mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

高橋哲哉さん講演会開催(12月1日・土)によせて

私たちに責任はないのか ~今、沖縄・福島から民主主義を問う~

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 私も代表委員を務める「仙台の子どもと教育をともに考える市民の会」では例年、仙台市職員組合と共同で教育講演会を開催してきた。たいていの事柄がそうではあるが「教育」はとりわけ、それ一つの問題として考えられない要素が大きい。だから、この社会を構成する様々な課題を掘り下げることで、教育に何が問われているのか考えたい、そんな視点で毎年の講演会をもってきた。

 今年は哲学者で東大教授の高橋哲哉さんをお招きしている。高橋哲哉さんといえば、私にとっては教育基本法「改正」を阻止する運動が鮮烈に思い出される。
 現在のように重要法案が数の力ですぐに強行されるというのではなく、それなりに国会での攻防が繰り返されてはいた。だから国会の山場を迎えるたびに何度も日比谷公園などの集会に足を運んだ。その運動の中心におられたのが高橋哲哉さんだ。
 どんな時も静かな佇まいでおられるのが印象的であったが、当時、1990年代後半のいわゆる歴史認識問題から社会的発言をされるようになったとお聞きした。今を生きる私たちが過去の出来事をどう受け止めるのかは、今回の講演テーマとも通底するものと思う。
 さてその教育基本法は、ついに2006年11月、第一次安倍首相によって改悪が強行されてしまった。それから今日まで、教育の何がどのようにゆがめられてきたのか、そして今日の日本のあり方にどうつながってきているのか、政治がここまで来てしまっていることに唖然とする日々である。

 その後も、氏は著作・講演活動などをとおして、沖縄の米軍基地問題や福島の原発問題について「差別」の構造をはじめとする問題の本質を世に問い続けておられる。
 この秋の沖縄知事選で、沖縄県民は翁長知事の意思をつぐ玉城デニー氏を選んだ。選挙戦への政府与党の弾圧は手ひどく悪辣であったと聞くが、まさに沖縄の人々は「弾圧は抵抗を生み、抵抗は仲間をつくる」と闘い続けている。とりわけ辺野古新基地建設で沖縄の人々が続けている闘いを私たちがどのようにわがこととして受け止めることができるのか、するのかが大きく問われている。そんな今だから一層、多くの人々とともに、高橋哲哉さんの問いをまっすぐに受け止めたいと思う。
 国土の1パーセント足らずの沖縄県に(沖縄の人々が望んで選択したわけではない)米軍基地の7割が存在する。これ自体明らかに不公平であり、差別である。そのことを「本土」に生きる人たちはどう受け止めているのか。基地問題について、「本土」の平和運動の中でさえ、「沖縄にいらないものはどこにもいらない」と「移設」を否定するばかりで、そもそもの基地の存在について思考停止しているのはなぜなのか、問いはそう続いている。基地問題は「県外移設」が解決ではないことは当たり前だ。では、なぜ、「移設」ではだめで、どうしたらいいのか、問いは大きすぎるほど大きい。

 短命に終わった民主党政権だが、一番バッターの鳩山首相普天間基地の「県外移設」を提唱したものの政治的稚拙さもあって頓挫した。私は当時、その発言を受け止めて、では、どうするか一人一人の問題にできればと平和運動の仲間たちとともに小さな集会をもった。鳩山首相が本気で取り組むのであれば、これを支持する声を上げようと提起したのであるが、集会に足を運んでくれた人たちでさえ、なかなか複雑な反応であったことが思い出される。「沖縄にいらないものはどこにもいらない」の論理をどう発展させられるのか、国民世論の8割かそれ以上が、日米安保を支持する中で、そう簡単ではない難しい問題だと痛感させられた経験だ。

 沖縄と福島、基地問題原発の問題というこの重い課題向き合い続けるために、そして、この国の民主主義を問い直すために、どんなことを、どのような道筋で考えていけばよいのか、高橋哲哉さんのお話からその基点を探れればと期待は大きく膨らんでいる。( 道 )