mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

猛暑の夏に、「作文と教育」分科会に参加して

 8月10日から行われた東北民教研・茂庭集会には、門外漢ながら「作文と教育」分科会に参加しました。次号「センターつうしん」の特集を何にするかの打ち合わせで、表現がテーマに挙がり、生活綴り方などが話題になったからです。恥を顧みず大胆に、そして謙虚に、それを受け入れてくれる分科会のみなさんに囲まれて、楽しい学習会でした。
 そんな経緯での参加でしたが、多くの刺激を受けました。その辺りをとりとめなく・・・と思います。

 まず私事から。思い出すのは作文が大嫌いだったということ。そして、使う接続詞は決まって「そして」だったということ。そして、そして、そして、そうやって作文を書いていました。また、総じて作文の時間は、何かの学校行事などの取り組みに合わせて行われていたことを思い出します。特にその行事が自分の中に書くべきものを感じさせなくても、作文は書くものとして「強要」されました。子どもにとって(子どもだけじゃないね)書くものがない、あるいは書くことの必要性を感じないのに書くというのは、ある意味「拷問」のように思うけど、それでも書いていたのです。子どもは与えられた世界をまずは生きざるを得ないから。先の「そして」で書く作法は、そういう中で自分なりに見出した苦肉の策なのです。

 どうしてこんなことを言い出したかというと、「作文と教育」分科会の先生たちの取り組みは普段の学校生活の中で日常的に行われていて、自分が受けてきた作文とはずいぶん違うなあと感じたからなのです。同時に、普段から作文を書くとなると、特別(非日常的)なことでもなかなか書けなかった自分を思い、拷問どころか地獄でしょ!とも思ってしまうのでした。きっと作文を書くことが楽しいと子どもたちが思うように誘う(指導する)ことが教師としての腕の見せどころというか、教師の力量ということになるのでしょう。

 ところで私は、作文指導や作文教育、そんなものを果たして受けただろうか? 思い出せない。いや、実は指導なんてなかったんじゃないか。それとも、忘れっぽい私が忘れているだけなのか…。そんなことを思う自分がいるのでした。なぜなら、たいてい作文の時間は、作文のテーマと400字詰め原稿用紙が配られておしまいだったからです。併せて、つぎの一文がよみがえってきます。その文章は、手紙を書かなくなった私たちの日常と、手紙という存在をめぐって書かれたものなのですが・・・。

 もし現在のぼくたちの生活のなかで〈書く〉という活動の場面が・・・ノート筆記、試験、書類、報告書といったものばかりで埋め尽くされているとしたら、そもそもあの作文教育は何のためにあるのか、それはほんの添え物的なもので、けっして真剣なものではなかったのではないかと思われてきます。
 もし、それが真剣なものであったなら、いいかえれば、〈自分の人生を表現する〉〈自分の人生の証人となる〉という問題に関わって〈書く〉ということがもつ意義や働きについて、ぼくたちが自覚する機会やその面白さを享受する機会が十分に与えられ、ひとりひとりが〈書く〉ことにむけて励まされていたら、そしてまたそのメダルの裏表の関係で自分の親しき隣人(友人、親、兄弟、他)が書くものを〈読む〉ことの楽しさや、〈書く―読む〉の人間関係をそのようなものとして生き生きと維持する〈術〉(「生きる」ことの〈わざ〉・技術としての)を身につけることができていたなら、もっと生活のなかに〈書く〉という営みが生き生きと溢れていて、ぼくたちはそれを楽しんでいるはずだからです。(清眞人著『空想哲学スクール』より)

 著者のいう「添え物」という言葉が、そして「ひとりひとりが〈書く〉ことにむけて励まされていたら」という一節が、私の受けてきた貧しい作文の時間の記憶と、そこに欠けているものが何なのかを心の鈍い痛みとともに射貫いていきます。あの孤独で退屈な時間を過ごす私が、今も教室にひとり取り残されて座っています。

 こう書いてきて、やっと自分が何を言いたいのか、言いたかったのかが見えてきます。つまり私が「励まされる」ためには、「励ます」人がいなくてはならないということが。私に向けて、お前の人生を教えてくれ、俺はお前を知りたいのだという相手が、そこにいなくてはならないということがです。そして、その「励ます人」のひとりに、教師もならなくていけないのだということが・・・。ちなみに、「励ます人」としての教師と子どものことについては、このdiaryのまさひろくんの『ばいばい』に想うに書きました。よかったらそちらもご覧ください。

 「作文と教育」分科会は、今年の猛暑にふさわしく? このようなアツい熱い妄想を私に抱かせたのでした。これ以上の熱中症になるといけないので、今日はこのあたりで終わりにします。(キヨ)

(追伸)そう書き終えたのにも関わらず、少し前に手にした本の中に次の一文を見つけてどうしても書いておきたくなってしまいました。お許しを。それは鷲田清一さんの『死なないでいる理由』のなかで、日野啓三さんの『書くことの秘儀』の引用として記されているものです。

 「書く」ことによって「ほんとうのこと」が呼び出され呼び寄せられ、息を吹き
 かけられ血を注ぎ込まれ、影のように亡霊のように、近く遠く明るく暗く立ち現
 れるのであって、「書く」前にホントもウソもない。顔も水脈も陰影もなく混沌
 (カオス)さえもない。「書き方」だけが「ほんとうのこと」と「ほんとうに成
 り切れない」あるいは「ウソでさえもない」こととを分ける。