること。それが誕生するためには次の諸契機が不可欠となる。1)全メンバーが自分のパート・ポジションの役割を自覚するために自分の立場と全体の立場とのあいだを往復できる視点を備え、全体方針の決定に必ず参画でき、かつ参画する意欲をもてること。2)メンバー相互のあいだに「彼のなかに我を見、我のなかに彼を見る」真の相互性が成立すること。いいかえれば、杓子定規にではなく、相手の状況や立場を相互に思い遣って役割分担を決め、かかる思い遣りの相互性への感謝と信頼があるからこそ全メンバーが自分の役割責任を断乎として引き受ける自発的決断が誕生すること。3)このプロセスの積み重ねのなかで、各自がその短所にもかかわらず、その独特な長所によって、かけがえのなさ・代替不可能性を帯電したメンバーとして皆から承認され、擁護され、感謝され、支持されること。四、かくて共同目標の追求の実践のプロセスそのものがメンバー一人一人の個性のあらためての再評価であるだけでなく、その隠れた可能性の発見であり、その相互承認と称賛であること。つまり仲間性の再生産であり新生産であること。

 今、僕は嘆息せざるを得ない。部活こそは、今や、否、否、実は昔から、「共同性のポジティヴな経験」が誕生し生きられる場どころか、むしろ「イジメ経験」の温床の場であったこと、この事実に気付かされて。
 如何にしたら、僕は、「イジメ経験」と「共同性のポジティヴな経験」とが「基礎経験」たる地位を得んとヘゲモニー闘争を展開するその磁場を、学生たち自身の経験から紡ぎ出すことが、浮かび上がらすことができるのか?
 398通のレポートの森が僕を待っている! (清眞人)