いま、「スローライフ」(筑紫哲也著)を読み返している。2006年初版である。
ここしばらく、時間はあるのに、何をやっても長つづきしないので、古本屋通いも止め、書棚の本をなんとなく引っ張り出している。そんな自分が嫌で早く今の自分を抜け出したいと思っているのだが。
先日、先輩のNさんの便りに「涼しくなり、なんとなく気力も体力も湧き出てきて、仕事ができます」と書いてあり、刺激は強かった。
ところで、「スローライフ」に筑紫さんは、次のようなことを書いていた。
私もその一人だが、外国に長らく滞在する日本人が増えている。しかし、生活または滞在する先はさまざまで、そこでも体験もさまざまだ。ところが、その人たちが、久しぶりの故国での見聞でひとつだけ一致することがある。「こんなに目に光のない子どもたちが多い国は世界のどこにもない」という点である、と。
外国暮らしをしたことのない私は、比較した見方はできないが、この話には(そうだろうなあ・・)と思う。「キレキラした目」は子どもをいう言葉と言ってよい。子どもの「目に光がない」ということは、子どもの姿はしていても、本当の子どもはどこかにいってしまったということになる。たいへんなことだ。たいへんなことなのに誰も騒がない。
これを読んで、20年前のある日の夕方を思い出した。
私の最後のクラスは4年生だった。このクラスの遊びのチャンピオンはW君だった。やることのひとつひとつが本当におもしろかった。ムカシの子どもが目の前にいるようだった。
辞めて2~3か月後ぐらいだったろうか。夕方、隣の学区をひとり、人が変わったような歩き方で歩いてくるW君に会ったのだ。聞くと、「塾に行く」と力ない言葉で返事するのだった。およそ私と一緒の時のW君ではない。体を弾ませて一日中暮らしていたのだから。(Wちゃん、あなたもか)と思いながら、うまく言う言葉も見つからず、「暗くなってきたから気をつけてな」と言って別れたのだった。
筑紫さんは、あとのページで、次のようなことを書いている。
自分のニュース番組で党首討論をやったことがある。その時の第一問は「この国では子どもたちがまちでも野原でも遊んでいない。こんなに目に光のない子どもたちが多い国は世界のどこにもない。そのことをどう思うか、どうするつもりか」だった。党首たちはどこまで専門家だったかはともかく、明快な答えは誰からも出なかった、と。
このニュースは見た記憶はない。でも、明快な答えが誰からも出なかったというのは想像がつく。
とは言いながら、それでいいと思うわけではない。
子どもの目の光を、子どもの近くの人々でどのくらいの人が気にしているだろうか・・・。
「スローライフ」から10年以上経つ。子どもをとりまく環境はますますひどくなっている。ヒトが人になっていくにはどうすればいいのかこそ私たちの責任として真剣に考えたいものだ。( 春 )