mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『東北の教育的遺産』発行を喜ぶ

 研究センターから、かつて小機関誌「よみかた東北」にほそぼそと連載しつづけられたものを1冊にまとめた「東北の教育的遺産」が発刊された。
「よみかた東北」発行にかかわったひとりとしてたいへんうれしい。
 この連載に力を尽くした宮崎典男さん・加藤光三さん・吉田六太郎さんは既に故人になられた。現物を見ていただくことのできないのが残念だが、30年近く前から10年ほど書き継がれたものが1冊にまとまったことを喜んでくださっているにちがいない。
 なにしろ、こうした取り組みがなければ「東北の旗手たち」の姿と仕事はバラバラのままで、各県内で知られるぐらいで終わったのだから・・・。
 しかも、戦中の厳しい中で、少しでもよい仕事をしようと連絡をとりあい励まし合った先輩たちが多くいたことに驚かされる。

 40年ほど前、鈴木道太さんのお話を数回にわたって伺ったことがある。鈴木さんは「東北の機関車」と言われた人だ。話は尽きなかった。
 たとえば、「20代の頃、仲間と『土曜会』というサークルを作って集まった。仙台駅前の食堂がたまり。時間で出されると、今度は外でまたしゃべりつづけた。そして夜中に解散。仙台荒浜まで歩いて帰った。」とか、「あるとき、われわれのところに『赤い鳥』の鈴木三重吉が来ることになった。駅に迎えに出ることになったのはオレだ。オレが一番先に会えたのだ。真夏だったので、会場である女子師範の講堂に氷柱を用意し、それで、おしぼりも冷やした。そのおしぼり係がオレだった。時々、持っていく。オレはその仕事がうれしかった。」と、何十年前のことを本当にうれしそうに話してくれるのだった。子どもたちのことを話す様子も、心から楽しそうだった。
 何のトガもないのに、土曜会の仲間は次々と鉄窓の中に入れられた。3年間の拘禁生活を強いられた道太さんは教室に戻らなかったが、戦後の民間教育運動では積極的に支えつづけた。

 宮城の道太さんだけでなく、東北各県に、子どものために創造的な動きをした方がいた。それらの人々は、苦しいなかで結び合っていた。なんと、宮城の広瀬小学校での国語研究会に、かの国分一太郎さんは山形の東根から自転車で参加したと聞いたことがある。
 どんな時代でも、子どものためによい仕事をしようとすれば、人の結びつきが生まれ、仕事は創られていくということを「東北の教育的遺産」は教えてくれる。多くの人に読んでほしいと願う。( 春 )

            f:id:mkbkc:20180820125502j:plain