先日、長田弘さんのすぐれたエッセー「子どもたちの日本」を取り上げておりながら、なんともすっきりしない文を書いてしまった。後になって、詩人の言う「子どもたちの日本」の具体例があれば少しはわかってもらえたかもしれないと思った。
それで、言いわけがましくなるが、「目、そして音」の章の一部を紹介しようと思う。幸田露伴・文親子の話である。
いまも心にはっきり刻みつけられているのは、父が娘を𠮟りとばすせりふです。いっそ爽快なほど生き生きとした口調にうつされた、おそろしく気性のいいせりふ。14歳だった娘が叱りとばされたのは、はたきのかけ方についてでした。ばたばたとはじめると、待ったとやられた。そしてたちまち、まっすぐな言葉が父の口から飛びだしてきます。
「はたきの房を短くしたのは何の為だ。軽いのは何の為だ。第一おまえの
目はどこを見ている.埃はどこにある。はたきのどこが障子のどこへあたる
のだ。それにあの音は何だ。学校には音楽の時間があるだろう。いい声で唄
うばかりが能じゃない。いやな音を無くすことも大事なのだ。あんなにばた
ばたやって見ろ、意地の悪い姑さんなら敵討ちがはじまったよって駆け出す
かもしれない。はたきをかけるのに広告はいらない。物事は何でもいつの間
にこのしごとができたかというように際立たないのがいい」
(「こんなこと」)娘を𠮟りとばす父のせりふを、このようにあざやかに再現して、記憶にくっきりとのこす。ずっと後、その父、幸田露伴の死を看取ったあとに、かつて叱りとばされた娘自身の筆で書きおかれたこのせりふぐらい、幸田文という作家の、文章への態度を語っているものはないと思えます。(以下略)
出典「こんなこと」の部分は、幸田文の文であり、詩人は「娘自身の筆で書きおかれたこのせりふぐらい、幸田文という作家の、文章への態度を語っているものはない」と言っている。幸田文は、子ども時代の日常時の中からすくいとって文章にしているわけだ。そこに作家としての幸田文の優れた力を感じさせられるが、「はたきをかける」という何気ない動作を目にして、そこに人間のありかたを話して聞かせるという父露伴の語りが、なんともすごいと思うのだ。
詩人は、このことを次のようにまとめている。
文章もまた、はたきのかけ方と違わない。書きとめられた父に𠮟りとばされたせりふからは、文章に対するそのような覚悟がまざまざと伝わってきます。目はどこを見ている、対象をちゃんと見ろ。ぱたぱたと音を立てる文章を綴るな。いやな音をなくせ。敵討ちみたいな文章を綴るな。文章は広告じゃない。いつの間にこのしごとができたかというように際立たないのがいい。それが文章の手際だ、というふうに。~~
日常の所作をとうして子どもに伝えるべきことを伝えていた父露伴、それを自分のものにしていった娘の幸田文、その何気ないと思われる文を見事に読み解く詩人。私ごとき者の入るすきなどまったくない。そのまま紹介させてもらうのがせいいっぱいだ。
この露伴親子の日常が「子どもたちの日本」の根になるということではないか。
親としての露伴は特別だ、娘もまた特別な才能の持ち主だと言ってしまえばそれで事は終わりになるが、私たちの今の日常を考えると、あまりにひどい環境のなかで人になっていかざるを得ない今の子どもたちはあまりにもかわいそうに思えてくる。( 春 )