mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

誰の学力が一番問われているか、教育委員会を傍聴しよう!

 先週、仙台市の定例教育委員会があった。午後6時からの会議だという。当日の朝、会議があることを知ってショック。早く帰ろうと思っていたのに! とぼとぼ傍聴に出かけた。教育委員会事務局のみなさんは残業ということになるのだろうか。それともサービス残業? お互い、お疲れさま。
 行ってちょっとホッとする。報告事項は2件だけ(早く帰れそうだ)。中心はそのうちの一つ、この春に行われた「仙台市標準学力検査と生活・学習状況調査の分析結果と改善方策」について。具体的な会議内容は、のちほど教育委員会のHPに掲載される会議録等を見てもらうことにして、ここでは印象に残ったこと、感じてきたことを。

 一つは、学力の議論はいつも国語、算数、理科、社会、そして英語の主要5教科の話ばかりということ。まあ標準学力検査をもとにした話し合いだから仕方ないとも言えるけど、じゃあそれ以外の体育や美術(図工)や音楽や家庭科などについての話を聴いたことがあるかというと、残念ながらまったくと言っていいほど聴かない。いうなれば眼中にないのだろう。
 ところが今回はちょっと違った。学力検査は《テストという答えのあるものの学力にすぎない(テストとして測れる学力にすぎない)。答えのない問いを自分の頭で考え表現する学力も考える必要がある。子どもを学力検査だけではなくトータルに把握してほしい》と、東北大学の加藤委員が学力を巡る議論のあり方に意見を述べた。またそれに加えて、子どもたちの学力が実生活と結びついていない点を大きな課題としても指摘した。以前は、そのような学力のあり方を「剥離する学力」と言っていたような気もするが、学力のあり方は依然として変わっていないのだなと思った。教育の目的は子どもたちの人格の完成にある。テストで測れる知育だけでなく、子どもの発達と成長についてもっとトータルに議論をしてもらいたいと思った。そこにこそ教育行政の役割があると思うのだが(どうも仙台の教育委員会は知育偏重のようだ)。

 二つ目は、経済界のご意見番という立ち位置になるのだろうか? 里村委員が学力検査の目標値について質問した。どのように設定しているのか。目標値と比較して何がわかるのか。統計的処理と言えるのかなどなど。ところが教育委員会事務局の説明は要領を得ない。傍聴している私もよくわからない。そのうち里村委員も「私の質問に答えていない」と苛立ちを隠しきれない様子に。そもそも目標値の設定は、学力調査を請け負ったテスト業者が実際には行っていることであって、自分たちが議論して設定しているわけではない。要するに業者任せなわけだ。本人たちがうまく説明できないのも頷ける。しかしながら、それでいいわけではもちろんないはずだけど。経済合理主義の精神に長けた里村委員からするなら、こんな曖昧でよくわからない学力検査に多額の予算を使うこと自体が理解に苦しむことだったろう。しばらく粘り強く質問していたが、もうこれ以上質問しても生産的ではないと判断されたのか「目標値についてはきちんと説明できるようにしてほしい」と要望を述べて話を終えた。傍聴している私もショウモーない議論に消耗した。わかったのは、実施している教育委員会も説明できないような学力検査で、子どもたちもそして学校も振り回されているということだ。

 それにしても学力という言葉は、魔法の言葉だ。「学力が・・・」と言われると、その中身がどのようなものかとか、それが本当に意味あるものなのかどうかなんてことはそっちのけで大変だと大騒ぎになる。そろそろ「学力」幻想から目を覚まして、冷静に教育のあり方を議論してもよいのではないだろうか。(キヨ)