mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

秋のこくご講座、『手ぶくろを買いに』で発見いろいろ

 13日に行われた「秋のこくご講座」、仙台市は2学期が始まって最初の土曜日。先生たち疲れてたのかなあ? 参加者がちょっと少なくて残念。でも、少なければ参加者一人ひとりの思いや疑問を語れる機会は増えます。そんなふうに前向きに受け止めて、一回一回の会を充実したものにしていきたいと思います。

 さて今回は、「手ぶくろを買いに」の話し合いに参加しました。そして、この作品の魅力や特徴を遅まきながら改めて知りました。
 例えば、一文が長いということ。あんまり考えたことがありませんでした。一例として上げられたのは、

母さんぎつねは、その手に、はあっと息をふきかけて、ぬくとい母さんの手でやんわりつつんでやりながら、「もうすぐあたたかくなるよ。雪にさわると、すぐあたたかくなるもんだよ。」と言いましたが、かわいいぼうやの手にしもやけができてはかわいそうだから、夜になったら、町まで行って、ぼうやのおててに合うような、毛糸の手ぶくろを買ってやろうと思いました。

  ざっと作品を読んだときには、そんなこと全然気づかずにスーッと読み進めていましたが、こうしてみると確かに一文が長いです。逆にこんなに長い一文にもかかわらず、何の抵抗もなくスーッと読めてしまう自分にビックリ。俺って天才? なんてことはないですよね。みんなも同じように何の抵抗もなく読んでいるんですよね。そして、作品をそれぞれに理解し把握している。人間ってすごいなあ。でも同時に問題は、きっとそこにあるんでしょうね。長い文でもスーッと読んでなんとなくわかった気になれてしまうということに。だからこそ子どもと授業をやる前には、文のなかに出てくる助詞や接続詞など言葉の使われ方や関係などについて、少なくとも教師は理解しておくことがとても大切なのだなあと思いました。

 それから作品の情景描写の表現も素敵ですね。作品の前半部には、雪に関わって「真わたのように」とか、「しぶきのように」とか、「白いきぬ糸のように」など、目の前に雪の表情がパッと浮かびます。また作品の最後には「二ひきのきつねは森の方へ帰っていきました。月が出たので、きつねの毛なみが銀色に光り、その足あとには、コバルトのかげがたまりました。」とあります。2匹のきつねをパッと月明かりが照らし仲むつまじく歩く姿と、その足跡にたまるコバルト色の影がある質量感をともなって見えてくる気がします。と同時に、ここまで作品はずっと「母さんぎつね」と「子ぎつね」という親子の関係性で記述されてきますが、最後は「二匹のきつねは」と、対等な関係性が現れてもきます。ここらへんに、作品のもつ一つのテーマ性が見え隠れしているようにも感じました。

 さてさて会の話し合いでは、もっともっといろいろ話し合われました。今述べた母さんぎつねと子ぎつねの関係性の変化を示す表現や記述についてはもちろん、人間に恐れを抱く母さんぎつねと恐れを知らぬ子ぎつねの、それぞれの姿から垣間見える親子の思いのコントラスト。はたまた《子ぎつねは、何で人間の手ではなくて、きつねの手を出してしまったんだろう》、《過去に人間に痛い目にあった母ぎつねは、自分で手ぶくろを買いに行くことはできない。それなのに、どうして子ぎつねをひとりで行かせたのかしら》等々、これらはほんの一部です。
 ここに書いたようなことは、先生方であれば誰もが考え理解していることなのかもしれませんが、多くの発見がありました。自分ひとりでなく、みんなで一つの作品を読むって、ほんとうに楽しいなあと感じました。

 小学校で私は、「手ぶくろを買いに」を習いませんでした。大人になって、今回はじめてきちんと読みました。とてもいい作品だなあ、素敵だなあと思いました。子ども時代に、こういう作品に出会えたらどんなにいいのかなあとも。
 でも、この講座案内のDiaryでも書いたように、「手ぶくろを買いに」は、教科書ではやってもやらなくてもよい付録扱いなんですよね。それを思うと残念です。誰かやらないかなあ? 私やるよという方がいたらご連絡ください。一緒に授業づくりしませんか。(キヨ)

 なお第3回のこくご講座は、12月8日(土)に行う予定です。扱う作品は、
 6年生の「ヒロシマの歌」と、4年生の「木竜うるし」を考えています。

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